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9月, 2013の投稿を表示しています

キーツ・ハウス

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ロンドン北部の一大緑地ハムステッド・ヒースのすぐ南、キーツ・グローブにある白い館がキーツ・ハウス。1816年に、この館が建設された当初は、外観は一軒家であるように見せながら、内部は2世帯がすめるように真ん中で区切ってあった、こちらでいうセミ・デタッチトの家でした。 詩人ジョン・キーツは、1818年から1820年にかけての17ヶ月間、この館の、区切られた小さいほうの片側に友人チャールズ・ブラウンと共に住み、療養のため(死ぬため)に、イタリアへと出発するのもこの館から。館の残りの片側に住んだのは、キーツの愛情の対象で、婚約者であったファニー・ブローンとその家族(ファニーの母、妹、弟)。 *キーツの生涯の簡単な説明は、 前回の投稿 をご参照ください。 近郊に住む友人を訪ねて、キーツがハムステッドへ足を運ぶようになったのは、1816年のこと。1817年には、弟のトムと共に、ハムステッドのウェル・ウォークという通り(上の写真)で下宿を始めます。 1818年終わりに、弟のトムに結核で死なれ、意気消沈したキーツに、チャールズ・ブラウンが自分の下宿をシェアするように誘いかけ、キーツは、この館へ移り住むのです。翌1819年は、キーツの創作能力のピークだったようで、彼の有名なオード(特定の物、人物に捧げる形式の叙情詩)のほとんどが、この館で書かれたと言います。お隣さんに住む愛するファニー・ブローンは、キーツにインスピレーションを与えながらも、一説によると、お洒落が大好きの、チャランチャランとした性格の人で、彼の悩みの原因ともなったなどと言われます。キーツは、人の背丈が現代より低かった当時でも、かなり背の低い人だったそうで、「ファニーは僕と同じくらいの背丈」という記述が彼の手紙に残っています。もっとも病気になる前は、殴り合いの喧嘩をしたり、スコットランドを足で歩いて回ったりと、いわゆる、なよっとした貧弱な体質ではなかったようですが。 1820年の2月の寒い夜、外出したキーツは、帰り、馬車の料金節約のため、中ではなく、外に座って戻り、すでに兆しが見え隠れしていた結核の症状が悪化。その夜、ベッドで吐血。その際、自分の吐いた血の色を見ようと、キーツはブラウンにろうそくを持ってきてくれるよう頼み、まじまじと手のひらの血を眺めてから、落ち着いた面持ちで、ブラウンに「

ジョン・キーツの「秋によせて」

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Season of mists and mellow fruitfulness うす霧とやわらかなる豊穣の季節 この季節になると、時折ラジオなどで引用されるのをよく耳にするこのフレーズは、イギリスの詩人ジョン・キーツの「To Autumn」(秋によせて)の冒頭の部分です。つい先週も、「朝もやは、10時頃まで消えません。」という天気予報の後、「Season of mists and mellow fruitfulness」だからね・・・などとニュースリーダーがコメントをしていました。 収穫の終わった、丸めた干草が転がる田畑や、色がかわりつつある木の葉がやわらかな光に包まれる風景の中を車で横切るときに、毎年の様に、まったく文学っ気のないうちのだんなの口からも、「Season of mists and mellow fruitfulness」とこぼれ落ちるくらいです。ただし、数年前、私に「誰の引用?」と聞かれて調べるまで、うちのだんなは、シェイクスピアからの引用だと思っていたようですが。もっとも、普段、詩にはほとんど興味の無い私も、それまでは、「秋によせて」を読んだことがなかったので、えらそうな事は言えません。キーツは、シェイクスピアから多大な影響を受けたようなので、シェイクスピアからの引用、と思っていたのも、それほどはずれた推測ではないでしょう。 ジョン・キーツ(1795-1821年)は、26歳にして夭折したイギリスの詩人。実際に、彼が、詩人として活動したのはわずか3年。 ロンドン、シティー内で馬屋を経営していた父のもとに生まれ、8歳の時に父を事故で、14歳で、母を結核で亡くします。溺愛した母が病の床についてからは、それは良く看護をしたという話です。 最初は、医者になるべく、地方の医師のもとに奉公へ。余暇のほとんどは読書に費やしたといいます。のち、テムズ南岸にあるロンドンのセント・トマス病院、ガイズ病院で学んだものの、自分の人生は詩にあると、医師としてのキャリアを断念。上の写真は、キーツが医学生の時代に住んでいた、ガイズ病院付近の建物です。 初の詩集を発表するのは1817年。1818年に、友人のチャールズ・ブラウンと、スコットランドを歩いて旅をした後から、結核の兆候として、時折、のどの痛みを訴えるようになります。旅行の直後、弟のトム

保険のロイズ・ビル

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17世紀後半、イギリスに紹介された新しい飲み物、コーヒー。その人気のたかまりと共に、ロンドンのシティー内に、次々と店を開いていく コーヒー・ハウス の数々。1688年に、エドワード・ロイドが開いたコーヒー・ハウス、「ロイズ」(Lloyd’s)もそのひとつです。このロイズ・コーヒー・ハウスの開店が、保険市場として世界的に有名なロイズ・オブ・ロンドンの歴史の幕開けとなります。 海上保険なるものは、中世ロンドンの金融を牛耳っていたイタリアのロンバルディアの銀行家達がイギリスに導入したものとされます。海上保険以前の海外貿易は、それこそ、「ヴェニスの商人」の題材になるような、危なっかしいものであったでしょう。 エドワード・ロイドのコーヒー・ハウスが船長、船主、貿易商たちが集まり、航海の情報を交換、収集ができる場所として評判となると、やがては、ロイズで、適当な海上保険を探し、かける場所としても定着していきます。1713年のエドワード・ロイドの死後も、海洋国としての勢力を伸ばしていたイギリスにおける海上保険の重要性から、ロイズ・コーヒー・ハウスは、海と貿易関係の顧客とそれに関わる取引の場として、繁盛を続けます。世界初の新聞などと称されることもある、ロイズ・リストも発行され。 1771年には、新しい建物へ移るべく、79人の商人、船主、海上保険業者、ブローカーたちが集まり、資金を出し合うのですが、これが、ロイズが一人の経営者から複数の人間により管理経営される保険市場としての第1歩となります。1774年から、現在のバンク駅正面、イングランド銀行のむかいに位置する、ロイヤル・エクスチェンジ内に居を構え、19世紀後半より、海上のみならず、他の保険の取引も開始されます。 1928年には、新しくロイズ専門のビルが建築されます。ライム・ストリート1番にある、現在の、缶詰のようなロイズの建物は、リチャード・ロジャースにより設計、再建され1986年にオープン。(上の写真は現ロイズ・ビルの小型模型です。) 内部を広々としたオープンスペースとするために、エレベーター、トイレ、ごみ捨て、エアコン、下水管、電気回線の類を全て建物の外側に設置。コーヒー・ハウス時代も、ロイズは何度か場所を変えていますが、これは、ロイズの8番目の住処です。 これが、建物の外側にあるエレベー

スタンド・バイ・ミー

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また夏が終わります。学校の夏休みも終わりに近づき、草木の緑が段々その色を失いつつあります。 シリアの化学兵器使用に対する報復処置としての爆撃が、この週末あたり決行されるか否かが微妙であったアメリカ。イギリスの議会で、イギリスがアメリカとともに、シリア政府に対し軍事的報復をすることが却下されたのを受けてか、昨日、オバマ大統領が、シリアへの報復に関して、議会の承認を得る意向を発表し、ひとまずは、軍事介入騒ぎは持越しとなりました。イラクの苦い経験がありますし、常にともに行動を起こしていたイギリスからのサポートが今回は得られないとあって、これは、賢明な判断だと思います。ああいう、さまざまな宗派が入り乱れる複雑な土地での軍事介入は、事を悪化させるはめになる事がほとんどですし。 かくて、アメリカは、議会で軍事介入の是非が討論され、結果が出るまで、遠くの国に爆弾を落とすことも無く、普通のレイバー・デー・ウィークエンドとなった模様です。また夏が逝く、とアメリカの大きな空を仰ぎながらバーベキューをする家庭も沢山あるのでしょうか。(ちなみに、イギリスでは、レイバー・デーなるものはありませんので、明日の月曜日は平日です。念のため。) ***** アメリカの、レイバー・デー(9月の最初の月曜日)が近づく、夏の終わりの日々、というと、映画「スタンド・バイ・ミー」を思い出します。12歳の少年仲間4人が線路沿いを歩いて死体を捜しに行く・・・という簡単な筋の映画でした。ラジオから流れ出る当時のヒット曲をサントラとして。久しぶりに、レイバー・デーを前にしてみて見ましたが、何回見ても、ぐっとくる良い映画です。 映画の初めは、大人になり小説家となったゴードンが、少年時代の親友であり、弁護士として働いていたクリスが、レストランで、喧嘩を仲裁しようとし、刺されて死んだという記事を読むことから。亡くなってしまったクリスを思いながら、ゴードンは、初めて、死体、というものを見た、遠い夏の終わりの出来事を回想するのです。 1959年の夏の終わり、小さな貧しい町、キャスルロック。両親のほこりであった兄が春に交通事故で死亡して、なかなか立ち直れない両親から、ほぼ無視状態になっていたゴードン(ゴーディー)。近郊の町から行方不明になっていた少年が、電車に跳ねられ、線路沿いで死んでいるとの情報をも