メアリ・ウルストンクラフト

メアリ・ウルストンクラフト(Mary Wollstonecraft、1759-1797年)。日本ではあまり知られた人物ではないかもしれません。フェミニズムの生みの親などとも言われる思想家、執筆家で、現在では、「フランケンシュタイン」作家、メアリー・シェリーのお母さん、と説明した方が早いでしょうか。とにかく、この人の苗字、ちょっと長めの上、変わっていて、覚えるまで苦労しました。うちのだんなも、ウルストンクラフトという苗字は、彼女以外には聞いたことがないなんて言いますし。前回の記事で、「フランケンシュタイン」とメアリー・シェリーにふれたので、ふと、彼女の事が頭をよぎり、その波乱万丈の生涯の事をささっと書いてみることにしました。

もともとは、貧しい家庭の生まれではなかったものの、父親は事業に失敗し、金をなくし、家計は火の車。その上、父は、酔っぱらうと乱暴者。ちょっと情けない母親に代わって、彼女が家庭をきりもりし、後、上流家庭の女性のおとも、家庭教師などをして、働き、女性の社会進出の可能性の限界を感じ、やがて執筆にたずさわるようになります。最初の出版作は、1787年の「Thought on the Education of Daughters、子女の教育についての考察」。そして、ロンドンで、進歩的思想家たちとの友好を広める中、1789年に起こるのが、フランス革命。

彼女は、自由を唄う初期のフランス革命に賛意を示します。よって、アメリカ独立戦争は支持したものの、既存のものすべてを打ち壊そうとする、フランス革命のあり方に懐疑心を抱き、革命を批判する、時の著名政治家、思想家のエドマンド・バーク(Edmund Burke)著の「フランス革命の省察」(Reflection on the Revolution in France)に激しく反論。ちなみに、この「フランス革命の省察」は、まだルイ16世などが処刑される前に書かれたものでありながら、血に飢えた民衆による、この後のフランス革命の行方を、よく予言しているのだそうです。バークは、この著の中で、

「指導者たちが、人民の人気取りオークションでの入札者となる時、国家を建設するうえで、彼らの才能は何の役にも立たなくなる。彼らは、人民のただのおべっかつかいとなり下がる。人民の道具となり、もはや指導者ではなくなるのだ。」
When the leaders choose to make themselves bidders at an auction of popularity, their talents, in the construction of the state, will be of no service. They will become flatterers instead of legislators; the instruments, not the guides, of the people.

これって、今のイギリスの政治現場の描写にぴったり・・・。ちょっと脱線しましたが。

メアリ・ウルストンクラフトと共に、アメリカ独立に影響を与えた「コモン・センス(常識)」(Common Sense)の著者、トマス・ペイン(Thomas Paine)も、フランス革命支持で、バークへの反論として「人間の権利」(Rights of Men)を執筆。これが、また、大変良く売れたようです。

1792年には、ウルストンクラフトは、彼女のもっとも有名な著作「女性の権利の庇護」(A vindication of  the Rights of  Women)を発表。この年の終わり、ウルストンクラフトは、自ら、革命のパリへ趣く。その約1か月後の、1793年1月には、ルイ16世が、革命広場(現コンコルド広場)にて処刑。さらに2月には、フランスは、イギリスに宣戦布告。そして、革命は、バークの予言のように、その醜い面を見せ始め、あいつも敵なら、こいつも怪しいと、次々にギロチン。さらには、宣戦布告後、パリのイギリス人は、敵として見られ、彼女も身の危険を感じ始めるのです。やはりパリに来ていたトマス・ペインは、「王を処刑にする必要はない」と、意見したことから、逮捕され、投獄。それでも、ひょんな間違いから、なんとかギロチンを免れます。メアリはメアリで、知り合ったアメリカ人実業家と恋仲になり、彼の妻と偽ることで難を逃れます。後に、二人の間には娘、ファニーが誕生。1795年、イギリスに戻ったメアリは、彼の浮気を発見、傷心し、自殺しようと、パトニー橋(Putney Bridge)からテムズ川に身を投げるものの、たまたまボートを漕いでいた人物に救出され、一命をとりとめる。

やがて立ち直った彼女は、思想家、ウィリアム・ゴドウィン(William Godwin)と恋に落ち、子供を身ごもります。彼も彼女も、結婚は、男性による女性の所有という考えを持っており、基本的に結婚に反対であったものの、生まれてくる子供の社会的地位を保つためにと、自分たちは結婚。そして、メアリー・ウルストンクラフト・ゴドウィン(後のメアリー・シェリー)が誕生することとなるのです。が、ウルストンクラフトは、産後すぐ死亡。当時の出産は命がけでしたから。女性の社会的地位の向上、女性の教育の必要性などを説きながらも、最終的には女性の体とそれにかかわる出産という一大作業によって命を落とすこととなるのです。38歳。

女性はこうあるべき、社会はこうあるべき、人生はこうあるべき、結婚はこうあるべき、頭で考えるのは簡単ですが、それを自分で実現しようとすると、理想と現実には当然ギャップができる、ギャップに時に幻滅しながら、自分の考えと行動の矛盾に悩み、妥協しながら生きるというのは、一般人に限らず、著名な思想家たちもみな同じですね。

メアリ・ウルストンクラフトの死後、消沈のウィリアム・ゴドウィンは、彼女の思い出に彼女の伝記を著し出版するのですが、これが逆噴射。彼女の当時にしては、型破りの生活ぶりや、恋愛が、スキャンダルとなり、彼女の評判を大幅に傷つけることとなり、しばらくは、彼女の思想業績は忘れ去られてしまったようです。20世紀初頭になってから、やっと再び作家のヴァージニア・ウルフ、女性参政権運動家ミリセント・フォーセットなどに認められ、再浮上したものの、現代でも比較的著名度は低い感はあります。

コメント

  1. イギリスはの女性たちは、目覚めるのが早かったんですね。この方の発想が、やがて起こる女性参政権運動に繋がるのでしょうか? 

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    1. 同時期の、江戸の中流家庭の女性にどの程度の自由があったか、親の死後、女性は遺産を相続できたか、結婚した後の女性の地位はどうだったか、私は、そのころの日本の社会状況をあまり知らないので、同階級のイギリスの女性の状況との比較して、日本の中流女性が、おくれていたのか、それとも、改善の必要がない程度に満足していたのかは、わかりません。鎖国という内向き的傾向もあったので、フランス革命などは、当然、日常の会話にも出てこないでしょうし。そのうち、日本の社会史も、もっと勉強してみたいのですが。

      ウルストンクラフトの死後は、しばらくの間、その著作より、彼女の波乱万丈の人生に焦点があたっていたそうで、女性参政権運動に与えた影響がどのくらい強いものであったのかも、はっきりわかりません。また、そのあたり、見聞きして、知識が増えたら、本文に補足しておきます。勉強に終わりはないですね・・・。

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    2. 比較的、平和的な女性参政権運動を展開した、ミリセント・フォーセットは、彼女の著を読んで、評価していたという話を読みました。

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