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べドラム精神病院

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「さて、今日はやる事もないし、どこへ行って何をして暇をつぶそうかしら・・・そうだわ、べドラム(Bedlam)へ気違いでも見に行こうかしらん・・・。」 上の絵は、18世紀のイギリス画家ウィリアム・ホガースによる社会風刺画「放蕩者一代記」(A Rake's Progress)シリーズの最後の絵の銅版画版です。「放蕩者一代記」は、放蕩のトムが、父親から遺産を受け継いでから、贅沢、売春宿、ギャンブル、その他もろもろに使い果たし、財産尽きて気が狂い、最後に精神病院で人生終える、という物語を8枚の絵で綴ったもの。上の様に銅版画版として一般に浸透し、話題を博したシリーズでした。 トムが最後にたどり着く精神病院が、悪名高きべドラム精神病院。左手手前に半裸で鎖につながれた姿で描かれているのがトム。鎖でつないであるのは、自分で自分を傷つけるのを防ぐためだとか。確かに、トムの胸の下に、自分でナイフでつけた傷が見られます。トムを支えて涙するのが、ずっと、そんなどうしょーもないトムを慕っていた女性セーラ。その他、気違い科学者、気違い音楽家、気違い仕立て屋、自分を法王だと信じる男、自分を王だと信じる男などが描かれています。そして、右手奥に描かれている2人の貴婦人は、べドラムに収容されている気違いを見に来た観光客なのです!動物園に、変わった動物を見にきた面持ちで。 1247年までには、現ロンドン、リバプールストリート駅のある場所に、セント・メアリー・ベツレヘム(St Mary Bethlehem)と呼ばれる修道院が設立されていたといいます。当修道院には付属の病院があり、1377年あたりから、この病院で、身寄りのいない貧しい、精神に異常をきたした人物達を収容するようになるのです。べドラムは、この修道院の名、ベツレヘムがくずれて発音されるようになり、できた言葉。べドラム精神病院が、長年の間、あまりに有名であったため、今でも、bedlam(べドラム)というと、混沌状態、気違い沙汰、または混沌とした場所を指して使われる事があります。 It's bedlam here! ここは、めちゃくちゃだ! それは、昔の事ですから、精神病を治す方法とて、あまり無く、ここに収容されたいわゆる「気違い」は、多くの場合囚人同様くさりにつながれ、時に鞭打たれたという話もあります。ヘンリ

博士と彼女のセオリー(The Theory of Everything)

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筋萎縮性側索硬化症(Motor neurone disease)により、体の自由が利かない、イギリスの車椅子の物理学者、スティーヴン・ホーキング(Stephen Hawking )。 以前、テレビで、スティーヴン・ホーキング自身が語る形式の、彼のこれまでの人生のドキュメンタリーを見た事があります。両親は双方オックスフォード大出身のインテリ家庭に生まれ、お父さんは熱帯病の研究者。友達の話によると、子供の頃から、彼の家の食卓では、子供たちも交えて、色々な話題の討論が繰り広げられていたとか。もう、小さな頃から、教えられた物事を鵜呑みにして丸覚え・・・というより、自分の頭でこなして、考え、自分なりの意見を形成し、それを臆せず喋る、という素養が、家庭のバックグラウンドでできてたんでしょうね。 彼自身も、オックスフォード大に進み、パーティー大好きで、あちこちのパーティーやお祭り騒ぎに顔を出しながら、勉強量は、一日たったの一時程度だったとか。にもかかわらず、優秀成績で卒業。こんなのは、 ブリンドン・クラブ などで大騒ぎをしながらも、オックスフォードを優秀で卒業したデイヴィッド・キャメロンなんかと同じ。ただ、キャメロンの取ったはものは、PPE(Philosophy,Politics and Economics、哲学、政治、経済)という学位なので、一般人にとっての、数学や物理系科目の難しさを考えると、この2人を比べたりしたら怒られちゃいますね。それにホーキング氏は、ずっと労働党支持者のようですし。スティーブン・ホーキングは、その後、博士号を取るためにケンブリッジ大へ。オックスフォード大の時代から、徐々に、時に体が思うように動かない事があるのに、気付き始めてはいたようですが、病気が判明するのは、ケンブリッジへ行ってから。そして奥さんとなるジェーンと出会うのもこの頃。 最初の奥さん、ジェーンもドキュメンタリーに登場していましたが、清楚で上品な印象。彼女は、彼の、にまっと笑う大きなスマイルにひかれたような事を言っていました。病気を承知での結婚後、ケンブリッジに落ち着き、3児をもうけたものの、スティーヴン・ホーキングの病気の進行に伴うプレッシャーはもちろん、常に外からの看護師が必要となった後は、24時間プライバシーの無い生活、また、ホーキング氏が有名になった事による、メディア

ウイリアム・ハーベー

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昨日のブログポストに載せた、小説「 レストレーション 」の主人公メリヴェルは17世紀イギリスの医者でしたが、彼の親友で、やはり医者のピアースがいたく崇拝していたのが、ウイリアム・ハーベー。ピアースは、この尊敬する人物の名を取り、働いていた精神病院の病棟のひとつをウイリアム・ハーベー棟と名づけるのでした。医学者ウイリアム・ハーベーの名は、この小説を読む前から聞いたことはあったのですが、もっと後の時代の人かと思っていました。そこで、ついでに、ちょっと彼について調べてみる事にしました。 ウイリアム・ハーヴェー(William Harvey1573-1657)は、イギリス人医学者。血液は、心臓から出て、体内をめぐり、心臓に戻る、という、血液循環説を、初めて、明確に唱えた人物として知られています。この理由から、小説内で、ピアースは、「ウイリアム・ハーベーを自分の体内に感じない日は、一日も無い。」などと言うのです。 ハーベーは、イギリスはケント州の生まれ。ケンブリッジ大、そして後、パドヴァ大学で学び、パドヴァでは、解剖学で名高い医学者ジェローラモ・ファブリツィオ(Girolamo Fabrizio、別名はヒエロニムス・ファブリキウス Hieronymus Fabricius)の教え子となります。ファブリツィオは、解剖を行いつつ、生徒に講義を行う解剖劇場なるものを、一番最初に、1594年にパドヴァ大に設立した人物でもあり、彼が、血液は一方通行で流れる事などを発見していたのを、ハーベーが更に、研究を推し進め、血液循環説に至る次第。 イタリアを去った後のハーベーは、1602年にイギリスで医者となり、エリザベス1世の主治医であった人物の娘と結婚。1618年には、ジェームズ1世の主治医となり、後には、ジェームズ1世の息子チャールズ1世の主治医。両王からの奨励もあり、動物の解剖などを通して研究を続けます。当時は、解剖のための人間の死体の入手がなかなか難しかったようで、なんでも、ハーベーは、自分の父と姉の死後、彼らの死体の解剖も行ったということです。当然、生前、本人達から許可を取ってのことではあるようですが。研究の結果、1628年に発表するのが、Exercitatio Anatomica de Motu Cordis et Sanguinis in Animalibus (動

小説「レストレーション」(Restoration)

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英語の「restoration」という言葉は、返却、(秩序などの)回復・復活、(もとの状態、地位への)復帰を意味する名詞です。歴史的な意味では、「the Restoration」と大文字ではじめると、イギリスの1660年の王政復古、またその時代(1660-1685年)を指します。ちなみに、日本の明治維新は、将軍家が、天皇に権利を返還した意味からも、英語では、「the Meiji Restoration」と称されます。 イギリスの王政復古は、オリバー・クロムウェルの共和制が終わった後に、ピューリタン戦争の挙句、首を切られたチャールズ1世の息子チャールズ2世が、亡命先の大陸ヨーロッパから、イギリス王座に返り咲きを果たした事です。王政を無くしたものの、蓋を開けてみれば、護国卿のタイトルを取って国を牛耳ったオリバー・クロムウェルも、名こそ違え、王者のように君臨。国を真っ二つに割っての流血の挙句、作り上げたのは、別の形の王様。それどころか、ピューリタン議会の共和制は、クリスマスや芝居、お祭り騒ぎの廃止など、庶民には、色の無い、楽しみのないものとなり。それくらいだったら、昔ながらの王様の方が良いと、召還されたチャールズ2世。メリー・モナーク(陽気な王様)の異名を取った人物で、彫りが深い、ダークな顔立ちの美男子。背もかなり高かったカリスマ王です。チャールズ2世の王政復古期は、人文科学が発達した時代でもあります。 大晦日に読み終えた、去年最後の本は、ローズ・トレメイン(Rose Tremain)による「Restoration レストレーション」。チャールズ2世の王政復古の時代を生きた、陽気でおとぼけ、気は良いが誘惑に弱いロバート・メリヴェルを主人公とした物語です。この題名のRestorationは、チャールズ2世の王政復古時代を意味すると共に、王から恩恵を与えられたものの、それを失い、ほぼ無一文となりながら、再び人生を立て直し、本当の自分を見つける、メリヴェルという人物の復活、そしてそれにより、再び王の愛情と恩恵が返却される意味がかかっています。調べたところ、原作の日本語訳は、今のところ出ていないようなのですが・・・。1980年の作品なのですが、もう訳される事ないでしょうか。面白いのに。 ざっとしたあらすじは、 チャールズ2世の手袋を作る職人であった父を通して、

ヤヌス(Janus)の月に

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January (1月)という名は、門を守る神、移行の神であると言う、ローマ神話のJanus(ヤヌス)から取ったという説があります。ヤヌスは、通常、2つの顔を持った姿で描写されており、ひとつの顔は過去を見つめ、もうひとつの顔は未来を臨んでいます。人間は、節目、切り目に、来し方行く末を考えるものですが、ヤヌスが過去と未来の門を守る1月は、それにもってこいの機会です。 「私には暗い過去がある」「過去は虹色だったのに、お先真っ暗」などと、過去や未来を、色や明るさで表現するのを良く耳にします。私は、過去は夜の色だと思うのです。タイム・マシンでもない限り、もう、手が届かない、取り返しのつかない、闇の中に飲まれてしまっているという意味で。その中に、いくつかの思い出が、お星様の様にかがやいているのではないかと。一方、未来は明け方の色。不幸が訪れる可能性もある、けれど、何か良い事も起こるかもしれないという期待もあり。不安の闇に、希望の淡い紅色が少しずつ広がっている、そんな感じです。節目と言うのは、一年もそうですが、もっと短い一日も節目ですから。 以前見たスペイン映画「 ローサのぬくもり 」の中で、老人が、明け方、アパートの窓から外を眺め、「夜明けだ。また別の一日。神が我々に、また一日を与えてくれた」とつぶやくシーンがありました。また、新年が迎えられて良かった。何かが出来る今という時間があって良かった。どうにもならぬ事をじめじめ考えるのも、つまらぬ事にうだうだ悩むのも、それこそ時間の無駄と言うものでしょう。バンジージャンプをするとか、エベレストに登るような過激な事をしないまでも、日常の中で、はっとする様な瞬間を作り、または、ちょっとがんばったな、と思える事をしていきたいものです。現在が、取り戻せない過去に移行してしまった時、背後についている私のもうひとつの顔が、数多くのきらきら星を眺められるような一日を、ひいては一年を送れれば、とヤヌスの月に思うのです。