ブーディカ
ロンドン、ウェストミンスター橋の北岸の袂、ビック・ベンと国会議事堂をむいて立つ、ヴィクトリア朝に造られたこの像は、ブーディカ(Boudica)。2人の娘を乗せたチャリオットで、ローマ帝国への復讐を胸に突き進む、ケルト人のイケニ族(Iceni、イギリス人は、アイシニと発音する人が多いようです)の女王。
イケニ族は、紀元前1世紀から紀元後1世紀にかけて、イーストアングリア地方(主に現ノーフォーク州およびサフォーク州北部周辺)を支配した民族です。塩の生産や流通で、比較的裕福な領土。ローマ侵略後は、形上はローマ下にあるものの、民族の長は、王として土地の統治を続け、従属国として、ローマ支配層とは友好な関係であったと言います。
ブーディカの夫プラスタグスも、親ローマだったそうです。プラスタグスが、60年(ローマ皇帝はネロの時代)に死亡した際、彼は、領土の半分をローマへ残し、半分を2人の娘に残したのですが、ローマ帝国側は、イケニの土地をのっとり、まだ、11か12歳であったブーディカの娘2人を強姦、ブーディカは鞭打ちの屈辱を見る事となります。友好的な従属国の長に対し、こういった酷い事をするのは、かなりのタブーであったといいます。
怒ったブーディカは、ローマの支配に反旗を翻し、数多くの部族民を率い、まずは、現イーストアングリア地方のエセックス州にあるコルチェスター、そしてロンドン、セント・オルバンズを次々、襲撃し、焼き落とし、大被害を与えます。この3都市は比較的、ローマ軍の防衛が手薄で、ブーディカの軍は、大きな抵抗にもあわず、女子供老人まで虐殺したということ。
3都市を焼き落とした後、ついに、正規のローマ軍と戦いとなりますが、規律正しく効率的なローマ軍により、敗北。ブーディカも、この戦いの際に死んだとされます。この最終の戦地は、どこだかはっきりわかっていないようです。これは、ローマ側が、この最終戦の地が、イケニ族への同情を持ち、反ローマ的傾向のある人間の間での巡礼地となってしまうのを避けるため、わざと伏せてあったという説もあります。
最後の戦地の場所のみでなく、コルチェスターとロンドン、そしてセント・オルバンズに、焼き落とされた建物の跡や、被害を受けた形跡がある事を除けば、ブーディカに関しては、考古学的証拠が非常に薄く、実在しなかった可能性もあるとか。ローマに対して反乱があり、上記3都市が襲撃されたものの、それを率いたのが、果たしてブーディカだったのか。彼女が存在したと言う事は、ローマ帝国の2人の歴史家、タキトゥスとカシウス・ディオの著に残るのみ。タキトゥスによると、ブーディカは服毒自殺をした事となっています。いずれにせよ、彼女は伝説の女王と化して、歴史に名をとどめる事になります。 赤く長い髪をひるがえして戦う、ワイルドな女戦士として。
ブーディカは、ケルト語で勝利(ヴィクトリー)の意。同じ意味の名のヴィクトリア女王は、ブーディカの、破壊的な悪い部分は無視し、強い母、そして悪への果敢な抵抗を示す、という良いイメージ部分のみを抜き取り、自分のイメージと重ね、ヴィクトリア時代に、ブーディカは、人気となります。そして、ウェストミンスター橋の像も設置され。折りしも時は、大英帝国真っ只中。古代の帝国から自由を求めて反旗を翻した女王が、新しい帝国のシンボルとなったのは、皮肉な話だ、という見方もあります。
この像の馬達は、なんでもヴィクトリア女王の持ち馬がモデルだそうですが、実際にブーディカが使ったであろう馬は、もっと小型でごっつい感じの馬です。また、彼女のチャリオットも、金属製ではなく、ゲリラ戦に適した、枝編みの軽量なものだったそうです。
この写真は、2003年に製作された、ブーディカを主人公とした映画「ウォリアークイーン」(Warrior Queen)内で使われたチャリオットで、コルチェスター城の内部に展示されていました。コルチェスター城は、ノーマン時代に建てられた城ですが、ブーディカが焼き落としたローマ時代のクラウディウスの神殿の跡地に建っています。この映画自体は、私は見ていませんが、評判いまいちだったよう・・・。どうやって描かれているか、見てみたい気もします。上手に作れば、ドラマチックな、面白い題材だとは思います。
イケニ族は、紀元前1世紀から紀元後1世紀にかけて、イーストアングリア地方(主に現ノーフォーク州およびサフォーク州北部周辺)を支配した民族です。塩の生産や流通で、比較的裕福な領土。ローマ侵略後は、形上はローマ下にあるものの、民族の長は、王として土地の統治を続け、従属国として、ローマ支配層とは友好な関係であったと言います。
ブーディカの夫プラスタグスも、親ローマだったそうです。プラスタグスが、60年(ローマ皇帝はネロの時代)に死亡した際、彼は、領土の半分をローマへ残し、半分を2人の娘に残したのですが、ローマ帝国側は、イケニの土地をのっとり、まだ、11か12歳であったブーディカの娘2人を強姦、ブーディカは鞭打ちの屈辱を見る事となります。友好的な従属国の長に対し、こういった酷い事をするのは、かなりのタブーであったといいます。
怒ったブーディカは、ローマの支配に反旗を翻し、数多くの部族民を率い、まずは、現イーストアングリア地方のエセックス州にあるコルチェスター、そしてロンドン、セント・オルバンズを次々、襲撃し、焼き落とし、大被害を与えます。この3都市は比較的、ローマ軍の防衛が手薄で、ブーディカの軍は、大きな抵抗にもあわず、女子供老人まで虐殺したということ。
3都市を焼き落とした後、ついに、正規のローマ軍と戦いとなりますが、規律正しく効率的なローマ軍により、敗北。ブーディカも、この戦いの際に死んだとされます。この最終の戦地は、どこだかはっきりわかっていないようです。これは、ローマ側が、この最終戦の地が、イケニ族への同情を持ち、反ローマ的傾向のある人間の間での巡礼地となってしまうのを避けるため、わざと伏せてあったという説もあります。
最後の戦地の場所のみでなく、コルチェスターとロンドン、そしてセント・オルバンズに、焼き落とされた建物の跡や、被害を受けた形跡がある事を除けば、ブーディカに関しては、考古学的証拠が非常に薄く、実在しなかった可能性もあるとか。ローマに対して反乱があり、上記3都市が襲撃されたものの、それを率いたのが、果たしてブーディカだったのか。彼女が存在したと言う事は、ローマ帝国の2人の歴史家、タキトゥスとカシウス・ディオの著に残るのみ。タキトゥスによると、ブーディカは服毒自殺をした事となっています。いずれにせよ、彼女は伝説の女王と化して、歴史に名をとどめる事になります。 赤く長い髪をひるがえして戦う、ワイルドな女戦士として。
ブーディカは、ケルト語で勝利(ヴィクトリー)の意。同じ意味の名のヴィクトリア女王は、ブーディカの、破壊的な悪い部分は無視し、強い母、そして悪への果敢な抵抗を示す、という良いイメージ部分のみを抜き取り、自分のイメージと重ね、ヴィクトリア時代に、ブーディカは、人気となります。そして、ウェストミンスター橋の像も設置され。折りしも時は、大英帝国真っ只中。古代の帝国から自由を求めて反旗を翻した女王が、新しい帝国のシンボルとなったのは、皮肉な話だ、という見方もあります。
この像の馬達は、なんでもヴィクトリア女王の持ち馬がモデルだそうですが、実際にブーディカが使ったであろう馬は、もっと小型でごっつい感じの馬です。また、彼女のチャリオットも、金属製ではなく、ゲリラ戦に適した、枝編みの軽量なものだったそうです。
この写真は、2003年に製作された、ブーディカを主人公とした映画「ウォリアークイーン」(Warrior Queen)内で使われたチャリオットで、コルチェスター城の内部に展示されていました。コルチェスター城は、ノーマン時代に建てられた城ですが、ブーディカが焼き落としたローマ時代のクラウディウスの神殿の跡地に建っています。この映画自体は、私は見ていませんが、評判いまいちだったよう・・・。どうやって描かれているか、見てみたい気もします。上手に作れば、ドラマチックな、面白い題材だとは思います。
こんにちは
返信削除台風12号が一週間ほど日本全土に影響を及ぼしました。台風になれっこの日本人もこの巨大でかつ動かない台風には散々でした。
ブーディカについてはじめて知りました。ローマ帝国の成立の背後には多くの原住民の抵抗があったのですね。エジプトのクレオパトラだけでないのですね。イギリスではこのようなケルトの伝統や歴史を学ぶ機会はあるのですか?
私もブーディカは、イギリスに来るまで、日本で見聞きした覚えがありません。イギリス人なら、ちゃんと学校で勉強した人は皆知っていると思います。(イギリスの教育システムはまちまちですから、読み書きできないで卒業してしまうような子供もいます。)
返信削除ローマ人は、クレオパトラの前例があるので、女性のリーダーに対しては、非常に懐疑的態度を持っていたという話です。原住民の中でも、ブーディカの夫の様に、すすんでローマに協力した部族もかなりいたようです。
歴史をカバーした良いテレビ、ラジオ番組多いです。