キャプテン・クックと第一回航海

1768年8月25日、イギリスのプリマス港から「エンドエバー号、Endeavour」(努力)という名の船が、西へ向けて旅立つ。目的地は、南太平洋に浮かぶ島、タヒチ。船長は、キャプテン・ジェームス・クック(James Cook)。当航海の一番の目的は、タヒチにおいて、金星が太陽を横切る(Transit of Venus)のを観測する事。このキャプテン・クックの有名な、第一回航海の出発から、250年が経ちました。

第一航海に至るまでのキャプテン・クックの略歴

ジェームズ・クック(1728~1779年)は、イングランド北部のヨークシャー州の村に生まれます。父は農場の労働者。17歳にて、ヨークシャー東海岸にある漁村ステイス(Staithes)の雑貨店で働き始め、やがて、店主の紹介で、やはりヨークシャー東海岸にあり、ステイスより少々南へ行った、港町ウィットビー(Whitby)にて、石炭搬送船に乗って、船乗りとしての見習い奉公を始めます。そのうちに、イギリス海岸線のみでなく、北海を渡り、ノルウェーやバルト海への航海にも参加。やがて、才能を買われて、船主に、船のキャプテンになる誘いを受けますが、彼は、何故かこれを断り、イギリス海軍に加わるのです。これが彼の運命の分かれ道。

1756年に勃発するのが、イギリスが、フランスを相手に、海外領土をかけてカナダ、インドなどで戦う7年戦争。その名の通り、この戦争が終わるのは、7年後の1763年。クックは、戦争最初の2年は、北大西洋を巡視、後には、カナダで活躍し、1759年9月の、決定的な戦いとなるケベックの戦い(エイブラハム平原の戦い)への準備として、航海が難しいという、セント・ローレンス川の測定観測を行い水路図を作成し、ジェームズ・ウルフ(James Wolfe)将軍率いるイギリス軍が、セント・ローレンス川から上陸するのを、大幅に助ける役割を果たしています。

イギリスが、カナダでフランスを破った後、クックは、今度は、カナダのニューファウンドランドとラブラドールの海岸線の海図作成を指示され、1762年から5年間で、辛抱強くこの任務を完了。この期間中、ニューファウンドランドの南部沖の小島で、日食を観察し、この時のクックの観測の記述が、イギリスの科学学会であるロイヤル・ソサイエティ(王立協会)で発表されると、クックは航海技術、海図作成技術のみならず、天文学にも才能を持つものとして認められることとなります。こうして、1768年、ロイヤル・ソサイエティと海軍が共同で計画していた航海の長官として、両団体から敵役者として選ばれたのが、キャプテン・クックとあいなるわけです。

キャプテン・クックの第一回航海(1768-1771年)

第一航海で、クックにかせられた使命は、まず、冒頭の記述の通り、タヒチでの、金星の観測。金星が太陽面を横切る予定日の一か月前には、タヒチに到着するようにとの指示を受け出発。タヒチは、キャプテン・クック出発の数か月前の、1768年4月に、世界一周航海から戻った、サミュエル・ウォリス(Samuel Wallis)が、約1年前に発見したばかりの土地で、ウォリスは、島を、時のイギリス王の名を取り「King George the III's Island、ジョージ三世島」と命名。ですから、観測を行う場所がタヒチとなるのは、出発すぐ前の決断となります。クックは、ウォリスから、タヒチ島に関する情報を得ることができたようです。

観測後、第二の指令は、海軍からのもので、まだ、ヨーロッパ人にとっては謎の部分が多かった南半球で、新しい領土となりえる場所を探索すること。もし、そのような土地にたどり着いたら、土地の調査、動植物の観測採集、有用な鉱物があればサンプルの採集、云々。

乗組員以外で、この航海に同乗する著名人は、植物学者で、後に40年以上、ロイヤル・ソサイエティ会長の座を占める事になる、ジョゼフ・バンクス(Joseph Banks)。裕福であった彼は、この航海の資金の一部を出費し、その引き換えに、航海に同乗する権利を得ます。やはり植物学者のダニエル・ソランダー(Daniel Solander)も同行。写真のない時代ですから、探索先での、風景、原住民、動植物などの記録のため、2人の画家、アレクサンダー・バッカン(Alexander Buchan)と、シドニー・パーキンソン(Sydney Parkinson)が、バンクスに指名されて、参加しますが、前者はタヒチ到着後すぐに病死、後者は、帰途、船が南アフリカへと向かう海上で病死。

エンデバー号は、クックには馴染みの、ウィットビーで造船された石炭搬送船を改造したもの。この手の船は、沢山の積み荷を乗せることが可能で、丈夫であるそうですが、乗組員の人数のわりには、小さく、船内きちきちであったようです。

タヒチ

サミュエル・ウォリスが、タヒチを去り、キャプテン・クックが到着するまでの間に、タヒチには、フランス船も訪れ、この際、フランスの船員たちは島の女性たちと、かなり自由に関係を持った模様です。以前、バウンティ号とピトケアン島という記事で書いたように、タヒチの自由で色っぽい女性たちは、ヨーロッパ人の間で評判となり、天国のような島のイメージを得るのです。エンデバー号の一行も、キャプテン・クックを除いて、ほぼ全員、島のねーさんたちと良い中になったとか。これが災いして、タヒチでは、今まで無かった、性病が広がり始める原因となるのです。一時、金星観測のための機材が盗まれるというハプニングがあったものの、原住民たちとの関係は良好で、天体観測も無事終了。

キャプテン・クックによるニュージーランドの地図
ニュージーランド

南半球にあるのではないかと信じられていた巨大大陸を探しながら、エンデバー号が、次に行き当たるのが、ニュージーランド。ニュージーランドは、オランダ人、アベル・タスマン(Abel Tasman)によって、クックが訪れる約100年以上前の、1642年に発見されているのですが、彼が、地図に残したのは、北島の西海岸の一部のみであった上、島と言う認識がされず、大きな大陸の一部と思われたようである上、以来、ヨーロッパ人による訪問は一切なかったと言います。キャプテン・クックは、ニュージーランド沿岸を一周し、この土地が、北と南の2つの島であることを確認し、綿密な地図を残し、2つの島を隔てる海峡は、彼の名を取り、クック海峡(Cook's Strait)となります。

原住のマオリ族は、好戦的で、クック一行も、最初は上陸にてこずったようですが、友好的なマオリとも遭遇し、物々交換なども行い、シドニー・パーキンソンは、マオリ族たちの絵も何枚か残しています。

オーストラリア

オーストラリアも、やはりオランダ人により、ニュージーランドより早く、1606年に発見されており、ニューホランド(New Holland)という名がつけられていました。その後、オランダの探索により、北西部及び南部の海岸線の地図なども作られており、実際イギリス船もオーストラリアの北西部に、1688年にやってきているのです。

ニュージーランドを去り帰途に着く行路を決める際、キャプテン・クックは、このニューホランドの東海岸を北上することを決定。船がニューホランド南東の突起部に近ずいた時、はじめて、陸地を目撃したのが、ヒックスという人物であったため、この地は、ポイント・ヒックス(Point Hickes)と名付けられます。

ヨーロッパ人によって初めて記録されたカンガルー
シドニー・パーキンソン
一行は、ここから海岸線を沿って北上し、碇泊するのに具合が良い湾を見つけて、ここに碇を降ろす・・・ここが、ボタニーベイです。ボタニーベイ(Botany Bay、植物湾)という名は、この周辺に、ヨーロッパでは知られていなかった多くの植物が生えていたため。植物学者の2人、バンクスとソランダーは意気揚々と、ここで観測と採集に励むのです。バンクスは、後に、イギリスの罪人たちを、このボタニーベイへ送ってはどうかという意見をイギリス国会に提出し、クック一行が、この地へ足を踏み入れた18年後には、イギリスからの初めての囚人たちを乗せた船隊が、オーストラリア東海岸にたどり着き、オーストラリアは、罪人の島送りの場となっていくのですが。

ボタニーベイを去った一行は、更に東岸を北上し、やがてグレート・バリア・リーフのサンゴ礁で、エンデバー号は船底を破損。一時上陸して修理を行い、更に、北上。

Captain Cook taking possession of the Australian Continent 
on behalf of the British Crown AD1770
by Samuel Calvert
オーストラリア東岸の北端に位置する島の一つに上陸したキャプテン・クックは、「ジョージ3世の名のもとに、この東海岸一帯をイギリスのものとする。」と、原住民はさておき、ちゃっかり宣誓し、イギリスの旗を掲げる。よって、現クウィーンズランド州に属するこの島は、ポゼッション島(Possession Island、所有島)と呼ばれます。上の絵は、後の19世紀に描かれた「キャプテン・クック、イギリス王室のためオーストラリア大陸の所有宣誓、1770年」という長たらしいタイトルで、この時の模様を描写したもの。絵は下のサイトより拝借。
https://www.ngv.vic.gov.au/explore/collection/work/43724/

エンデバー号は、ここから行路を西へ向け進み、無事イギリスへたどり着きます。前回の記事に記したよう、キャプテン・クックのこの第一回航海は、ザワークラウトやレモンを含むビタミンCを含んだ食べ物を、船員に配給するという配慮により、壊血病での死者を一人も出さなかった事でも知られています。また、クックは、当時には目づらしく、船内での清潔さにも、かなり気を使ったようです。それでも、上記の通り、画家の二人を含む幾人かは、航海中、別の病気で命を落とすのですが。

この後、キャプテンクックは、更に、2回大航海を行います。2回目の航海(1772-75)のハイライトは、イースター・アイランド訪問、そして、南極圏の航海。また、この航海に、クックは、時計技師ジョン・ハリソンによって作られたクロノメーター(航海用時計)を持っていきます。3回目航海(1776-80)では、ハワイを発見・・・ところが、このハワイで、最終的にクックは、原住民に殺され(1779年2月14日)、船は、キャプテン・クックなしで、イギリスへと戻ることになります。残酷な最後を遂げるキャプテン・クックですが、200年以上も前にして、現在の人間でも、一生のうちに見ることもないような、当時は未知の場所を、多々訪れたというのは、やはりすごい話です。

いずれにせよ、この第一航海にて、後にニュージーランドとオーストラリアが、大英帝国の一環として取り込まれ、英語圏となる将来が決まる事となるのです。

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