ノルマンディー上陸作戦と天気予報

友人に誘われて、ロンドンのウェストエンドの劇場で、「プレッシャー(Pressure)」という芝居を見に行って来ました。このプレッシャーという題名は、「プレッシャーを感じる」という意味でのプレッシャーと共に、お天気用語での気圧の意味でもあります。

第2次世界大戦中、連合軍によるノルマンディー上陸作戦の決行された、1944年6月6日は、一般に、重要な攻撃開始日を指す軍事用語、「Dデイ」の名で知られています。ノルマンディーの海岸線、5か所(西から、Utah、 Omaha、 Gold、 Juno、 Sward)に、イギリスから海を渡って、連合軍の兵士たちが上陸する。この、Dデイは、最初は、6月5日に予定されていたのです。なぜ、一日延期になったのか、それは、イギリス海峡のお天気にあった・・・という話。

開演前の劇場内
舞台は、イングランド南部の重要な港町ポーツマスから北へ約8キロのところにある館、サウスウィック・ハウス(Southwick House)の一室。この館は、約1年がかりで計画されていた、Dデイへと向かう数か月の間、連合国遠征軍最高司令部が置かれていました。連合国最高司令官(Supreme Allied Commander)で、ノルマンディー上陸作戦に関する最終決断を下すのは、後に34代米大統領となる、ドワイト・D・アイゼンハワー(愛称アイク)。史上最大の水陸両用作戦(amphibious operation)とあって、人員と機材を整える他にも、考慮すべきことは多々。月の明るさ、潮の満ち引き、天気も重要要素。空軍は月の明るい晴れた空を必要とし、海軍は安全に海峡を渡れるための静かな海と風、陸軍は上陸のために、引き潮の海岸が必要。ということで、6月5~7日にかけてが、そのために最適とされ、選ばれたのは、6月5日月曜日、ほぼすべての要素は準備完了・・・天気以外は。

最高司令部の天気部の長は、気象学者ジェームズ・スタッグ(James Stagg)氏。変わりやすいイギリス海峡の天気予報を正確に当てるのはなかなか難しいらしく、今のようにコンピューターのない時代、世界各地の天気観測所からの情報を、電話で集めては、刻々と変わっていく天気情報を記録し、天気図を変えていく。スタッグ氏は、西から近ずいてくる嵐が、調度、予定の5日にイギリス海峡を襲うので、上陸決行を成功させるには不向き、という予報を出すのです。アメリカ側の気象専門家たちは、過去の記録を大幅に参考にするという昔ながらの方式で、「いや、南からくる高気圧が、この前線を散らすだろうから、大丈夫、5日に決行で、いける。」と強気で出て、双方は対峙。このアメリカの気象専門家を相手取って、スタッグ氏は、「いたって複雑なイギリスの気候がわかっていないんだ。いつも太陽サンサンのカリフォルニアと違う。イギリス海峡を望む海岸にいると、それは気持ちのいい天気であっても、その数時間後に、風雨が始まり、雨が水平に降ってきたりする。それなのに、またいきなり止んで、太陽が出る。」のような事を言って、場内から「わかる、わかる」の笑いを買っていました。私も、晴れだと思っていた日の海辺で、いきなり、風にあおられて水平に降ってくる雨にやられ、びしょぬれになった経験あります。

最終的にアイゼンハワーは、スタッグ氏の予報を信じ4日に、しぶしぶ、決行の延期を決断。5日は予報通り、イギリス海峡は20年ぶりの大嵐となるのです。

この嵐の後に、更に別の嵐がやってくる気配があったものの、4日から5日にかけて、その第二の嵐の進度が遅くなっているのに気づいたスタッグ氏は、第一の嵐が去った6日の未明からしばらくの間、理想的ではないものの、上陸作戦を決行するに可能な天気となるだろう、と更なる予報を出し、アイゼンハワーは、このスタッグの新たな情報に基づいて、至急、今度は、6日に決行の指令を出すこととなるのです。

6日の午前12時過ぎるやいなや、まずは空軍がイギリスを出発。海岸からの上陸部隊を助けるために、上陸予定地周辺のやや内陸部に、1万8千人の連合軍兵士が、闇の中、空からパラシュートやグライダーで着陸。そして、約7000の海軍の船が、13万2千人の兵士をノルマンディー海岸へ上陸させるため、海峡を渡る・・・。長い一日の始まり。ちなみに、次の嵐の前の、この比較的穏やかな天気は、上陸後1週間ほど続いたようです。

上のノルマンディー上陸の写真は、インペリアル・ウォー・ミュージアム(帝国戦争博物館)のサイト、「Dデイについて、知っておきたい10の事実」という記事より。リンクは下まで。
https://www.iwm.org.uk/history/the-10-things-you-need-to-know-about-d-day

「プレッシャー」は、この事実に基づき、多少の個人的な人間ドラマを加えて、俳優のデイヴィッド・ヘイグが自ら書いて、本人がジェームズ・スタッグを演じていました。この人、映画「フォー・ウェディング」に出ていたので、顔は、日本の人にも見覚えがあるかもしれません。特に前半の、Dデイ延期にいたるまでの、英米気象グループと、アイゼンハワー含む司令部間での対立、必死の情報収集の結果、6日に思いかけず、嵐の間の晴れ間が来るといういきさつは、なかなか危機感がありました。大きな気象図が掲げられた、一室内だけでのドラマだったのですが。

芝居には出てきませんが、同時期、ドイツも当然、天気情報を集めていたわけですが、嵐は当分続くと判断。よって、連合軍のフランス海岸線への上陸は、しばらくはあり得ないという見解で、指揮官たちは、海岸沿いの基地を離れており、陸軍元師エルヴィン・ロンメル(Erwin Rommel)に至っては、妻の誕生日を祝うべく、5日からドイツの実家に戻っていた始末。

また、ドイツ側は、上陸は、おそらく、イギリスから最短距離のカレー周辺と思っていた事もあり、実際ノルマンディーに大挙して上陸する、というのも、イギリス国内でも極秘事項。それも、延期すればするほど、どこに上陸するかの情報がドイツ側に洩れる可能性も高くなるため、当初、6月5日の予定の変更をしぶる人間がいたわけです。芝居の中で、電話線を引くために館に来た作業員が、室内の海図や作戦図を見て、上陸はノルマンディーが予定されていると分かり、彼は、情報を知りすぎたという事で、作戦が終わるまで、館から去ることを禁止されてしまうエピソードなども出てきました。

芝居でも言及されていた、チャーチルに関する逸話としては、「ノルマンディー上陸をこの目で見たい、おいらも行く!」とがんばったそうなのです。これには、アイゼンハワーは、それでなくても大変な作戦に、イギリス首相の身の安全まで気を回す事になってはかなわない、と、国王ジョージ6世にチャーチルへ手紙を書いてもらったというのです。その手紙の内容というのが、チャーチルに、「君が見に行くなら、僕も行く」という内容のもので、さすがチャーチルも、国王を危険な立場に遭遇させるわけにはいかず、やむなく諦めた、というもの。

いつ、どこに、連合軍が上陸してくるか、ドイツ側が良く把握していなかった事実の他にも、ノルマンディー上陸作戦成功の要因のひとつは、同時に、ドイツが、東部戦線で、ソ連赤軍との死闘を繰り広げていた事。ナポレオン同様、東へ侵略する野心を燃やしたヒトラーがソ連に侵入を開始するのは、Dデイの約3年前の、1941年の6月。多大なる人数のソ連の赤軍と冬将軍を甘く見た結果、最終的にどんどんと、東から赤軍に押し戻され、ノルマンディー上陸作戦の際、ドイツは、西と東の両方での戦いを余儀なくされていたのです。また、日本の真珠湾攻撃(1941年12月7日)の翌日、合衆国が、日本に宣戦布告し、ついに第2次世界大戦に参戦。それを受けて、数日後、ヒトラーも、合衆国に宣戦布告し、強力な敵を作ってしまった事。赤軍は、合衆国からの武器や機材の援助を受け、ノルマンディー上陸作戦も合衆国の参加がなければ、あれだけの規模で、実行できたかどうかも定かではありません。

この芝居を見た後に、ノルマンディー上陸作戦を時間経過通りに追った映画「史上最大の作戦」(原題:The Longest Day、一番長い日)を見ました。作られたのは1962年。ジョン・ウェイン、ロバート・ミッチャム、ヘンリー・フォンダ、リチャード・バートンなどなどの豪華キャスト。大昔、もしかしたら日本のテレビで見たのかもしれませんが、そのころは、まだ、きっと、ノルマンディー大作戦など、なんの興味もなかったので、いくつもある戦争映画のひとつ・・・くらいに、親が見ていたのを横目で見ていたくらいだったかもしれません。

映画最初の方で描かれるのは、上陸が延期され、嵐の中、いつ出動になるのかと待つ戦士たちや上官たちの姿。ジェームス・スタッグも映画内にちょこっと登場し、アイゼンハワーに、6日にはなんとか決行できるくらいの天気になる、とアドバイスをし、アイゼンハワーが、それを聞いて、上陸を決めるシーンも挿入されています。ドイツ陣営の様子も同時に描かれているし、上記の通り、時間経過ごとに、何が起こっているか追っているので、実際どこでどんな事が起こったのかの簡単な把握ができて、そういう意味で、おすすめ映画です。

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