セント・ポール大聖堂の歴史

"St. Paul's Survives" by Herbert Mason
クリストファー・レン(Christpher Wren)設計の、現在のセント・ポール大聖堂(St Paul's Cathedral)は、1666年の,ロンドン大火の後の灰の中から築きあげられた建物です。以来、ロンドン・シティーのシンボルとして立ち続け。「オリバー!」「メアリー・ポピンズ」などのロンドンを舞台とした映画でも、セント・ポールの丸ドームが何度も登場します。

上の写真は、1940年12月29日の夜に、フリートストリート近郊の、デイリーメイル新聞社の屋根から撮影されたもので、戦時中のロンドンの写真の中でも、最もアイコニックなものとして有名です。題名は、「St.Paul's Survives」(セント・ポール大聖堂生き残る)。1940年の9月から始まったドイツ空軍の爆撃(ブリッツ)は、時にロンドン市民を脅かしていましたが、この日は、第二のロンドン大火と称される日で、ドイツ軍が集中的にシティーを爆撃し、それによって、引き起こされた火災で、シティー内の多くの建物が破損、崩壊し、更には多くのロンドン市民が命を落とした日。

「何がなんでも、セント・ポールを守れ。」のチャーチルの指令のもとに、周辺の建物が燃え落ちるる中、聖堂の外で消防士たちが火の手と戦い。また、大戦中、セント・ポールを守るために、空襲の際にドームに登り、落ちてきた爆弾がさく裂する前に、ドームから降り落としたり、火の粉を消したりする、セント・ポールズ・ウォッチ(St Paul's Watch)と称されたボランティアがいたのですが、この人たちも、ドーム上で必死の鎮火活動。これって、命がけ、究極のボランティアです。彼らの尽力を讃えた記念碑は、大聖堂内に見られます。

チャーチルは、ロンドン、シティーの心臓でありシンボルであるセント・ポール大聖堂の重要さを理解していたのでしょう。生き残ったセント・ポールの姿はロンドン市民の意気向上にかなりのインパクトがあった事と思います。確かに、シティー内に煙が巻き上がる中、セント・ポール大聖堂が、多少の被害を受けながらも、たたずむ姿は、妙に神々しいものがあるのです。

一番最初のセント・ポールのイメージ画
さて、ここで、時間を大幅に巻き戻します。一番最初に、この地に、セント・ポール(聖パウロ)に捧げられた教会が建てられたのは、アングロサクソン時代に遡る604年のこと。ここは、その以前の、ローマ時代には、女神ダイアナのテンプルがあった跡地である、という噂がありますが、これを裏打ちする、確固たる考古学的証拠は、今のところ見つかっていないそうです。最初の建物は、木造であり、675年に火災で焼失。10年後に立て直された教会は、962年に、バイキングの襲撃により破壊。この後、石で建て直されたものも、1087年にロンドンの火災で焼失。

ロンドン大火前のセント・ポール大聖堂
イングランドの新しい征服者ノルマン人は、焼け跡に、大規模な聖堂を立て直す作業にかかり、とりあえずは、1240年に終了。20年後には、再び拡大工事を始め、これが終了するのが、1314年と、なんと最初の着工から200年以上経っています。壁は石でできていたものの、屋根は、石だと重さを支えきれないため、木製。現在のものより大きかったようで、イギリス内では最大の建物。尖塔も高く、ヨーロッパでも1,2を競う高さのものであったようです。

尖塔を無くした後の旧セント・ポール大聖堂
が、この尖塔は、1561年に、雷に打たれ、取り壊された後、作り直されることはありません。

ヘンリー8世の修道院解散の際には、内部の彫像なども、熱烈なプロテスタントによっていくつか破壊され、だんだん、おんぼろになっていきます。チャールズ1世の時代に、時の著名建築家でバンケティング・ハウスなどを設計したイ二ゴー・ジョーンズにより、西門に古代ギリシャローマ風のポルティコが付け加えられたくらい。その後、引き起った清教徒革命で政権についた、オリバー・クロムウェルの共和制の下で、大聖堂は、なんと、兵士たちの厩として使われる事となり、内部や正面入り口には店が立ち並ぶ始末。

チャールズ2世が、返り咲いた王政復古の後、やっと、おんぼろセント・ポール大聖堂を何とかしようというムードが出てきます。ロンドン大火が起こるのは、クリストファー・レンによる大聖堂修築ブランにOKが出て、さて工事開始をしようという矢先のこと。それでも、不幸中の幸いとはこの事か、大火でロンドンが燃え落ち、大聖堂も、修復不可能な状態となって、それでは、心機一転で、新しい建物を・・・と第5番目のセント・ポール大聖堂建築と相成ったのです。焼け跡の土台から、いくつかのローマ時代までさかのぼる過去の時代の遺品なども見つかります。

当時は、イギリスの教会の塔のてっぺんは、尖塔が一般的でしたが、レンは、どうしてもドームを作ることにこだわります。やがて、ドームをしつらえる場所が決まり、そのすぐ下の地面に印をつけるため、とある労働者に、平たい石を持ってくるようにという指図が出され、その労働者が持ってきた石は、どうやら、大昔の墓石の様子。墓石に書かれた文字はほぼすべて解読不明に消え失せていたものの、ただひとつのラテン語の言葉が刻まれているのが読めたのです。その言葉は、「RESURGAM」、日本語の意味は、「我は再び蘇る」。レンは、この予言的な言葉から、不死鳥の様に灰の中から蘇る大聖堂を思い起こし、意欲を燃やしたとか。

ちなみに、この大火で、旧大聖堂内から、ほぼ無傷でサバイバルした数少ない物のひとつは、詩人であり、セント・ポールの司祭でもあった、ジョン・ダンの彫像。これは、現セント・ポール寺院内にも飾られています。下の方に、少しだけ焼け跡が付いていますが、言われなければ、気が付かない程度の被害です。

クリストファー・レンとセント・ポール
新しい聖堂の建設に当たり、レンは、着工にいたるまで、デザインを4つ提出。グリーク・クロス(縦横の長さが同じ十字)の母体の上にドームをのせた3つ目のデザインが本人が一番気にっていたものであったそうで、多額をかけてそのモデルまで作るのですが、それも、あまりに、外国風、カソリック的と、審査官たちに拒絶された後、レンは、目がうるうるとしてきて、少々泣きべそをかいたそうです。やっと、少々カトリックの香りがある丸ドームを持たぬ、ラテン・クロス(縦が横より長い十字)の形の、4つ目のデザインが許可を受け、1675年着工。建築費用のほとんどは、寄付及び、ロンドンに持ち込まれる石炭への課税でまかなわれます。

レンは、建設中に、チャールズ2世から、聖堂を、「装飾的な部分を、多少、元のデザインから離れたもの」にする了解をとりつけ、丸ドームをはじめ、蓋を開けてみると、許可を受けたデザインとかなり違うものとして出来上がるのです。新しい聖堂が使われ始めるのが、1697年。実際に工事が事実上終了するのが、1710年。200年かかった、旧セント・ポール大聖堂に比べ、これは、約35年、とかなり早い方。終了時の君主は、アン女王であったため、聖堂前の彫像は、アン女王です。

彼は、奥さんを早くに無くしたことも手伝い、かなりの仕事中毒で、セント・ポールの他にも、大火後のロンドン内、50以上の教会を設計、ケンジントン宮殿、ハンプトンコート宮殿などの改築増築も手掛け、フル回転。仕事とは言え、自分が頭に描いたヴィジョンが、周りにどんどん建っていくというのも、かなり気分がいいものでしょうね。セント・ポール寺院建築末期には、レンは、進行の直接の管理から、いささか締め出され、影響力をなくしていくのですが、それでも、寺院完成後、亡くなるまで、足しげく、セント・ポール寺院に通い、苦労の果てに築き上げた夢のドームの下に座って、それをながめていたと言います。

レンは1723年に、90歳の長寿で亡くなり、遺体は、セント・ポール内に埋葬され、息子による記念プラークにはラテン語で

ここに、この町と聖堂の建築家、クリストファー・レンが眠る。90年生きた彼は、己の営利のためでなく、公のためにその生涯を捧げた。もし、これを読む者が、彼の記念碑を求めるのなら、周囲を見渡せばよい。

との意味が刻まれています。

大聖堂の地下聖堂(クリプト)には、他にも著名人が埋められていますが、クリプト内で、ドームの真下に当たる特等席に眠るのは、トラファルガー海戦の英雄、ホレイショ・ネルソン。彼の棺の上に据えられた、立派な黒大理石のサルコファガス(sarcophagus、石棺)は、もともとは、ヘンリー8世に使えたトマス・ウルジーが自分の棺用に作らせたものだそうです。ウルジーが、ヘンリーとアン・ブリンとの再婚騒ぎで、王を怒らせた後、王は、この棺も没収し、長い間、ウィンザー城に収められ忘れられていたのを、「ネルソンが死んでしまった、さて、墓をどうしよう」となった際に、「そうだ、ウルジーの棺があった!」と、引きずり出してきたのだそうです。国民の一大英雄の記念碑としてリサイクルしたものを使うというのが、妙にイギリス的で可笑しいものがあります。実際に、ネルソンの遺体が納められているのは、ウルジーのサルコファガスの下にある部分で、この中には、更に木製の棺が収められており、それは、ナイルの海戦で、ネルソンが破ったフランスの戦艦ロリアンのマストを使用して作ってあるそうです。

ワーテルローの戦いの英雄で、後に首相にもなったウェリントン公爵(アーサー・ウェルズリー)も、重要人物であったため、ドームの真下に置きたいが、すでに、その場には、ネルソンが陣取っている・・・そこで、ネルソンの棺の上に、ウェリントンの棺を宙ずりにしたらどうだ、というびっくりするような意見もあったようです。が、無難に、ドームの真下に吊るすのはあきらめ、別にウェリントン公のための場所を設けて棺がしつらえられています。地下の棺の他にも、ウェリントン公の巨大記念碑は、地上聖堂内にも設置されていますが、ちょっと場違いな雰囲気のある、この仰々しい記念碑は、なんと完成まで60年ほどかかったそうで、大聖堂完成にかかった年月の約倍の時間が費やされています。

他には、画家のターナー、ジョシュア・レイノルズ、ジョン・エヴェレット・ミレーなども、地下聖堂に眠ります。

チャーチルの葬儀
ウィンストン・チャーチルの葬儀は、大々的に、ここで行われたものの、彼の遺体はオックスフォードシャー州に埋葬。最近ここで行われた葬儀では、論議を呼んだマーガレット・サッチャーのものが記憶に新しいところです。結婚式は、おとぎの国の結婚式と言われた、亡きダイアナとチャールズ皇太子がここでした。ガイドさんは、「ケイトは、ウィリアム王子との結婚式には、セント・ポールでなく、別の聖堂を選んでましたけどね!」なんてコメントを入れていました。ウェストミンスター寺院とのライバル意識が多少あるのかもしれません。私は、確実に王族の聖堂のイメージのウェストミンスターより、何と言ってもなじみ深いし、庶民派のセント・ポールの方が好きです。

ヴィクトリア女王は、セント・ポール大聖堂を、「汚くて、暗い」とけなし、毛嫌いしていたそうですが、煤けて汚れていた内側も外側も、2011年に終了した、15年もかけた大規模修復および洗浄作業で、かなりきれいになっています。2011年は、また、大聖堂完成が議会により宣言された1711年からの、300年記念でもありましたし。修復終了後の姿を見たら、ヴィクトリア女王も、少しは満足したかもしれません。

エリザベス女王ダイヤモンド・ジュビリー式典
今年90歳で、まだまだお達者クラブの、エリザベス女王は、シルバー、ゴールデン、ダイヤモンド・ジュビリーをすべて、この聖堂で祝っています。100歳は、軽く生きれそうな彼女。ダイヤモンド・ジュビリーの後には、何かあったかな・・・。ガイドさんの説明によると、1897年の、ヴィクトリア女王のダイヤモンド・ジュビリーもこの聖堂内で執り行われるはずだったのですが、聖堂の前に馬車を止めた女王は、内部に入ることを頑なに拒否して、仕方なく、式典は、聖堂の前で行われたそうです。当時は、立憲君主でも、かなりわがままが効いたものです。

上述したもの以外、聖堂内部の他の見どころをいくつか挙げると、

クワイヤ部モザイク天井
著名技師グリンリング・ギボンズ(Grinling Gibbons)による、クワイヤ部の木造の彫り物は、命を持っていて動き出しそうなほど、見事です。クワイヤ部は、聖堂内で一番最初に作られた部分という事ですが、ここの天井のモザイクは、後世の、1891年から1904年にかけて作成されたもので、それは、ゴージャス。レンは、もともと、天井をモザイクで飾りたかったらしいのですが、やはり、これには、カトリック的で派手すぎ、また、値段的にも高いとの反対があって、建設時には施行されなかったそうなのです。

宙に浮いているようならせん階段
正門わきの南西のベルタワー内にある、支えがなく宙に浮かぶようならせん階段は、いくつかの映画のロケに使われたそうです。ジョージ3世を主人公とした、「英国万歳!」という映画では、狂気の王が、夜中に、この階段をくるくる、女王と家臣に追われて駆け上がるシーンがありました。ハリポタ映画にも登場。

南西ベルタワー(上の写真右手の時計のあるタワー)内に釣り下がる鐘は、時を告げるグレート・トムとグレート・ポール。グレート・ポールは大聖堂より以前に鋳造された鐘であるそうで、今も午後1時を鳴らします。グレート・トムは、毎時間を鳴るとともに、王族や重要な教会関係者の死の際にも鳴らされます。正門反対側北西のベルタワー(上の写真左手のタワー)に収められるのは、メロディーを奏でる12の鐘。

セント・ポール寺院が、観光客から入場料を取るというのは、なんと完成少し前の1709年から行われている事なのだそうです。この2ペンスの入場料を、19世紀に、一時的に取りやめたところ、1時間のうちに2000~3000人もの人間が入場するという大騒ぎとなり、しかも、中で大暴れをする、弁当を食べ始める、犬を連れて入る、子供が遊びまわる、物乞いが商売を始めると・・・実に収拾のつかぬ事態に陥ってしまったそうです。入場料を取っていても、そういう問題は起こっていたようですから、無料となってはなおさらだったのでしょう。

さて、現在の入場料は2ペンスというわけにはいきませんので、入場したからには、しっかり見て回り、高いところが怖くなければ、ドームには絶対登りましょう。セント・ポール大聖堂のドームと、そこからの景色については、前回の記事を参考ください。尚、この投稿に使用した写真の大半は、セント・ポールの公式サイトより拝借しました。


追記 2019年6月
今まで、セントポール寺院内は、写真撮影禁止でしたが、この6月から、これが解除となり、こそこそせずに、内部で写真を取れるようになりました。この写真禁止という処置は、観光客が、写真を撮るという行為に必死になって、じっくりと実物を見ることがおろそかになる、あまりに大勢が写真ばかり取っているとお互いの邪魔になる、一応、教会であるので、敬意を示すため、などの理由があったようですが、やはり、止めても止めても、カメラを向ける人たちの数は多く、ついに、その波に押されて、写真解禁となった様子。記念の写真を撮りながらも、その場で、目の前にある実物もしっかり眺めることもお忘れなく。

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