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10月, 2009の投稿を表示しています

万聖節の前夜

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本日の朝のラジオで、ハロウィーンは、明日11月1日のカソリックの祭日、万聖節(All Saints' Day)の前夜に当たる、という話をしていました。そして、その翌日の11月2日は、キリスト教カレンダーでは死者の日(All Souls' Day)。やれ、かぼちゃやだ、魔女だ、はいいけれど、全ての聖人と、死者の魂に祈りを捧げる日の前夜なのだと。 キリスト教の万聖節は、その名の通り全ての聖人を讃える日。昔、この日は、All Hallows' Day(Hallowは、聖人の意)とも呼ばれ、その前夜は、All Hallows' Even(Evenは、Eveningで晩の事)、現在のHalloweenの語源です。 ハロウィーンは、また、ケルト人の、Samhain(発音はソウイン)という異教の祭りにも由来すると言われます。夏の終わりと暗い冬の始まり記念する収穫祭の趣と、死者のための祭りが混じったものだそうです。ケルト人によると、この夜は、霊界と、この世との境界線が一番薄くなる日で、霊が、地上を徘徊する日であると。その霊を脅かし追い払うため、野菜を彫ったランタンに火をともし飾ったり、焚き火(bonfire)を燃やしたり。 19世紀に、アイルランドやスコットランドの移民が、この習慣も持ってアメリカへ渡ったわけです。 今では、クリスマスと同じく、そういった宗教や習慣とは無縁の国でも、フェステバルとして確立しつつある感じです。良い事なのか、悪い事なのか・・・。スーパーなどの棚に並ぶ、ハロウィーン・グッズを眺め、この国でも、これ以上商業化されすぎると、ちょっと鼻に付いてくるかな、という気もします。

イギリスの港ハリッジから大陸ヨーロッパへ

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ロンドン・リバプールストリート駅から電車で約1時間45分。 ハリッジ(Harwich、発音はハリッチとも聞こえます、ハーウィッチなどと日本語で書いてあるものにも行き当たりますが)は、北海に面した歴史ある港町。一大観光名所ではないですが、幾つかの興味深い建物があります。ハリッジ・タウン駅で下車し、中心地は、足で簡単に回れます。 駅を出て直ぐに迎えてくれるのが、上の写真の銭湯の煙突のように見えなくもないレンガの灯台(High Lighthouse、高灯台)。1818年に作られ、灯台としてのお役目は1862年で終わっているので、早期引退です。現在は何故か、ラジオとテレビ博物館となっているそうです。 High Lighthouseとペアで一緒に働いたのが、可愛らしい海辺の灯台(Law Lighthouse、低灯台)。現在は、海軍の歴史博物館となっています。ラジオ・テレビ博物館よりは、うなづけます。 この灯台は、17世紀後半にこの場に建てられた木製の灯台を、1818年に作りなおしたもの。以前の木製の灯台は、画家ジョン・コンスタブルが、キャンバスに描いています。 Low Lighthouseのそばに立つこちらは、1667年から1927年にかけて使われた木製のクレーン(Treadwheel Crane)。この手のクレーンでは、英国に残る唯一のもの。 ハーフペニー・ヴィジター・センター(Ha'penny Pier Visitor Centre)は、1854年に建てられた大陸へ行くフェリーの切符売り場と待合室。何だか、小さな田舎の村の駅舎みたいです。現在は、ヴィジターセンターと共に、ハリッジ関係の展示場として働いています。 桟橋。ここから昔はフェリーに乗って大陸ヨーロッパへ旅立ったのでしょうか。以前は、この倍の長さだったそうですが、1927年に焼失。 桟橋のむかいのホテル、ちょっと粋です。お茶しに入れば良かったか・・・。 ハリッジは、また、ピルグリムファーザーズを乗せて新大陸へとむかったメイフラワー号のキャプテンでもあった、クリストファー・ジョーンズの生誕地でもあります。彼の住んだ家の前も通りました。これが、わりと小さかったんですけどね。船乗りの家なんて、そんなものでしょうか。ちなみに、クリストファー・ジョーンズは、新大陸には留まらず、イギ

かぼちゃでジャック・オー・ランタン作り

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ハロウィーンが近づくこの季節、スーパーへ買い物に行くと、ジャック・オー・ランタン(Jack O' Lantern)用のオレンジ色のかぼちゃが山の様に積まれています。小さめのものは1ポンドだったので、購入。 イギリスはアメリカに比べ、ハロウィーンは、それほど大掛かりではないですが、それでも最近では、手を変え品を変えの商戦で、ハロウィーン・グッズも棚に並び、スーパーの中で、魔女の衣装を来た女の子も見ました。 主人が子供の頃は、ハロウィーンのランタンは、かぼちゃではなく、ターニップ・ランタン(Turnip Lantern : かぶランタン)と呼んでいたそうです。それも、実際はかぶではなく、普通のかぶより大きいスウィード(Swede)という野菜を使って彫っていたなんて言ってました。かぼちゃを使うというのも、アメリカの影響の様です。 ランタン作り、凝らずに、簡単な顔だけ掘るのは30分とかかりません。キューピー3分間クッキングならぬ、パンプキン30分間カービング。 用意するものは、当然、かぼちゃ、食事用ナイフ、ペン、受け皿、スプーン。 まずは、かぼちゃの上の部分の蓋を作ります。へたを中心に放射状の形にペンで線を引き、ナイフをぐさりと刺し、線にそって切っていきます。切り終えたら、へたをひっぱって蓋を抜き取ります。 内部のものを、スプーン、または、手でかき出します。内部はほとんど肉が無く、スカスカで、種と、繊維状のものだけです。 さて、ここが山場。ペンで顔を描き、ナイフで刻む作業。食事用ナイフだけを使っての挑戦なので、刻みやすいよう、曲線は出来るだけ避けて、三角形を基本に顔を描きました。 30分以内で見事完成。ちょっと渋い柄の植木鉢を逆さにし、その上にちょんと据えてみましたが、歯のかけたお地蔵さんがにやっと笑っている様な顔となりました。まあ、ご愛嬌です。 日が暮れてから、 チムニア で火をたき暖まりながら、ランタンにもキャンドルで明かりをともしてみました。 これで、おおかみがワオーンと遠鳴きする声が聞こえ、月明かりの中、こうもりがばたばたと飛び回るのを見ればば、怪しげな雰囲気はもっと盛り上がったのでしょうが。おしっこをするように、庭に出された隣の犬が、一時キャンキャンと鳴いただけでした。 それでも、チムニアの火が弱くなる

ロビンソン・クルーソー

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ダニエル・デフォー(Daniel Defoe)の小説「ロビンソン・クルーソー(Robinson Crusoe)」の名が、最近読んだ2冊の本( The Kit-Cat Club と 月長石 )に出てきました。 ロビンソン・クルーソーと言えば、「無人島」くらいは知っていたものの、考えてみたら、実際に読んだことは一度も無かったので、図書館から借りて、さくさくっと読んでみました。 読んで意外だったのが、クルーソーが無人島に到着する前のいきさつ。ざっと書くと・・・ ***** まず、クルーソーは、アフリカへ渡り、モロッコで、ムーア人に捕まり、白人奴隷として2年間仕える。その後逃げ出し、ポルトガル船の船長に助けられる。このポルトガル船は、ブラジルへ渡る途中だったので、クルーソーはそのまま、ブラジルへ。 ブラジルで土地を手に入れた彼は、タバコのプランテーションを経営し、数年で裕福になる。プランテーションを拡大すると人手がいる、ここは黒人の奴隷でも欲しいところ、でも・・・ 小説の設定の時代では、中南米での黒人奴隷の売買は、スペインとポルトガル王国に支配されていた為、一般プランテーション経営者が個人的に黒人奴隷を購入しようにも、その数は少なく、金額が高かった。そこで、数人のプランテーション経営者が集まり資金を出し合い、直接アフリカに赴き、奴隷を連れて帰り、自分達の間でその奴隷を分けようと計画。クルーソーは、アフリカにいた経験から、その航海に随行するよう頼まれる。そして、この船が、オリノコ川沖で難破し、一人だけ助かったクルーソーが無人島に流される・・・。 書かれたのが1718年で、物語の設定は17世紀半ばですから、奴隷の売買や使用など、まだタブー視する向きも無く、罪悪感なども全く無かった時代ではあるのでしょう。 クルーソーは、スペインの、中南米原住民に対する取り扱いのむごさを非難していますが、イギリスも、後、黒人奴隷に対して酷いことをするわけなので、あまり、えらそうな事を言えた身分では無いのです。 また、両親の言うことを聞かず、船乗りになり外へ飛び出したクルーソーが、無人島で、徐々に、教会や聖職者という媒体を通さず、自ら神の愛に目覚めていくという、宗教色も結構あります。 デフォー 自身が、イギリス国教会に必ずしも賛同しない非国教徒のプロテスタ

好きか嫌いかマーマイト

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先日読んだ新聞記事に、こんな一節がありました。 ホルマリン漬けにした鮫の展示物で有名な、英芸術家のダミアン・ハーストに関する記事で、 「彼のファンですら、ハーストは芸術界のマーマイト(artistic marmite)だと認めるであろう。人は彼を大好きか、大嫌いかのどちらかである(You either love him or hate him)。」 マーマイトは、こちらでトーストなどにぬって食べる、いわゆるスプレッドです。 少々、くせのある臭いと味で、好き派と嫌い派の意見が真っ二つに分かれやすい食べ物なので、You either love it or hate it(大好きか、大嫌いかのどっちかね)というキャッチフレーズで知られます。ですから、上の様な新聞記事にも引用されるわけです。 以前、マーマイトのテレビ・コマーシャルで、こんなのがあったのを記憶します。 ・・・室内のソファーでいちゃつく若いカップル。ちゅっと、キスしたとたん、男性がいきなり立ち上がり、「おえっ」と言いながら、洗面所へ駆けて行く。ソファーに残された女性の口元には、黒いものが少しべとっとついていた。そして、キッチンのテーブルのクローズ・アップ。皿の上には、マーマイトのぬられたトーストの食べかけが・・・。 要するに、彼女は、マーマイトが大好きで、彼氏が来る前に、マーマイト付きトーストを食べていたのが、彼氏は、彼女の口元に少量残ったものも絶えられないほど、マーマイトが嫌いでありました、というオチ。 また、納豆などと同じように、外人が嫌う食べ物としての地位(?)も確立しているようです。トーストにべちょっとのばされたその様子は、コールタールがのたっとひきのばされた様で、確かに、食欲がそそる光景ではありません。 私は、ダミアン・ハーストだ~い嫌いですが、マーマイトは、特に大好きでも大嫌いでもなく、普通です。しょっぱいものが食べたいな、と思う時、ちょこっとトーストやライビータにぬって食べます。イーストや野菜エキスを含み、ビタミンBが豊富な健康食なので、一応、常時、戸棚に備えて、切れないようにはしてあります。 ちなみにマーマイト(Marmite)の元の意味は、瓶のレベルの絵にあるように、フランス語で、「料理用の鍋」の事。 こちらの写

キッチンに咲く最後の夏

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朝晩、冷え込んできました。そろそろ、夜間、霜がおりる事も出てくるでしょう。その前に、春の球根を植えねば。 という事で、球根用の花壇を整えるため、夏の間絶え間なく咲いてくれた青いコーンフラワーの最後の花を切り集め、コップに飾り。残りは根こそぎ抜き取りました。お疲れ様。 まだまだ、威勢よく咲いているオレンジ色ののダリアは、抜かずに、来年も同じ場所に生えてくるよう、そのままにしておきますが、ひどい霜がくると、花がやられてしまうだろうので、毎日出来る限り、切花にしています。 キッチンのワークトップに、こうして飾ったダリアとコーンフラワー。夏の最後の残照と言ったところで、室内を明るくしてくれています。 今週末、10月最後の日曜日、ブリティッシュ・サマータイムが終わり、時計の針を1時間戻す事となります。この後は、毎夕、1時間早く暗くなるわけで、少々うんざり。 ダファデル、ヒヤシンス、チューリップとおなじみ春の球根たちを、しまってあった庭の小屋から運び出し、腕まくりをして、今週中には植えましょうかね・・・。冬にどっぷり浸りつつある季節に、春を待つ球根を植えるという行為は、多少、気分を楽観的にしてくれるものではあります。

ばら戦争を見下ろした時計塔

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 セント・オールバンス(St Albans)の時計塔(Clock Tower)は15世紀に建てられ、イングランドに残る唯一の中世の町の鐘楼。 塔の高さは19.6メートル、壁の厚さは鐘を鳴らす衝撃に耐えられるよう、なんと1.22メートル。当時、ロンドンのビッグ・ベンがある辺りに立っていたウェストミンスター宮殿の時計塔がモデル(こちらは、1697年に破壊)。 1トンの重さの、オリジナルの鐘は、天使ガブリエルにちなんでガブリエルと名づけられ、まだ内部に納まっています。鐘にはラテン語で、「我は天より来たり、我が名はガブリエル」と掘られてあります。 塔は、近くにあったセント・オールバンズ修道院(現 セント・オールバンズ大聖堂 )に対抗し、町民達の自由と富の象徴の意味があったようです。時計は、この頃、非常にめづらしく、高価なものであったけれど、修道院にすでに時計があったため、町民達も負けじと、この塔に時計を設置。 ただし、中世の時計は、全く時間の正確さがあてにならず、18世紀には、別のものに取り替えられています。現在の時計は1866年のもの。 セント・オールバンズは、ランカスター家とヨーク家の勢力争い、ばら戦争の戦闘の幕が切って落とされた場所でもあります。 この、1455年5月22日の第1回セント・オールバンズの戦いの際にも、ガブリエルが鳴らされたと言われます。戦闘は、ヨーク家のリチャードと彼に組したウォリック伯の勝利に終わり、ランカスター家ヘンリー6世は、捕われの身に。 週末は、塔の内部を登って、上からセント・オールバンズの町並みを見下ろせるそうです。 幸い、今は、町のマーケット・プレイスを行くのは、のんびりした風情の買い物客や子供連れで、血まみれの剣を振りかざすヨーク家とランカスター家の兵士達ではありません。

イングランドで一番古いパブ?

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この写真のパブ、イングランドで一番古いパブと噂されているものです。 ハートフォードシャー州、セント・オールバンズ(St Albans)の、ヴァー川のほとり、ヴェルラミウム・パークのすぐ脇にあります。他にも、いくつか、「こっちの方がもっと古い」と名乗りを上げているパブもあるので、真偽のほどは定かではありません。 建物が、変わった八角形をしているのは、最初は、はと小屋だった為だと。長い煙突も面白いです。 以前は、The Round Houseと呼ばれていたのが、17、18世紀にかけて、ここで行われた闘鶏が人気となったことから、Ye Olde Fighting Cocks ("Ye Olde" は古い言葉で、"The Old" の意で、直訳は「古い闘う鶏」)に変名。 1849年には、闘鶏は違法となり、今や、動物愛護を掲げるこの国の事、実際の闘鶏や闘犬なぞ、とんでもない。パブの名だけで十分といったところです。 上の写真は、同パブを、ヴァー川の橋の上から撮ったもの。 ***** セント・オルバンズは妙にパブの多いところでした。道を歩いて、次々にパブが隣り合わせで現れて。 可愛らしいものが多いので、見ていて楽しくはありますが、「客取り生存競争も大変だろうな」、と余計なお世話な事も考えてました。 飲み助が多いのでしょうか。裕福な町ではあります。

セント・オールバンズ大聖堂

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セント・オールバン(Saint Alban:聖オールバン)はイギリス最初の、殉教したキリスト教の聖人。 ローマ支配下にあった時代のイギリスで、当時はヴァルラミウム(Verulamium)と呼ばれたローマの駐屯地に住んでいた彼。もとは異教徒であったのが、糾弾されていたキリスト教の聖職者を自宅にかくまい、彼自身もキリスト教に改宗。聖職者を逮捕に来たローマ兵達に、自分が、聖職者のマントを着て身代わりとなり、逮捕拘束され、後、町の小高い丘の上で斬首刑。彼の死刑の時期は、3世紀前、3世紀中ごろ、または4世紀初頭などと色々説がありますが、はっきりわかっていません。 ヴァルラミウムの現在の名は、この聖人にちなんでセント・オールバンズ(St Albans)。彼が死刑にあったとされる場所にそそり立つセント・オールバンズ大聖堂(St Albans Cathedral)はなかなか威厳あります。 セント・オールバンズは、ロンドン、セント・パンクラス駅から、電車でほんの20分なので、ロンドンからのお気軽日帰り観光が簡単にできます。どんな歴史的町でも、駅周辺はいまひとつ魅力が無いというのは良くありますが、セント・オールバンズ・シティ駅周辺もそう。古い市街中心まで、えっちら10~15分ほど歩き。 大聖堂は、広々緑で、ガチョウたちが泳ぐ池などもある公園、ヴァルラミウム・パークの北端にあります。 サクソン時代から修道院のあったこの地に、ノーマン人が本格的修道院を建てたのは11世紀。時代を経て、幾つかの改修が加えられ。更に、ヘンリー8世の修道院の解散の為、破壊された部分もあり。それがまた、後、幾つか、修復され。 大聖堂や教会などは、大体において、過去の色々な時代のパッチワークの感じです。建築に詳しいと、「この部分はxx時代のものじゃ」と見ただけでわかり、教会、聖堂めぐりも、もっと楽しいのでしょうが。 これは、ノーマン時代のネーブ(身廊)で、英国内で現存する中世のネーブで一番長いものだそう。 支柱に描かれた絵は、13~14世紀のもの。 このスクリーンは、15世紀後半のもの。彫像は、修道院解散により破壊されたため、ヴィクトリア朝の作り直し。 ヘンリー8世も、お騒がせの王様です。この人がいなかったら、イギリスにも、フランスの様に、もっと沢山古い修道院

炎のランナー

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 1924年夏の、パリ五輪にて、陸上の100メートルと、400メートルで、其々、イギリスに金メダルをもたらした走者が2人。前者は、リトアニアのユダヤ人移民の息子、ハロルド・エイブラハムス(Harold Abrahams)、後者はスコットランド人宣教師の息子エリック・リデル(Eric Liddell)。 この2人が、クライマックスのパリ五輪で優勝するまでの姿を追っている映画、「Chariots of Fire(炎のランナー)」、音楽を含め、有名な映画なので知った気分でいながら、最近まで見なかったもののひとつです。 ケンブリッジ大学に入学したものの、常にユダヤ人である事を意識し、何事にも秀でようとするあまり、攻撃的で、野心的なエイブラハムス。彼曰く、アングロ・サクソン中心のイギリス社会の中で、ユダヤ人の自分は、「水飲み場に連れて行ってもらえても、水を飲ませてもらえない」。だから、陸上で栄光を収めるのも、イギリス人として認められるための、「ユダヤ人である事に対する武器」。 エイブラハムスは、後、スポーツ・ジャーナリスト、アナウンサーとして活躍。望んでいた通り、イギリスのエスタブリッシュメントに認められ、その一員となる事に成功。彼の葬儀の場面で、映画は始まり、終わります。 一方、両親の宣教先の中国の天津で生まれた、敬虔なキリスト教信者のリデルは、走るのは、「神を讃えるため」で、走る力は、内面から来ると信じ。誰も悪口が考えられないような、本当に、良い人、だったそうです。 彼は、当初オリンピックの100メートルに出場予定だったのを、その予選が、キリスト教信者にとっては休息の日である、日曜日に当たるとわかると、出場を拒否。代わりに、トレーニングをしていなかった400メートルに出場し、優勝。 リデルは、この後の人生が、さらに映画の様な人。オリンピック後、天津に宣教師として赴き、結婚、子供もできたのは良いけれど、第2次大戦が勃発。日本軍の捕虜となり、終戦あとわずかの時に、中国の収容所内で脳腫瘍にて死亡。収容所にいる間も、他の収容人員のモラルを保つ重要な存在だったと言います。また、英語のウィキペディアによると、英国と日本の間で、捕虜交換の話があり、有名な陸上競技者であるリデルを、英国側は助け出そうとしたものの、リデルは自分の代わりに妊

ルパート・ブルックのグランチェスター

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ケンブリッジから少し離れ、ケム川に沿ってやや上流(ケンブリッジより南)へ行くと、グランチェスター(Grantchester)という小さな村があります。ケム川の旧名である、グランタ(Granta)から取った地名。 グランチェスターは、20世紀初期の詩人、ルパート・ブルック(Rupert Brook)が住んだ事で有名。彼、写真を見ると、ロマンチックな感じの美男子。 この地をこよなく愛した彼は、Byron's Pool(バイロンの池)と呼ばれ、バイロンが泳いだとされる周辺のケム川で泳ぎ、今も、ティー・ルーム/ティー・ガーデンとして経営されている The Orchard (オーチャード・果樹園)の庭でお茶をし。 このオーチャード・ティー・ガーデンの歴史は、遡ること、1897年のある春の日。当時、スティーブンソン夫人所有のOrchard House(オーチャード・ハウス)に、数人のケンブリッジ大学の学生が現れ、館の庭の花盛りの果実の木の下でお茶を出してもらえないか、と頼んだのが始まりと言います。この果樹園内でのお茶は、瞬く間に、ケンブリッジの学生の間で人気に。 オーチャード・ハウスでは、下宿人も取っており、1909年にこの屋に部屋を借りるのが、ルパート・ブルックです。彼は、後、隣に建つThe Old Vicarage(旧牧師館)に移り住みます。この牧師館は、今では、小説家ジェフリー・アーチャーに買われてしまっています。 ブルックがグランチェスターへ居を構える1909年から第一次大戦勃発の1914年まで、彼を中心に、彼の著名な友人達が、オーチャード・ティー・ガーデンに集います。作家のヴァージニア・ウルフ、E.M.フォースター、経済学者のジョン・メイナード・ケインズなど、その面々は、ほとんどが、ブルームズベリー・グループのメンバー。グランチェスター・グループなどと称される事があるようです。 *ブルームズベリー・グループは、ロンドンのブルームズベリー(Bloomsbury:大英博物館や、ロンドン大学の拠点があるエリア)周辺に集まり、議論した、作家、芸術家、思想家達のグループ。* 彼の詩の中でおそらく一番有名なのが、 The Old Vicarage,Granchester (グランチェスター、旧牧師館)。これは、ブルッ

キングス・カレッジ・チャペル

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ケンブリッジのイメージとして、一番良く使われ、目にするる建物のひとつが、 キングス・カレッジ のチャペル。(上の写真、左手の建物。) 31あるケンブリッジ大学のカレッジの中でも、キングス・カレッジは、古株の部類で、1441年、まだ19歳だった、ヘンリー6世により創立。このため、周辺にあった幾つもの中世の家々や店、教会までも強制買取で、取り壊され、川へと続く広々とした土地をカレッジのために確保。それは、王様ですから、何だってできます。3年もかかったと言われる、この古い建物の撤去が、ケンブリッジが後、大学を中心とした町になる第一歩であったわけです。  ヘンリー6世は、また、イートン校も創立しており、伝統的に約400年以上もの間、キングス・カレッジは、イートン校からの卒業生しか受け入れなかったそうです。 宗教熱心な王様だったヘンリー6世が、一番、力を入れようとしたのが、チャペルの建設。他に類を見ない美しさと大きさを誇るものにしたかったようですが、中世の大規模建築物は、時間がかかるのがもっぱら。このチャペルも例外ではなく、約100年かかっています。 1446年に、チャペルの最初の石が置かれたものの、1455年に、ばら戦争が始まり、1471年にはヘンリー6世は、ロンドン塔にて殺害。 次の王、エドワード4世の時代は、ほとんど建築は進まず。その後、せむしのリチャード3世が、熱心に建設の続行を試みたものの、彼は彼で、1485年、ボズワースの戦いで戦死。 リチャードの後、王座についたチューダー朝創始者ヘンリー7世は、しばらくはチャペルの建設などは放ったらかし、ようやく1508年に、再開。ヘンリー7世は、その翌年亡くなるので、完成は、息子のヘンリー8世の時代となります。 チャペル内部は、世界で一番大きいと言われるファン・ヴォールト(Fan Vault)の繊細なレースの様なパターンがが天井を覆ってています。 ケンブリッジ観光をした日は、 フィッツウィリアム博物館 (Fitzwilliam Museum)と、トリニティー・カレッジのレン・ライブラリー(Wren Library)に時間をかけたので、キングス・カレッジ・チャペルの内部には入りませんでした。よって、内部ファン・ヴォールトの写真は、キングス・カレッジのサイトより拝借したものです。何度もテ