目から鱗!セント・ポールのキリスト教への回心

ロンドンは、セント・ポール大聖堂の、セント・ポール(St Paul、日本語では聖パウロと呼ぶのが一般的でしょうか)。実際にキリストと関わりのあった最初の12使徒のひとりには入っていなかった彼ですが、時に使徒の一人と考えられ、キリスト教というものが、ユダヤ教の一派としての存在から、独立した、世界宗教へとなるのに貢献した人物と見られています。一体どんな人だったのか、ちょいと見てみましょう。

ローマ帝国のTarsus(タルスス、現トルコ内)という地で生まれた彼。もともとは、ソウルという名の、保守的ユダヤ教信者で、最初はユダヤ教の一派としてはじまったキリストの教えを広げる者たちを、ユダヤの神への冒涜者たちと見、糾弾する側にあった人間です。

キリスト教信者の中で、最初の殉教者とされる聖スティーブン(ステファノ)が、ユダヤの神を冒涜したとして、石打の刑(上から大勢に石を投げ落とされる処罰)で死んだ際にも、当然と言わんばかりに、ながめていたソウル。その聖スティーブンの処刑のあった夜から、ソウルは、昔からのユダヤ教を守るため、エルサレムで、キリストを信仰する者たちを、女子供問わず、捕まえ、ユダヤ教司祭の前に狩り出し、糾弾。

カラヴァッジョの「ダマスカスへの道中での回心」
さらに、ソウルは、ダマスカスまでおもむき、そちらでも、こうした謀反人どもを捕まえて、エルサレムに引っ立てて戻ろうと、連れと共に出かけます。が、このダマスカスへの道中、いきなり天中に現れたまばゆいばかりの光に、目がくらみ、馬から転がり落ちる。上の絵は、この瞬間を描いた、カラバッジョによる「Conversion on the Way to Damascus、ダマスカスへの道中での回心」です。

セント・ポール寺院正面ペディメント
セント・ポール寺院正面入り口の上のペディメントに掘られた彫刻も、このセント・ポールが光に打たれた、回心の瞬間を描いています。

光に続いて、空から声が聞こえてくる。新約聖書の「使徒言動録(Acts of Apostles)」によると、その声は、

Saul, Saul, why persecutest thou me? (9-4)
ソウルよ、ソウルよ、なぜに、汝は私を糾弾するのだ?

と、聞いたといいます。おどろいたソウルは、誰かと、その声に尋ねたところ、声はイエスだと答える。そして、立ち上がり、ダマスカスの市内へ入るよう、ソウルに言う、「そこで、汝がしなければならぬことを告げられるであろう」と。まばゆい光に盲目となったソウルは、連れと共にダマスカスの市内へ。

ダマスカスには、あるキリストの信者、アナニアス(Ananius)という人物がおり、彼の前に、神が姿を現し、3日間盲目のままのソウルの元へ行き、彼の目に手をあてがい視力を回復させるよう告げる。アナニアスが、「その名の者は、エルサレムで貴方の信者にひどい仕打ちをした者では?」と聞くと、神は、「彼は、教えを広く普及させる媒体として選ばれた。そのために、我の名のもとに、どれだけの困難を乗り越えなければならないかわかるであろう。」そこで、アナニアスは、ソウルを探し当て、彼の目に手を当てると、ソウルの視力が再び戻るのです。「使徒言動録」によると、

And immediately there fell from his eyes as it had been scales: and he received sight forthwith, and arose and was baptized. (9-18)

そして、瞬く間に、目から鱗が落ちるかのように、ソウルの視力は戻り、ソウルは立ち上がると、洗礼を受けた。

・・・目から鱗が落ちる?これって、日本語のイディオムにもありますね。日本語の「目から鱗」の語源を調べたところ、「語源は聖書にあり」と書かれていました。これは、本当に目から鱗。こんな一般的な日本語の表現の語源が、セント・ポールのキリスト教への回心にあったとは。聖書が、日本にやって来て、翻訳された後に、使われ始めた表現なのでしょうが、今では、すっかり定着。魚介類が大好きなお国柄、この「う・ろ・こ」というのが、妙にしっくりして日本に現地化していますね。しかも、この表現は、現在のイギリスでは、日本ほど頻繁に使われていません。また、イギリス人でも、「目から鱗が落ちる」という表現は知っていても、語源が何か知らないという人は多いと思います。

こうして、鱗が落ちた新たなる目で、ソウルは名前を、ローマ風のポール(パウロ)と変えて、キリスト教の熱狂的糾弾者から、今度は熱狂的支持者へと大変身を果たすのです。まずは、エルサレムに戻り、使徒たちと会談し、そして、布教の旅へと繰り出す。

ポールは、なんでも布教のために、西方へと約1万マイルも歩き回り、更に航路で旅をします。上の図は、我が家にある聖書の中に挿入されている、セント・ポールの旅の行路を示したものです。なにせ、分厚い本の真ん中に挿入されていたものを写真で取って載せたので、少々見にくいかもしれませんが、感覚的に、どの辺りへ足をのばしたかはわかるでしょうか。

今までは、イエスの教えは、ユダヤ人の間でだけで、信者を増やしてきた、いわば、ユダヤ教の一派であったのを、ポールは、ユダヤ信者ではない一般人(Gentile、ジェンタイル)への布教も始めるのです。これは、使徒たちの間で意見の食い違いが起こる問題となり、西暦49年、エルサレムで行われた使徒たちの間の会合で、ついに、一般人は、まず、ユダヤ教へ改宗することなく、ユダヤの法や風習に従うことなく、そのままイエス・キリストの名のものとに洗礼を受けられる事となり、キリスト教は、ユダヤ教と袂を割って、独立宗教としての道へ進み始める。

世界の終わりがすぐ来ると信じていたポールは、それまでに、できるだけ多くの人間に洗礼を受けさせ、神の審判が下るときに救われるようにと、かなり危機感と使命を持って、歩き回ったようです。

ポールは、布教の間、滞在した先々で、小さなキリスト教のコミュニティーを設立しては、自分が去った後も、手紙でやりとりをし、アドバイスや指示を送り、まとまった団体としてのネットワークを確立していく。こうした、ポールの手紙の数々は、福音書よりも早く書かれた文献とされ、新約聖書の一部を形成しています。

小アジアでの布教の後に、ついに西暦50年あたりにヨーロッパ(現ギリシャ)に足を踏み入れての布教も開始。現ギリシャ北東部にあるフィリパイ(Philippi)で、まず、一番最初に、ポールにより、キリスト教に改宗したヨーロッパ人は、リディアと言う名の女性であったと言います。その他、テッサロニカ(Thessalonica)、アテネ、コリンス(Corinth)などで布教活動を続け、特にコリンスでは、テント製造者として、屋台を持って生計をたてながら、かなり長く滞在したようです。

エルサレムへ一時戻ったポールは、ユダヤ教でない一般人(ジェンタイル)と共に、ユダヤ教神殿に入ろうとし、ユダヤ教信者たちに殺されかねない陰険なムードとなり、ローマ兵の介入で何とか一命をとりとめます。そのまま、ローマ軍がポールの身柄を拘束、社会不安分子と見られ、しばらく、エルサレムから北へ行った海辺の町、シーザリア(Caesarea)で、2年ほどの軟禁生活。エルサレムに送り返される事が決まった時、ポールは、エルサレムで裁判を受けるより、ローマ市民としてローマでの判決を受けることを希望し、紀元60年頃、ローマへ送られる事となります。

ローマでは、なんでも5年ほど、軟禁生活を過ごしたという事ですが、家に見張りはいたものの、布教や執筆を自由に続けていたようです。その後の彼に何が起こったのか、聖書の記述は、このあたりで途切れてしまい、定かではないそうです。

この時期にローマで始まるのが、ネロ帝による、公式キリスト教迫害。ポールは、このネロ帝時代のキリスト教迫害の犠牲者となり、処刑されたというのが、一般的に信じられています。64年に起こったローマの大火災。一般市民の間に、ネロ帝が自ら放火したのでは、という噂が飛び交い、ネロ帝は、放火したのは、自分ではない、キリスト教信者だ・・・として、迫害を開始。キリスト教信者は、世界の終わりが来る来る、と言いながら、そんなものは一向に起こる気配もないから、自分たちで火をつけたのだ、というわけ。また、ローマ帝国としては、唯一神を信じるキリスト教は、ローマ皇帝の権力に逆らう者たち、または、ローマ社会に密着したローマ神話の神々を否定する好まざる者たちとして、根を張る前に切ってしまおうと。

ポールは、ローマ市民権を有したので、十字架にかけられるような、苦しい死にざまは免れ、斬首刑。よって、セント・ポールは、この処刑された剣をシンボルとし、よく絵画では、剣と共に描かれます。同じ時期に、やはりローマで布教を行っていた、使徒のリーダー格、セント・ピーター(聖ペトロ)も、ネロの迫害で命を落とし、「主と同じ十字の刑では恐れ多いので。」という事で、彼は、さかさまに十字架にかけられることとなるのです。

同時期、ローマ帝国内の西の辺境地イギリスで何がおこっていたかというと、ローマの支配に反旗を翻した、ブーディカの反乱が、60~61年ころと、やはりネロ帝の時代に起こっています。

キリスト教信者でない者にとっては、ダマスカスの回心は、ただのポールの幻影か、後から作った話だろうという事になりますが、ポールの布教が無かったら、キリスト教と深く関わりあっていく、ヨーロッパの後の歴史はもっと違ったものになっていたかもしれません。

コメント