キーツ・ハウス

ロンドン北部の一大緑地ハムステッド・ヒースのすぐ南、キーツ・グローブにある白い館がキーツ・ハウス。1816年に、この館が建設された当初は、外観は一軒家であるように見せながら、内部は2世帯がすめるように真ん中で区切ってあった、こちらでいうセミ・デタッチトの家でした。

詩人ジョン・キーツは、1818年から1820年にかけての17ヶ月間、この館の、区切られた小さいほうの片側に友人チャールズ・ブラウンと共に住み、療養のため(死ぬため)に、イタリアへと出発するのもこの館から。館の残りの片側に住んだのは、キーツの愛情の対象で、婚約者であったファニー・ブローンとその家族(ファニーの母、妹、弟)。

*キーツの生涯の簡単な説明は、前回の投稿をご参照ください。

近郊に住む友人を訪ねて、キーツがハムステッドへ足を運ぶようになったのは、1816年のこと。1817年には、弟のトムと共に、ハムステッドのウェル・ウォークという通り(上の写真)で下宿を始めます。

1818年終わりに、弟のトムに結核で死なれ、意気消沈したキーツに、チャールズ・ブラウンが自分の下宿をシェアするように誘いかけ、キーツは、この館へ移り住むのです。翌1819年は、キーツの創作能力のピークだったようで、彼の有名なオード(特定の物、人物に捧げる形式の叙情詩)のほとんどが、この館で書かれたと言います。お隣さんに住む愛するファニー・ブローンは、キーツにインスピレーションを与えながらも、一説によると、お洒落が大好きの、チャランチャランとした性格の人で、彼の悩みの原因ともなったなどと言われます。キーツは、人の背丈が現代より低かった当時でも、かなり背の低い人だったそうで、「ファニーは僕と同じくらいの背丈」という記述が彼の手紙に残っています。もっとも病気になる前は、殴り合いの喧嘩をしたり、スコットランドを足で歩いて回ったりと、いわゆる、なよっとした貧弱な体質ではなかったようですが。

1820年の2月の寒い夜、外出したキーツは、帰り、馬車の料金節約のため、中ではなく、外に座って戻り、すでに兆しが見え隠れしていた結核の症状が悪化。その夜、ベッドで吐血。その際、自分の吐いた血の色を見ようと、キーツはブラウンにろうそくを持ってきてくれるよう頼み、まじまじと手のひらの血を眺めてから、落ち着いた面持ちで、ブラウンに「この血の色は知ってる。動脈血だ。死の宣告と同じだ。僕は死ぬだろう。」キーツは医師となる訓練を受けていた上、母弟とも、結核で亡くしていますから。実際、この約1年後にキーツはローマで息を引き取るわけです。

館内は、外からの印象よりも、ずっと小さいです。ブラウンとキーツが住んでいた側の1階は、それぞれのパーラーがひとつずつ。キーツのパーラーには、崇拝したシェイクスピアの肖像が壁にあり、また、そのシェイクスピアの肖像を背後に、パーラーのいすに座るキーツの絵もかかっていました。2階にはそれぞれのベッドルーム。キッチンは地下。おトイレは、当時はまだ無いんですね。ブローン家が住んだ側の2階には、ファニーの部屋はこんなだったか・・・というのを再現してありました。館内には、ファニー・ブローンへの婚約指輪なども展示されていました。

キーツの死後、ブローン家は1830年までこの館に住み、また、キーツの妹家族も一時ここに住んだと言います。1839年に、館には、女優であったエリザ・ジェーン・チェスターが移り住み、彼女は2世帯住宅から一軒家へと改築、また一部増築をしています。その後、何人かの手に渡り、取り壊しの話が持ち上がったものの、キーツのゆかりから、保存が決まり、すでに1925年に、キーツ・ハウスとして一般にその扉を開くこととなります。

いまや、超が3回付くほどの高級住宅街となったハムステッド。道を行くのは、「ロンドンで、こんな馬鹿でかい車が必要か?」と思えるようなタンクのような車から降りてくる、リッチママと上品そうな子供達。目玉の飛び出るような値段の私立学校からのお迎えの帰りでしょう。ちなみに、ロンドン南部の高級住宅地チェルシーでも、こういったリッチママが運転する大型車が幅を利かせ「チェルシー・トラクター」などとふざけて呼ばれています。狭い道に車がびっしり駐車され、キーツ・ハウスへ行く途中、サイドの窓ガラスを完全に割られている車も目にしました。金あるところに、犯罪ありで。

こんな現在のハムステッドで、キーツのような貧乏詩人がぼろをまとって歩き回っている姿を想像するのは難しいです。キーツがブラウンと共に出かけたスコットランド徒歩の旅からハムステッドに戻った時は、上着はひょろびり、靴はほとんど擦り切れて無くなりかけていた・・・などという描写が残っています。物欲のほとんど無い、文才溢れる夢見る青年が生きていくのは、当時も、友人達の助けが無ければ大変だったでしょうが、今のロンドン、ひいてはハムステッドでは至難のわざと感じます。キーツ・ハウスの庭のベンチに座り、キーツの心を動かした木々などを眺めながら、しばし過去の静けさを味わうのみです。

キーツとファニーの恋愛を描いた「Bright Star 」(邦題:ブライト・スター いちばん美しい恋の詩)という映画がありましたが、この映画の原題は、キーツが、養生のためにイタリアへと向かう船の中で、イギリスの地が遠ざかっていく時に書き綴ったという詩の冒頭。

Bright star ! would I were
steadfast as thou art -

輝ける星よ!お前の様に、
不動のままでいられるのなら

と始まり、ただ、星の様に孤高に空にいるのではなく、愛する恋人の胸に頭をうずめ、彼女の吐息を感じながら不動に、そのまま目覚めていたい・・・となり、最後は、そのようにして永遠を生きるか、さもなくば、死んでしまいたい・・・という、かなりロマンチックなものです。愛する人と知り合って2年経つか経たないかで、結ばれずに、本当にすぐ死んでしまった人物の愛の詩ですから、相手に対する幻滅や倦怠が訪れる事も無く、理想の美しさできらきら輝いていたわけです。

この映画自体は、映像や衣装はとても綺麗だったのですが、なぜか、私には、ファニーとキーツの恋愛に、さほど、ぐっとくるものが無かったのです。美しい詩の世界の映像化は目にご馳走で、見て損したとは思いませんが。映画の中で一番気に入ったのは、ファニーの妹を役をした赤毛の女の子。それは可愛かった。ファニーのお母さんが被っているマッシュルームのような、ボンネットも可笑しく。お父さんがいないながら、幸せそうなファニーの家庭の描写も良く、キーツがひかれたのは、ファニーのみでなく、この家族の暖かさもあったのかな、という気もしました。キーツ・ハウスでガイドをしてくれた人は、「この映画の中の、チャールズ・ブラウンは少々、悪者っぽく描かれているが、これは、ブラウンに公正でない、キーツにとってブラウンの存在は詩人となるのに大切だったわけだから。」などと言っていました。

この映画内でのロケには、キーツ・ハウスは使用されず、他の屋敷が変わりに使われたそうですが、その理由には、小さい・・・というのがあったようです。

原題:Bright Star
監督:Jane Campion
言語:英語
2009年

*おまけ「コンスタブルとハムステッド」*

上述した、キーツのハムステッドでの最初の住所ウェル・ウォークは、また、画家ジョン・コンスタブルが住んだ家のある通りでもあります。ウェル・ウォーク40番。

コンスタブルは、やはり結核の兆しのあった妻の健康のため、1819年より、都会の空気と喧騒を避け、ほぼ毎夏をハムステッドで過ごしていましたが、1827年より、都心の家の一部を貸しに出して、上の住所へ移り住みます。コンスタブルは、「ロンドン中心からほど遠からず、都会と田舎の両方を楽しめる」とハムステッドの生活を描写していたようですが、そのように、ロンドンに近いのに緑いっぱい・・・というのが、現在に至るまで、ハムステッドのような場所が、富裕層に人気である理由です。奥さんは、残念ながら、引っ越した翌年に亡くなってしまい、愛妻家であった彼に大打撃を与えることとなります。

それにしても、当時、結核で死んでしまう人、多かったものです。

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