スタンド・バイ・ミー

また夏が終わります。学校の夏休みも終わりに近づき、草木の緑が段々その色を失いつつあります。

シリアの化学兵器使用に対する報復処置としての爆撃が、この週末あたり決行されるか否かが微妙であったアメリカ。イギリスの議会で、イギリスがアメリカとともに、シリア政府に対し軍事的報復をすることが却下されたのを受けてか、昨日、オバマ大統領が、シリアへの報復に関して、議会の承認を得る意向を発表し、ひとまずは、軍事介入騒ぎは持越しとなりました。イラクの苦い経験がありますし、常にともに行動を起こしていたイギリスからのサポートが今回は得られないとあって、これは、賢明な判断だと思います。ああいう、さまざまな宗派が入り乱れる複雑な土地での軍事介入は、事を悪化させるはめになる事がほとんどですし。

かくて、アメリカは、議会で軍事介入の是非が討論され、結果が出るまで、遠くの国に爆弾を落とすことも無く、普通のレイバー・デー・ウィークエンドとなった模様です。また夏が逝く、とアメリカの大きな空を仰ぎながらバーベキューをする家庭も沢山あるのでしょうか。(ちなみに、イギリスでは、レイバー・デーなるものはありませんので、明日の月曜日は平日です。念のため。)

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アメリカの、レイバー・デー(9月の最初の月曜日)が近づく、夏の終わりの日々、というと、映画「スタンド・バイ・ミー」を思い出します。12歳の少年仲間4人が線路沿いを歩いて死体を捜しに行く・・・という簡単な筋の映画でした。ラジオから流れ出る当時のヒット曲をサントラとして。久しぶりに、レイバー・デーを前にしてみて見ましたが、何回見ても、ぐっとくる良い映画です。

映画の初めは、大人になり小説家となったゴードンが、少年時代の親友であり、弁護士として働いていたクリスが、レストランで、喧嘩を仲裁しようとし、刺されて死んだという記事を読むことから。亡くなってしまったクリスを思いながら、ゴードンは、初めて、死体、というものを見た、遠い夏の終わりの出来事を回想するのです。

1959年の夏の終わり、小さな貧しい町、キャスルロック。両親のほこりであった兄が春に交通事故で死亡して、なかなか立ち直れない両親から、ほぼ無視状態になっていたゴードン(ゴーディー)。近郊の町から行方不明になっていた少年が、電車に跳ねられ、線路沿いで死んでいるとの情報をもとに、親友のクリス、ビン底めがねで気違いじみたところのあるテディー、でぶっちょで、少々、気も、頭の回りも弱いバーンの4人で、その死体を捜しに出かける。行方不明少年の死体の発見者として、新聞やニュースに取り上げられて有名になるかもしれない、と。

酒飲みで暴力を振るう父親と、チンピラの兄を持つため、悪い家庭の子供とのレッテルを貼られて悩むクリス。気が狂った父親を持つことに敏感でありながら、父は偉い人間であったと信じたいテディー。やはりチンピラで暴力的な兄を持つバーン。そして、他の友のように、家庭内での暴力には合わないながらも、亡くなった兄に対するコンプレックスと、両親は自分が兄の代わりに死ねばよかったのに、と思っているという妄想を振り切れないゴーディー。日に焼けた線路沿いをわいわい騒ぎながら歩き、キャンプファイヤーの火を囲んで、子供じみた話しをしながらも、それぞれの持つ問題と、悩みが時に顔を出す。

死体のある場所に近づくと、皆、口をつぐみ始め、死んだ少年の事がそれぞれの心を占め始める。そして、実際に死体を見た後は、一行は、有名になることは諦め、無名で警察へ通報することに決める。

物語の複線として、クリスの兄とバーンの兄を含む、悪漢青年エースに率いられた町のチンピラグループも、同じ死体を捜しに出、死体の前で、ゴーディーとクリスが、チンピラ青年達と、「どちらが死体を見つけたか」のいさかいとなるのです。銃を持っていたゴーディーが、最終的にはチンピラを追い払うのですが。

死体発見の旅に出発する前は、自分の全世界であったキャスルロックという町が、戻ってきてみると小さく感じられたと描写するゴーディー。夏休みが終わったら、また学校で会おう、と散っていく仲間達。

クリス役のリヴァー・フェニックスは良かったですね。悪そうでいながら、実は多感、繊細で、賢い少年を絵に描いたような、はまり役でした。「マイ・プライベート・アイダホ」も、映画館で見ましたが、こちらも名演で、まるで家具のようなキアヌ・リーブスとは雲泥の差でした。若くして死んじゃったんですよね、この人。もったいない。

映画中、一番記憶に残る台詞は、クリスが、物語を作る才にあふれながら、両親にほとんど無視されて、兄に比べ自分は無能だと感じるゴーディーを励ますシーンのもの。

It's like God gave you something, man, all those stories you can make up. And He said, "This is what we got for ya, kid. Try not to lose it." Kids lose everything unless there's someone there to look out for them. And if your parents are too fucked up to do it, then maybe I should.

そんな風に、いろんな話を作り上げることができるっていうのは、神がゴーディーに与えてくれた贈り物みたいなものだよ。神が「お前にこれをやるよ。失くさないようにな。」ってさ。子供は、誰かが気をつけて見守ってくれていないと、全てを失くすもんだ。もしゴーディーの両親がどうしょうもなくて、それができないんなら、多分俺がやるべきなんだ。

また、別れ際に、クリスがぼつりと「この町から出れることはないだろうな。」と言うのに対し、ゴーディーが、

You can do anything you want, man.
やろうと思えば何でも出来るよ。

最終的にクリスは、弁護士になり、町を脱出。ゴーディーも神の贈り物を上手に使って作家となるのです。私も、子供の頃、住んでいた団地が、自分の全世界で、「いつかここから出て行くことができるのか」 などと、公園のぶらんこから夜空を仰いで思ったものです。クリスの様に、ひどい思いをしていたわけでもないですが、自分の環境の外にある世界に踏み込んでみたいとは、いつも考えていました。そして、脱出した後に大人になってから、懐かしさも込めて大きかった小世界を思い返してみたりするものです。

生まれたばかりの赤ん坊に、皆が微笑むのは、愛らしいというのと同時に、子供というものが、無限の可能性を潜めているからでしょうか。もちろん、映画内のゴーディーとクリスの様に、可能性を開花させうる事もあるわけですが、多くの場合、年月が経つと共に、その可能性は、ひとつ、またひとつと消えて行く。妥協を学び、自分が本当にしたいことは一生できないかもしれないという挫折を学び、そんな失望に関わらず、どう生きるかをを学び、それなりの人生を歩むことを学び。

そして、また、ただ鼻たらして駆け回っていた頃から、成長する過程で、この少年達のように、どんな人生であれ、最終的に人は死ぬ、という避けられない現実に気付くわけです。昔、小学校の予防接種の日、保健室で注射を受けるため、各クラスごと呼ばれて、保健室の前に、長い列を作って、自分の番が回ってくるのを待ったことがありました。調度その予防接種のあった頃、それこそ、死というものが、頭の中で現実的な形を取り始めていた頃だったのでしょう。痛い注射の番を、廊下で、列の前や後ろのクラスメートとふざけて待ちながら、「お祭りやピクニック、夏休みのような楽しみな事も、待てばいつかはやって来る。それと同じで、注射のように、どんな嫌なものでも、やがては自分の番が回ってくる。死ぬ事だってそうなんだろう。こうやって、今、廊下で待っているように、やがて、自分の名が呼ばれ、絶対に来る。」などと、妙に哲学的な思いが心を過ぎったのです。

映画の最後に、ゴードンは、この子供の頃の死体発見の旅をつづりながら、「クリスには、もう10年以上会っていなかったが、これからも一生、彼がもういないという寂しさを振り切ることはないだろう」と、タイプし、

I never had any friends later on like the ones I had when I was twelve. Jesus, does anyone?
あの12歳の頃の様な友を得ることは、その後、一切無かった。大人になってから、そんな友を得れるような者は、一体いるのだろうか?

と終わらせています。

これは、いるでしょう。ただ、「同じ釜の飯を食った仲間」という言葉のように、同時期に同じ体験をし、ある目的に向かって励みあい、一緒に落ち込み、一緒に嘆き、一緒に笑い・・・という過程が、ある一人の人間が自分にとって、ただの知り合いから友人になるという、友情形成には必要なのかもしれません。そのため、学校や、町という制限された小世界で、大人になる過程を一緒に体験する子供時代は、後の時代に比べ、友情を結びやすい時期なのではないでしょうか。

クリスとゴーディーの友情を思いながら、テーマ曲で、映画のタイトルにもなっているベン・E・キングの「スタンド・バイ・ミー」のイントロが、ボン、ボン、ボボ、ボン、ボンと始まると、胸がキューンと来ます。歌詞は

When the night has come and the land is dark
And the moon is the only light we'll see
No, I won't be afraid, oh, I won't be afraid
Just as long as you stand, stand by me

So darling, darling, stand by me, oh, stand by me
Oh, stand, stand by me, stand by me

If the sky that we look upon should tumble and fall
Or the mountain should crumble to the sea
I won't cry, I won't cry, no, I won't shed a tear
Just as long as you stand, stand by me

And darling, darling, stand by me
Darling, darling, stand by me
Whenever you're in trouble
Won't you stand by me, oh, stand by me

夜が訪れ、大地は闇に包まれる
月だけが、唯一の明かりであっても
怖くはない、怖いことはない
君がそばにいてくれる限り

だから、ダーリン、ダーリン、そばにいておくれ、そばにいておくれ
ああ、僕のそばに、そばにいておくれ

見上げる空が頭上に落ちてきたとしても
山が海の中へ崩れ落ちたとしても
僕は泣きはしない、泣きはしない、涙のひとつも流さない
君がそばにいてくれる限り

ダーリン、ダーリン、そばにいておくれ
ダーリン、ダーリン、そばにいておくれ
困ったことがあったら
そばにおいで、そばにいておくれ

基本的にはラブソングなのでしょうが、この映画にはぴったりです。

原題:Stand by Me
監督:Rob Reiner
言語:英語
1986年

「スタンド・バイ・ミー」は、スティーブン・キングの短編集「恐怖の四季」(英語の原題は、Different Seasons それぞれの季節)に挿入されている「死体」(The Body)の映画化です。この短編集それぞれ、春、夏、秋、冬と四季をテーマにして、「死体」は、秋の物語。「Fall from Innocence 無垢の喪失」の副題が付いています。ちなみに、春の物語は、「Hope Springs Eternal 希望は永遠に芽生え」の副題で「刑務所のリタ・ヘイワース」( Rita Hayworth and Shawshank Redemption)・・・こちらは、映画「ショーシャンクの空に」(Shawshank Redemption)として有名です。

普通はホラー作家として知られているスティーブン・キングですが、ホラー以外にも、こんなに面白いストーリーを、これだけずんずん書けるなんて、うらやましい限りです。かなりの数、映画化されているキング作品ですが、実際に本を読んだことは一度も無いので、これを機に、「Different Seasons」を読んでみます。読書の秋ですし。

追記9月16日

原作の「死体」を読みましたが、こちらは、映画版「スタンド・バイ・ミー」より辛口です。映画は、これに、りんごとはちみつとろーりとかしたハウスバーモンドカレーのように、やわらかい口当たりにできています。まず、題名が示すとおり、映画版は友情が大きなテーマを占めているのに対し、原作は、死というものへの焦点が強いです。

また、子供達(特にクリス)が遭遇する暴力のひどさに、のけぞりました。クリスの家庭は、俗にホワイト・トラッシュ(白いごみ)と称される白人社会の底辺の家庭で、クリスは、アル中の父親に殴られること多く、あざを作って学校へ現れることもしばしば。めがねのテディーは、気が狂った父親に、幼い頃、両耳を、熱いストーブに押し付けられ重症をおい、耳も悪く、補聴器をつけて、耳が外から見えないような髪形をしている。そして、死体発見の旅の後、ゴーディーはエースから復讐を受け、叩きのめされ、その際、指までおられてしまう。クリスはクリスで、兄貴からの復讐で、腕を折られる。

クリスが、ゴーディーに、他の2人の友人を指して「友人に、引きずり落とされるな。」と忠告をするのも、なかなかシビアです。比較的良い家庭で才能のあるゴーディーは、悪い家庭に生まれ、とりたてた野心も信念もないまま、将来が見えているバーンとテディーに引きずられて、才能を開花させることもできないまま、だめになるな、という事。クリスもやがては、父の二の舞にならぬよう、町と自分の家庭を抜け出すことがきるよう、大変な努力をして、ゴーディーと共に、大学まで進むわけです。

クリスが、映画とは多少異なり、成功して社会へ踏み出す前の、大学生の時に死んでしまうというのが、また、読む側には精神的につらいものがあります。アルベール・カミュの「シーシュポスの神話」さながら、良い人生を送ろうと、巨大な石を山の上へ押し上げる努力をしていて、その途中で、転がり落ちてしまったわけですから、まさに、不条理。映画で、クリスに、少しでも長めの人生を与え、少なくとも弁護士となってから死んだことにしているのは、わかる気がします。他の2人の友人達も、かなり若いときに死んでしまい、小説の最後で、まだ生きているのは、小説家となったゴーディーだけとなります。

死体発見の旅の、キャンプをした日の翌朝早く、ゴーディーは、まだ他の3人が眠るうちに、鹿を真近に目撃し、しばらく目と目があうというシーンがありましたが、この鹿と遭遇のシーンが、この時の旅の思い出での唯一の純粋な瞬間であったと描写して、後の人生で何か困難に合った時に、その瞬間を思い出して心を慰めたとありました。回避できない死により、いずれは無駄になるとわかりながらも、シーシュポスの様に石を抱えて上へ登るのは、こういう貴重な瞬間に途中遭遇できる可能性があるからでしょうか。また、山のふもとで、どうせ死ぬから同じと、上へ登らず、足元だけ見ていては、星があるのも気付かないですからね。

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