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ダニエル・デフォーのグレートブリテン島全土旅行記

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 ダニエル・デフォー(Daniel Defoe 1660?-1731)は、一般に ロビンソン・クルーソー の著者として有名ですが、彼の筆によるものは多岐にわたり、数々の政治的パンフレット、経済・実業関係のもの、当時起こった事件のルポルタージュ、そして、クルーソーに代表される小説などなどを精力的に書いています。 デフォーの同時代人であり、「ガリバー旅行記」の著者の、ジョナサン・スウィフトが、創作活動とは別に司祭としての職を持っていたため、食べる事に必死になる必要がなかったのに比べ、デフォーは、とにかく、食べるためにも書かねばならず、さらには、執筆業以外にも様々な事業にかかわりを持ち、破産もしています。残した作品群からもわかるように、色々な物事に鼻を突っ込み、指を突っ込み、生活上の必要性にかてて加えて、あり余る好奇心、活動力も、彼を動かしていたのでしょう。 さて、そんなデフォーによるイギリス全土の旅行記である、 A Tour thro' the Whole Island of Great Britain, divided into circuits or journies 直訳は、「巡回・小旅行に分かれたグレートブリテン島全土の旅」 という3冊に及ぶ著作は、1724年から1727年にかけて出版された、現代で言う、紀行文学の先駆けです。以前のブログポストでも、何回か言及したことのある著作です。ウィキペディア英語版の、 この書に関する記述 によると、18世紀には、この書は、ロビンソン・クルーソーを除けば、デフォーの作品群の中で、最も人気で、経済的にも成功した著作であったということです。が、今では、クルーソー、モル・フランダーズ、 ペスト などの小説に比べ、著名度は下がっています。日本で、翻訳が出版されているかどうかすら、私は知りません。 この書の皮切りである、イースト・アングリア地方をめぐる時、彼は、1722年4月(ちょうど、今から300年前!)に、出発したという事を書いていますが、内容は、彼自身も書いているように、1回の旅行だけで得た情報ではなく、過去の色々な旅行中の見聞内容、または、人から聞いた話なども盛り込まれているようです。ですから、「巡回・小旅行に分かれた」と、副題につけて、ぜーんぶ一気に回ったわけじゃないんだよ、と付け足しています。デフォーは、スパイとし...

メアリ・ウルストンクラフト

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この女性は、メアリ・ウルストンクラフト(Mary Wollstonecraft、1759-1797年)。 日本での知名度は低いかもしれません。フェミニズムの生みの親などとも言われる思想家、執筆家で、現在では、「 フランケンシュタイン 」作家、メアリー・シェリーのお母さん、と説明した方が早いでしょうか。 とにかく、この人の苗字、ちょっと長めの上、変わっています。うちのだんなも、ウルストンクラフトという苗字は、彼女以外には聞いたことがないと言いますし。 前回の記事 で、「フランケンシュタイン」とメアリー・シェリーにふれたので、ふと、彼女の事が頭をよぎり、その波乱万丈の生涯の事をささっと書いてみることにしました。 貧しい家庭の生まれではなかったものの、父親は事業に失敗、金をなくし、家計は火の車。その上、父は、酔っぱらうと乱暴者。情けない母親に代わって、彼女が家庭をきりもりし、後、上流家庭の女性のおとも、家庭教師などをして働き、女性の社会進出の可能性の限界を感じ、やがて執筆にたずさわるようになります。 最初の出版作は、1787年の「Thought on the Education of Daughters、子女の教育についての考察」。ロンドンで、進歩的思想家たちとの友好を広める中、1789年に起こるのが、フランス革命。 彼女は、自由を唄う初期のフランス革命に賛意を示します。 よって、アメリカ独立戦争は支持したものの、既存のものすべてを打ち壊そうとする、フランス革命のあり方に懐疑心を抱き、革命を批判する、時の著名政治家、思想家のエドマンド・バーク(Edmund Burke)著の「フランス革命の省察」(Reflection on the Revolution in France)に激しく反論。 ちなみに、この「フランス革命の省察」は、まだルイ16世などが処刑される前に書かれていながら、血に飢えた民衆による、後のフランス革命の行方を、よく予言しているのだそうです。バークは、この著の中で、 「指導者たちが、人民の人気取りオークションでの入札者となる時、国家を建設するうえで、彼らの才能は何の役にも立たなくなる。彼らは、人民のただのおべっかつかいとなり下がる。人民の道具となり果て、もはや指導者ではなくなるのだ。」 When the leaders choose to ma...

トーマス・カーライルの家

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前回の記事で、ビクトリア朝文豪 ディケンズのロンドンの家 の事を書いたところで、今回は場所を、ロンドンのブルームズベリーからチェルシーへ移し、ディケンズの同時代人で、ディケンズにも影響を与えたというトーマス・カーライルの家の事を書いてみます。訪れたのは、2年前の事なのですが。上の写真は、彼の住んでいた通りの入り口を背景に、テムズ川を臨むように座っているカーライルの銅像。 思索家、評論家、歴史家として、当時は、イギリスの知識人にかなりの影響を与えた人物であったのですが、現在では、その知名度も落ち、学者でない限り、実際に、彼の書いた本を読んだという人も、かなり少ないことと思います。かくなる私も、彼の本は手に取ったこともありません。以前、トーマス・カーライルの著は、シェイクスピア全集と共に、 ヒトラーの愛読書 であったという話を聞いたことがありますが。その著は、名前だけ知れているところで、「英雄崇拝論」「フランス革命史」「オリバー・クロムウェル」など。 スコットランド出身のトーマス・カーライルと妻ジェーンが、現在は超高級住宅地のチェルシーにあるCheyne Row(チェイン・ロウ)に引っ越したのは、1834年。その後、カーライルは、死の1881年まで、47年間、同じ住所に住み続ける事となります。なんでも、入居した際の家賃は、年間35ポンド。現在の値段に換算していくらになるかはわかりませんが、比較的安めの家賃であったという事。これが、死ぬまでずっと同じ値段だったというので、インフレなかったのですね。チェルシーは、この頃はまだ、さほどファッショナブルな場所とは思われていなかったようです。 この家を訪れる前に、イギリス在住のアメリカ人人気作家ビル・ブライソンによる「At Home」(直訳:家にて)という本を読みました。今の段階で、日本語の翻訳は行われていないようですが、この本は、主にイギリスの家、家庭の歴史を記した雑学ノートのような内容で、キッチン、バスルーム、庭などの項目に分けて、過去、イギリス人は、どういう家庭生活を送ってきたかをつづっています。やはり、ブライソン著の科学史「人類が知っていること全ての短い歴史」(A Short History of Nearly Everything)のおうち版の様な内容です。という事で、トーマス・カーライルの家の訪...

ドクター・ジョンソンの家

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ロンドンのフリート・ストリートの雑踏を離れ、迷子になりそうな小路地を入っていくと、ゴフ・スクエアー(Gough Square)という静かな広場があります。広場にぽつねんと立つのは、猫の像。猫の名は、Hodge(ホッジ)。1748年から1759年まで、この広場に面した家を借りて住んでいた、文筆家ドクター・ジョンソンこと、サミュエル・ジョンソン(Samuel Johnson 1709-1784)の飼い猫です。ホッジの記念碑には、 実に良い猫であったホッジは、ゴフ・スクエアーに住んでいたサミュエル・ジョンソンの飼い猫 と書かれ、更にその下には、ドクター・ジョンソンの有名な言葉も刻まれています。 Sir, when a man is tired of London, he is tired of life; for there is in London all that life can afford. 「ロンドンに飽きた時、人は人生に飽きている。なぜなら、ロンドンには、人生が与え得るすべての物が存在するのだから。」 ホッジの像のわきには、何故か、観光客がコインを置いて行っている模様。トレヴィの泉じゃないんですが・・・。 ホッジが見つめる、1700年建設の、サミュエル・ジョンソンが住んでいた家は、現在、ドクター・ジョンソンズ・ハウス(Dr Johnson's House、ジョンソン博士の家)として、博物館になっています。彼が、有名な英語辞書を仕上げたのは、この家の最上階の屋根裏部屋。 サミュエル・ジョンソンは、スタフォードシャー州リッチフィールドの本屋の息子として生まれ、オックスフォード大学へ進みながらも、父が破産し、金銭的問題で中退。25歳にして、未亡人であり20も年上の、エリザベス(愛称テティー)と結婚。ロンドンへ移り住んでからは、ささやかな執筆業にたづさわって生計を立て。「 金銭的見返りもないのに書き物をする のは馬鹿者だけ」の言葉も残しています。生涯あまり裕福ではなく、執筆をせずに、生きて行けるようになり、生活が楽になるのは、1762年に、国から、その功績を認められ、年金をもらうようになってから。 幼児期に皮膚病の一種である瘰癧(るいれき、scrofla)にかかっています。当時は、King's Evilとも...

ターナー、光に愛を求めて

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ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー(J. M. W. Turner)1775-1851の人生の後半を描いた映画、「ミスター・ターナー」(Mr. Turner、邦題:ターナー、光に愛を求めて)は、公開時は、大方の批評家に好評でしたが、実際に見た人の中では賛否両論と意見が分かれていました。私は、気にいっています。 映画と事実を重ね合わせるため、この映画を見た後、Anthony Bailey著、ターナーの伝記「Standing in the Sun,  A Life of J. M. W. Turner」(陽光の中に立ち、J. M.W.ターナーの生涯)も読みましたが、映画での描写以上に、変わった人です。 コヴェント・ガーデン界隈の、床屋の一人息子として生まれたターナー。早くから画才を示し、ロイヤル・アカデミー付属の美術学校へ入学後は、かなり若くして、イギリスの絵画の殿堂、ロイヤル・アカデミーの会員となります。 気がおかしくなり、 べドラム精神病院 につっこまれてしまった母親には、あまり愛情を持たなかったものの、幼い時から、自分の画才を励まし、育ててくれた父親とは生涯親しく、父親が高齢で亡くなるまで、一緒に住むのです。特に床屋業をやめてからは、父は常に、半召使的に、自慢の息子のために、絵の具やキャンバスの用意、その他家の中のきりもりをし。 結婚は芸術の妨げになると思ったのか、生涯結婚せず。「家族に振り回されている結婚しているやつらは好まない。」というような発言もしているようです。 愛人関係にあったとはっきりわかっている女性は2人、両方とも未亡人です。1人はサラ・デンビー、彼女との間には、2人の娘を作っていたものの、ほとんど居を共にすることは無く。2人目は、人生最後の方で知り合ったソフィア・ブース。絵を描くために、足しげく通っていたケント州の海辺のリゾート、マーゲイトで下宿屋をしていた女性で、はじめて知り合った時は、彼女は30で、ターナーは55歳、やがて、下宿屋の女将さんと、客の関係から、愛人関係に変わっていったようです。 私生活に関して、ターナーは秘密主義で、この双方の存在は、内密に通し。また、自分の娘達に対しても、はっきりと公に認知するわけでもなく、金銭的援助もあまりせず。映画では、ターナーの家の家政婦として長年働いたサラ・デンビーの姪、...

スキポール空港の男性トイレとナッジ・セオリー

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今朝、だんなと、アムステルダムのスキポール(Schiphol)空港の話をしていた時、彼いわく、「スキポールの男性トイレの小便器には、ハエの絵が描かれてるんだ、知っちょるか?」 何でも、このハエの絵は、小便が消えて行く穴の、左斜めやや上に彫られていて、男性諸侯は、オシッコをする時に、無意識に、このハエめがけて発射するのだそうです。よって、このトイレを設置してから、小便器のあちらこちらに、オシッコが飛ばなくなり、黄色のしみが、便器のいたるところに付着する事も減り、床に飛び散る事も減り、掃除が大層ラクになったのだそうです。なんでも、床へのおしっこ飛び散り率は、ハエの絵導入後、80%減少。個人宅ならともかく、大勢が使用するトイレでは、かなり意義ある結果です。 このスキポール空港男子小便器のハエ作戦のように、強いることなく、良い方向に人間の行動を持っていくような工夫を、「ナッジ・セオリー」(Nudge theory)と言うのじゃ、と、だんなは偉そうに締めくくりました。 「nudge」とは、英語で、「(肘などで、ちょいちょいと)つつく、つつく事」を意味し、更には、「(肘でつつくようにして、相手を)うながす、うながす事」の意味にも使われます。 最近、行動経済学で話題になっているという、「ナッジ・セオリー」とは、あれしろこれしろと強制的に物事をやらせたり、良くないと思われることを闇雲に禁止するのではなく、他人に選択の自由を残しておきながらも、個人のために、社会全般のために、有益であろうと思われる方向へ、人間の行動を「うながす」工夫。 たとえば、学校の食堂などで、生徒達に健康的な食事を取って欲しい場合は、野菜果物などを、目に付きやすい場所に置くなどもナッジ。人間、スーパーや、セルフサービスの食堂で、同じ品揃えであっても、配列の仕方によって購入するものが違ってくるという傾向があるのだそうです。よって、選択肢はまったく同じであるのに、配列の工夫で、生徒や消費者が、健康に良いものに手を伸ばす確立を上げる事ができるというわけ。 臓器提供者の数が少なく困っている場合は、政府が、死後の臓器提供は、自分からすすんで、やりたくないと申し出ない限りは、自動的に行われる様にするという方針を取る事もナッジ。人間、基本的になまけ癖はあるので、たとえ、自由に変更できても、すでに設置設定して...

博士と彼女のセオリー(The Theory of Everything)

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筋萎縮性側索硬化症(Motor neurone disease)により、体の自由が利かない、イギリスの車椅子の物理学者、スティーヴン・ホーキング(Stephen Hawking )。 以前、テレビで、スティーヴン・ホーキング自身が語る形式の、彼のこれまでの人生のドキュメンタリーを見た事があります。両親は双方オックスフォード大出身のインテリ家庭に生まれ、お父さんは熱帯病の研究者。友達の話によると、子供の頃から、彼の家の食卓では、子供たちも交えて、色々な話題の討論が繰り広げられていたとか。もう、小さな頃から、教えられた物事を鵜呑みにして丸覚え・・・というより、自分の頭でこなして、考え、自分なりの意見を形成し、それを臆せず喋る、という素養が、家庭のバックグラウンドでできてたんでしょうね。 彼自身も、オックスフォード大に進み、パーティー大好きで、あちこちのパーティーやお祭り騒ぎに顔を出しながら、勉強量は、一日たったの一時程度だったとか。にもかかわらず、優秀成績で卒業。こんなのは、 ブリンドン・クラブ などで大騒ぎをしながらも、オックスフォードを優秀で卒業したデイヴィッド・キャメロンなんかと同じ。ただ、キャメロンの取ったはものは、PPE(Philosophy,Politics and Economics、哲学、政治、経済)という学位なので、一般人にとっての、数学や物理系科目の難しさを考えると、この2人を比べたりしたら怒られちゃいますね。それにホーキング氏は、ずっと労働党支持者のようですし。スティーブン・ホーキングは、その後、博士号を取るためにケンブリッジ大へ。オックスフォード大の時代から、徐々に、時に体が思うように動かない事があるのに、気付き始めてはいたようですが、病気が判明するのは、ケンブリッジへ行ってから。そして奥さんとなるジェーンと出会うのもこの頃。 最初の奥さん、ジェーンもドキュメンタリーに登場していましたが、清楚で上品な印象。彼女は、彼の、にまっと笑う大きなスマイルにひかれたような事を言っていました。病気を承知での結婚後、ケンブリッジに落ち着き、3児をもうけたものの、スティーヴン・ホーキングの病気の進行に伴うプレッシャーはもちろん、常に外からの看護師が必要となった後は、24時間プライバシーの無い生活、また、ホーキング氏が有名になった事による、メディア...

イミテーションゲームとアラン・チューリング

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コンピューターの先駆けを考案したとされるイギリスの数学者アラン・チューリング(Alan Turing)を主人公とした「The Imitation Game」(イミテーションゲーム エニグマと天才数学者の秘密)を映画館に見に行きました。アラン・チューリング役は話題のべネディクト・カンバーバッチ。べネディクト・カンバーバッチでは、少々かっこよすぎはしないか、とも思ったのですが、お宅風、数学の天才のイメージをわりといい感じで出していました。 第2次世界大戦中、ドイツ軍が、伝達のためのコード(暗号)を打ち出すために使用したのが、エニグマ・マシン。タイプライター風のこのエニグマからはじき出される、一見意味不明の暗号をやぶり、ドイツ軍の作戦を知る事は、チャーチル率いる戦時内閣にとって、重要課題となります。そこで、政府は、数学者、クロスワードパズルの名人、チェスの名人、暗号破りの名人、その他もろもろを、バッキンガムシャー州のブレッチリー・パーク(Bletchley Park)に一同に集めるのです。そして、戦時中はステーションXと称された、ブレッチリー・パークは、こうした人物達を使っての、コードブレーキング(暗号破り)活動の拠点となります。ステーションXで、働く者は、すべて、自分がどんな活動をしているかについては、近親者にも一切沈黙を守る事を約束する証書にサイン。戦争が終わっても、長い間、70年代半ばに暴露本が出るまで、皆、戦時中に何をしていたかについては、口をつぐんできたのです。このステーションXでの、エニグマの暗号破りの最大の貢献者の一人が、アラン・チューリング。 若くしてケンブリッジ大教授となっていた彼は、戦前から、ユニバーサル・マシンとして、コンピューターの先駆けとなるマシンの創造に興味を持っていた人物。エニグマとのバトルに、ボムと呼ばれたコードブレーキング・マシンを作り(このマシンは、映画内では、彼が少年時代に心を寄せた親友の名を取ってクリストファーと呼ばれていました)、マンパワーで行うと非常に時間のかかる暗号破りを、比較的短時間で行うようにしたのです。エニグマは、ドイツ軍が、24時間おきに、設定を変えるので、設定変更後に受信し始めた暗号の内容を、比較的短時間で破る事は必至。 映画を見る前に、戦時中のブレッチリー・パークに関するドキュメンタリーを見ましたが...

トースト

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スライスしたパンの両面をこんがり焼いてバターを塗り、サクッと一口・・・簡単なのに、ああ、美味しい。トースト(toast)という代物は、イギリスが誕生の地だそうです。その歴史は、「トスト」(tost)と称された中世の頃にまで遡ります。肉汁やスープなどをきれいにすくい取って食べるためのパン切れ(sop、ソップ)が、液体によって、すぐにぐにゃっと解体しないように、前もって、火にあぶって焼く事が多かったのだそうです。 現在のように、スライスしたトーストにバターを塗って食べるのが人気となるのは、17世紀後半になってからということ。そして、ホットドリンクとしては先にイギリスに入ってきた コーヒー人気 を押しのけて、後からイギリスに入り込んだ紅茶が、イギリス国民の飲み物としてのステータスを獲得すると同時に、イギリス人の朝食は、バターを塗ったトーストと紅茶、というのが定番となっていきます。このパンの両面を、火の前にかざして焼く、という習慣は、大陸ヨーロッパには無かったという事で、イギリスを訪れた大陸からの旅行者達が、イギリス人が朝食に好んで食べるトーストというものを、風変わりな習慣として綴った手記などが残っているようです。 イギリスは、食べ物のまずい国、というのがお定まりの語り草となっていますが、パンは美味しいのです。逆に、日本に帰ると、あの漂白されすぎたような輝く白さの、口の中にべたっと張り付く、ねちっとした食パンのまずさにびっくりする事があります。学校の給食で、いつも2枚半出されていた食パンを、毎日のように残していたのは、私のせいではなかった、まずい代物だったのだ!と思うのです。「全部食べなさい」と先生に言われ、どうしても食べきれず、追い詰められた私は、食べるフリをしながら、机の中にパンを突っ込み、後で、こそこそと、ティッシュに包み、カーディガンの下に隠し、トイレに持って行って流していた・・・今だから言える、というやつです。しかも、2枚半のパンについてくるのは、銀色の紙に包まれた、それは小さなマーガリン一個のみでした。マーガリンの包み紙にはいつも、豆知識のような文が書かれたのですが、「サルのお尻が赤いのは、血の色が透けて見えるから」と書かれた包み紙ばかりが、やけに多かった気がします。ですから、今でも、マーガリンと聞くと「サルのお尻が赤いのは・・・」と頭を横切る次第。...

経度を求めて

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米作家、デーヴァ・ソベル(Dava Sobel)による、Longitude: The true story of a lone genius who solved the greatest scientific problem of his time(経度:時代の最大の科学的問題を解決した孤高の天才の実話)という本が一時ベストセラーになっていました。 日本語では、「経度への挑戦―1秒にかけた四百年」というタイトルで翻訳物が出ているようです。 18世紀の時計技師ジョン・ハリソン(John Harrison)が航海に耐えられる正確な時計を作成するための約40年間に渡る苦闘。そして、その約200年後、第一次世界大戦直後、埃をかぶり、倉庫に埋もれたままになっていた、ハリソンの貴重なクロノメーター(chronometer:航海用時計)を再びもとのコンディションに修正しようとするルパート・ゴウルド(Rupert Gould)の努力。 原作は読んだ事がないのですが、この本をもとにテレビ用にドラマ化されたものを見たことがあります。これが、とても、良かったのです。ジョン・ハリソンはマイケル・ギャンボン、ルパート・ゴウルドはジェレミー・アイアンズが演じていました。 ドラマは、18世紀のハリソンと20世紀のゴウルドの話を交互にフラッシュバックで見せ、ハリソンの5つのクロノメーターが作られた背景と、それがいかにゴウルドによって、現在のコンディションに戻されたかを、他の事にはいっさい注意を払わないような、両者の執拗なまでの時計への情熱を共通点として綴っていきます。 当時は、航海の際に、船のいる緯度(latitude)を知る事は、星の観測などで比較的容易に得られたものの、経度(longitude)を的確に知る方法がまだ見つかっておらず、経度を誤まったため船が難破、遭難する事が問題となっていました。その打開には、やはり天体の観測が鍵、と、チャールズ2世により、グリニッジ天文台も設置されたわけですが、なかなか解決策は見つからなかった。 1時間の時差があると、経度は15度違う・・・よって、天体に頼らずとも、基本になる場所の時間(例えばグリニッジの時間)と、船の現地時間(こちらは、太陽の位置によって計算可能)がわかれば、経度の計算もできたのですが、基本の場所の時間を知るには、...

ランス・アームストロング

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「長い間病院じゃあ、退屈だろう。」と、だんなのテニスクラブの友達が、本を4冊ほど買って、うちに持ってきてくれました。全冊、スポーツ関係の本。だんなにどれが読みたいかと聞いたら、「一番短いの持ってきて。」 一番短かったのは、これ、ツール・ド・フランスを1999年から2005年まで、連続7回全優勝した、米のサイクリスト、ランス・アームストロングの自伝、「It's Not About the Bike」(直訳は「それは自転車とは関係ない」:日本で翻訳出版されている邦題は、「ただマイヨ・ジョーヌのためでなく」)。 だんなは、「読み出したら止まらなかった。」と、2,3日で読み終えていました。ランス・アームストロングは、将来のある若手サイクリストとして名声が高まる中、25歳で癌(睾丸腫瘍)となり、本は、癌との闘病生活がかなり大きな部分を占めるので、非常に、共感しながら読めるところもあったようです。それじゃ、私も、と読んでみました。 ***** 17歳で彼を生んだ母。実父と母は、彼が生まれてすぐ別れ、母は後に、2度再婚するものの、ほとんど、母一人子一人で育ち、貧しい中、働きながら、自分を大切に育ててくれた母親への愛着は非常に強い感じです。対して、父権を簡単に放棄した実父と、何かにつけ体罰を与えた継父に対する態度は手厳しく、こきおろしています。 サイクル・レースの途中で、苦しくて脱落しそうになると思い浮かぶのも母との会話、 「そんなのやめちゃえばいいじゃん。」 「お前、決して、物事を途中で投げ出してはだめなのよ。」 何でもすぐあきてやめる私には耳の痛いお言葉。 また、もうひとつ、彼の力となる母親の言葉は、 「全ての逆境をチャンスに変えなさい。」 最初は水泳に熱中、そしてトライアスロンのレースに参加してこずかい稼ぎを初め、自転車を始めるのは16歳の時。その後は、自転車一筋。段々と、注目を集めていく。この頃の彼は、貧しい家庭に育って、馬鹿にされたくない、自分の価値を証明してやる、と好戦的な「怒れる若者」だったようで、レースの仕方もその性格を反映していたようです。映画 「炎のランナー」 のエイブラハムスの様なタイプだったのでしょう。 将来の見通しは明るく、レースにどんどん勝ち、スポンサーも付き、家も買い、ポルシェも買い・・・そしてや...

ボタン革命

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古いお菓子の缶に、じゃらじゃら溜め込んだボタン、ボタン、ボタン。どこの家庭にもありそうです。最近は、気にも留めることが無い様な平凡な物も、それが発案され、使われ始めた頃は、生活を一気に躍進させる一大改革を引き起こした物だったりもします。平凡なボタンもしかり。 ボタンがヨーロッパに広がって、頻繁に使われるようになったのは、1330年あたりからだ、という事を、最近読んだ中世(14世紀)の暮らしに関する本で目にしました。 ボタン以前、中世の服は、ざっくりとしていて、ずとんとしたシルエット。要するに、上からざぽっと被れるような形の物、または布を巻いただけの様な物。貴族などは、きちっと閉まっているのが好ましい部分、特に腕の周りなどは、服を体にまとった後、一々、ぴっちりと縫い合わせさせたそうで、ご苦労だった事です。 ボタンが広まった後は、ボタンで閉める前開きの上着なども出来、洋服の形も、体にぴったりフィットの物が作れるようになった。それに、何と言っても、わざわざ、着るたびに縫いあわせ、脱ぐたびに、ぶちぶちっと糸を切る必要も無い。 動物界では、孔雀のように、男性がお洒落で派手な事が非常に多いですが、中世のボタン革命の後、よりファッションに力を入れたのは男性のほうだったそうです。広い胸とすっきりしたウェストの逆三角形体形を誇張するためのボディコン、ぴったりフィットの上着が多く見られるようになり・・・そしてその丈は、自分の引き締まった太ももとおしりをさりげなく見せびらかすため、段々と短くなり。ミニスカートの先駆者は男性だったわけです。 そして、ボタンとは関係ないのですが、この頃の男性ファッションでおかしいのは、靴。これは、先が長ければ長いほど、おしゃれだという観念があったようで、とんがり靴の先が段々長くなり、終いには、階段が上れないような長さの物まで登場。当時、満員電車などあったら、つま先の踏み合いで、大変な騒ぎだった事でしょう。先の部分は、ウールなどをつめて形がくずれないようなっていたそうです。 この靴のくだりを読んで、頭にふと浮かんだのは、以前、日本で流行った肩パット。一時は、肩パットついていないブラウスを探すのが大変だったような気がします。着ていて、いつもパットがずれて、着心地悪く、取り払ってしまった事しょっちゅうでした。今から思えば、どうしょうもないファッショ...

キット・キャット・クラブ

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 「キット・キャット・クラブ The Kit-Cat Club」という本を読みました。 17世紀も終わりに近づいた頃、ロンドンの出版業者ジェイコブ・トンソンを軸に、クリストファー・キャット氏経営の居酒屋で会合が始まったこのクラブの経緯と、そのメンバー達を、当時の歴史を背景に解説してある本です。 キット・キャット・クラブの後世の英国文学・芸術への影響もさることながら、その政治活動は、後のイギリスの行く末を決める鍵になったなどいわれています。 キット・キャットという名の由来は、色々説がある中、クリストファー・キャット氏が焼いて出していたマトン・パイが、キット・キャットと呼ばれ、クラブメンバーの常食だった事から来ているというのが、一番一般的だそうです。また、キット・キャットの言葉のごろが、チット・チャットchit-chat(世間話、雑談)にも似ているところから、マトン・パイを含め、数々の料理やデザートを頬張りながら、酒を飲んで、にぎやかに議論するクラブのイメージに合っていたと。クラブの会合中に、必ず、時の社交界の美女の名を上げて、その健康を祝して乾杯した、という慣わしも有名です。 飲んで食べて議論しての他に、このクラブは、メンバー内の劇作家、詩人、随筆家等を、やはりメンバーの貴族、有権者が庇護、支援するという役割も果たしていたようで、上に書いた出版者トンソンを通じて、作家とそのパトロンの交流の場でもあったわけです。パトロンの貴族達も、作家や知識人を助けることによって、「趣味・教養のある人物」と見られる益があった。 才能はあっても、コネとカネが無いと、なかなか成功できなかったりするのは現代でも同じ。少なくとも、キット・キャット・クラブのメンバーの貴族達は、お馬鹿な血縁者より、才能のある他人のクラブメンバーを支援する傾向があったそうで、才能重視の団体であったそうです。ただ、政治傾向などでクラブに属さない作家は、キット・キャットのパトロンからの庇護はほとんど期待できない、という事実もあり、その点では、全思考、全才能を認めるという、包括的なものでは無かったのでしょう。 当時の、政治と文学の結びつきの強さには、この本を読んで改めて気がつきました。キット・キャット・クラブは、ウィッグ党(Whig)支持であったため、メンバーの作家達...

天は自ら助くる者を助く

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「Heaven helps those who help themselves.(天は自ら助くる者を助く)」 これはチャールズ・ダーウィンの「種の起源」と同日(1859年11月24日)に出版された、サミュエル・スマイルズ(Samuel Smiles)著の「自助論(Self-Help)」の有名な序文です。今年はその出版150周年。 この本の概要は、そのタイトルと序文のごとく、「努力する人間は成功する」。色々な分野で活躍した人物をとりあげ、彼らがいかに努力して成功したかを綴る。ヴィクトリア朝の進歩の気風に合った内容だったか、瞬く間に、ベストセラーに。その後、何ヶ国語にも翻訳されました。1904年のスマイルズの葬式は、当時では、ヴィクトリア女王の葬式に次ぐほど大々的なものだったと言います。 現在でも、セルフ・ヘルプと称される「人生の成功の鍵を教えます」風の本のジャンルは、どこの本屋でも売れ筋だそうですが、この本はそのジャンルの先駆者。 努力次第で、何にでもなれる、夢が実現できる・・・とは確かに、魅力的な考えですが、実際には、「働けど働けど、尚わが暮らし楽にならず」の様な事も頻繁にある。生まれた環境、親の態度で、スタート地点でハンディ・キャップを負ってしまう事もある。ある分野で成功するには、努力にプラス・アルファして、運が必要なのは必至です。 ***** などと書きながら、少し前、こんな話をラジオで耳にしました。 それが何であれ、あるひとつの事(楽器の演奏、スポーツ、絵画、小説を書く、学問、語学習得、料理・・・その他もろもろ)を習得して、上手くなるには、平均1万時間をその事に費やす必要があるのだそうです。いわゆる、その道の達人達は、天才などと騒がれる人でも、それだけの努力をしているのだと。 考えてみれば、ひとつの事に長い時間を費やすというのも、その事が好きで、ある程度の情熱を持っていないと続かない。「xxになりたい」「xxに精通したい」と思った時、限られた自由時間の中、他の楽しい事をする時間を割いてまで、その事に使えるか。毎日、進歩がのろいと思いながら、続けられるか。この1万時間を突破するのは、情熱の証明テストにもなるのでしょう。 子供のうちから、それだけ好きな事を見つけられるというのは、幸運な事かもしれません。当然、子供の方が、脳は...

探偵の誕生

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推理小説は大ファンと言うわけではありませんが、読み出すとはまる方です。 世界最初の架空の探偵は、1841年出版のエドガー・アラン・ポー作「モルグ街の殺人」(The Murders in the rue Morgue)に登場するオーギュスト・デュパン(Auguste Dupin)。そしてその翌年に、英語圏内では一番初めのプロの探偵たちがロンドン・メトロポリタン・ポリスによって任命される。この8人の初代探偵たちのうちの一人に、ジョナサン・ウィッチャー氏がいました。 「ウィッチャー氏の疑惑またはロード・ヒル・ハウス殺人事件」(The Suspicions of Mr Whicher or The Murder at Road Hill House)という題名のこの本、1860年、中流家庭の屋敷、ロード・ヒル・ハウスで実際に起こった殺人事件を追った話です。一部ミステリー、一部雑学物、一部社会風俗史。この手の本は大好きです。 ケント家が住むウィルトシャー州の田舎の館ロード・ヒル・ハウスで、家長のサミュエル・ケント氏の末子が無残に殺される。館は殺人のあった晩、内側から鍵がかかっており・・・。 数日間は地元の人員で捜査が行われたものの、らちがあかず、ロンドンのスコットランド・ヤードから、上記ジョナサン・ウィッチャー氏が事件の解決に送り込まれる。 このロード・ヒル・ハウス事件は、当時の大ニュースとなったようで、一般庶民はもちろん、ディケンズなどの作家までがにわか探偵と化し、自分達の推理を展開し、世間は一大探偵ブーム。自分の推理を手紙でスコットランド・ヤードや内務省、新聞社等に送る人間も多く出てくる始末。 そんな探偵ブームとは裏腹に、殺人事件の捜査により、外見は平常を装いながらも、問題を抱えるヴィクトリア朝中流家庭の内幕が公衆の面前にさらされる事になり、ウィッチャー氏を、徐々に、家庭の秘密を暴く悪魔の様に報道するメディアも出てきたようです。ことわざにあるとおり「イギリス人の家は彼の城」そこに土足で上がりこむ人間に対する嫌悪と、また、当時の探偵や警察官は労働者階級出身であったため、階級からくる偏見も手伝い。 さて、館の背後にどんな秘密が隠れていたかと言うと・・・ この館に移り住む以前、家長のサミュエル・ケント氏の一番目の妻は、精神異常をきたし...