尼僧物語

ベルギーとコンゴを舞台に、オードリー・ヘプバーンが、良い修道女になろうと必死に試みる「The Nun's Story」(尼僧物語)。オードリー映画の中では、比較的知名度の低いものですが、僧院の生活ぶりと、時代背景が面白い映画でした。

ガブリエル(オードリー・ヘプバーン)は修道女になるためベルギーの修道院へ入ります。有名な医師である父親の影響もあり、修道女としてベルギー領コンゴに派遣され、そこで看護の手伝いをするのが彼女の夢。

映画の最初は、修道院に入ってから、正式に修道女となるまでの儀式等が、比較的スローテンポで描かれています。修道女は、キリストの花嫁、という事なので、全員ウェディングドレスの様な衣装を着ての儀式など、ふーん、こんなものなのか、と。変なキリスト教のカルトの教祖などが、自分はキリストの再来だなどと称して、カルトのメンバーの女性全員に、自分との結婚をせまったりする話を、時に聞いたりしますが、そんなのは、キリスト教のこういう一面を利用しているのでしょう。

シスター・ルークとなったガブリエル、コンゴ派遣にむけての第一歩に、熱帯病の勉強をする施設に送られ、優等生で試験をパスするものの、まだ、プライドと自我が強すぎ、謙虚さと従順性に欠けるとし、更なる修行のため、コンゴ行きは延ばされ、精神病院にて、しばらく看護する事となります。

辛抱の結果、やがて念願のコンゴに送られるが、原住の黒人のための病院で働きたかったのが、白人専用の病院で働く事となり、少々がっかりする彼女。当時は、まだ、白人と黒人の病院別だったのですよね。南アのアパルトヘイトほどではないにせよ。

白人病院で、名医ではあるものの、無神論者であるフォルテュナティ医師(ピーター・フィンチ)のもとでアシスタントをするうちに、2人は何とはなしに、お互いに惹かれていく。医師は、「自分は、何人もここで修道女を見てきたが、君は、修道女に向かない、修道院の型にはまる事ができないタイプだ」の様な事を、何回か彼女に言う。確かに、看病している最中に、祈りの時間だ、やれなんだ、と戒律に従うため、大切な事も中断しなければならない事、また、緊急時に、一々上の修道女の了解を得ないと、独断での処置ができない事など、彼女の中でも、「これは、本当に神が望んでいることなのか?」と疑問が押し殺しきれない。修道院の掟も、戒律も、最終的には人間が決めたもので、上層部とは言え、本人自身も未完璧な人間が最終決断を下すわけですから。そして、神を信じていないフォルテュナティ医師が救命のための手術をしている姿を、神に近いものがあると感じたりもし。それでもシスター・ルークは、頑なに、医師の言葉に耳をふさぎ、修道女であり続けようとするのです。

コンゴで、現地のアシスタントの黒人から、「ママ・ルークは、独身なのですか?他の何人かの修道女さんたちが独身なのは、分かる気もするが、あなたみたいな人が結婚していないのはわからない。」なんて、他の修道女にはちょっと失礼な、素朴な質問をされる場面が、可笑しかったです。

やがて、彼女は、コンゴから、ベルギーへ呼び戻され、後、オランダ国境に近い病院で働く事となります。コンゴの事、心惹かれていた医師の事、彼の言葉を心から打ち消そうと働く中、第2次世界大戦、勃発。ベルギー、そしてオランダが次々とドイツの占領下となります。修道女達は、上部から、占領軍の指示に従い大人しく作業を続けるようにと告げられますが・・・。父が、避難民の看護に当たる中、ドイツ軍に銃殺された知らせを弟から受けると、もうドイツへの憎しみを抑えきる事、修道院での規律の下で、ドイツに抵抗する努力の助けをする事もできずに生きる事が、自分に不可能であると感じ、ついに修道院を去ることに決めます。

修道女の服から、昔脱ぎ捨てた一般人の服に再び着替え、町の中へ力強く踏み出して、消えて行く彼女。とても静かな、良いラストシーンでした。彼女は、この後、レジスタンス運動に参加し、看護に当たったのでしょうか?戦争を生き抜いたら、再び、医師と再会して、彼と結婚でもしたのでしょうか?

オードリーは、父はアイルランド系イギリス人、母はオランダ人。1939年の夏には、イギリスはケント州の寄宿学校にいたものの、ケントが、ドイツ空軍の襲撃にやられる事を恐れた母が、オランダのアーネムへ娘を呼び戻すのです。アーネムは、もちろん、数年後、戦場と化してしまうわけで、娘を安全なところへ呼び戻したつもりが、彼女は、もっと危険な場所に戻ってしまった事となり、戦時中は、かなり苦労をしたようです。そういう意味で、この映画の役は、彼女の心にかなり近いものがあるかもしれません。無事生き残った彼女、戦後、再び、イギリスへ戻り、女優の道へ。

原題:The Nun's Story
監督:Fred Zinneman
言語:英語
1959年

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さて、当時のコンゴの状況ですが、

以前の記事、「闇の奥」に書いたよう、1885年から、1908年まで、コンゴは、ベルギー王レオポルド2世の私用地であり、現地の黒人を非常に残酷な手段でゴム栽培や、鉱物の発掘に奴隷として従事させていました。その頃の名称が、The Congo Free State(コンゴ自由国)ですから、笑ってしまいます。ここでいう「free」は、自由と言う意味でなく、労働費が「ただ」という意味じゃないか、と嫌味のひとつでも言いたい感じ。レオポルド2世下での、黒人の取り扱いがあまりにひどかった為、他のヨーロッパ諸国、アメリカから非難を受け、1908年に、ベルギー政府は、レオポルド2世にコンゴを諦めさせ、ベルギーの植民地とし、1960年の独立まで、The Belgian Congo(ベルギー領コンゴ)と称されるようになります。

ベルギー政府の管轄になって以来、黒人に対する残虐な扱いは、収まったようですが、安い労働力として、ある程度の搾取は続いたようです。そのうち、映画に描かれている通り、主にカソリック教会を通して、教育と医療が、原住民の間にも、普及されていきます。

一部のベルギー国民にとっては、レオポルド2世下のコンゴは、国の汚点、良心の呵責となっており、特に、クリスチャンの中では、コンゴで、現地人のために何かできることをしたい、というシスター・ルークの様な人は多かったのかもしれません。教育と医療の普及を、宗教の布教と結びつけるところには、いささかの疑問も感じますが、個人的レベルでは、善意を持って事に当たった人は沢山いたのでしょう。

独立後のベルギー領コンゴは、幾度か名が変わり、現在の名称はコンゴ民主共和国(Democratic Republic of the Congo)。コンゴ民主共和国の、西に位置し、やや小さめの国は、コンゴ共和国(Republic of the Congo)で、こちらは、元フランス領です。ちょいと、ややこしいですが。

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