ペンテコステ

上は、ロンドンのナショナル・ギャラリーにある、14世紀イタリアの画家、ジョット(Giotto di Bondone)によるとされる、ペンテコステ(Pentecost、英語の発音はペンテコスト)の絵。キリストの生涯を描いた7つのパネルの一番最後のものにあたるそうで、残り6枚のパネルは、世界各地の別の美術館に散り散りに所蔵されているそうです。ペンテコステの絵は、この7つのうち、唯一、キリスト自身は描かれていないもの。

と言ったところで、ペンテコステとは、なんじゃい、という話になります。ペンテコステは、キリスト復活(イースター・サンデー)の50日後の、日曜日を指し、キリスト教会が本格的に生まれた日、キリスト教の世界への布教が始まった日などとみられています。ギリシャ語で50番目を意味する、「pentekoste」が語源という事。日本語では、精霊降臨。

復活して使徒たちの前に姿を現したイエスは、後に精霊の訪れを受けるだろうとの言葉を残し、昇天。この後、12人の使徒たちと、信者たちは、ユダヤ教の収穫祭、シャブオート(Shavuot)という祝いに集まり、皆で祈りを捧げていたところ、天空から音が聞こえ、強風が吹き、それぞれの信者たちの上に、2つに割けた炎のような舌が現れ、信者たちは精霊に満たされた・・・これが、イエスの予言した、精霊の訪問。そして、精霊でみたされた信者たちは、ローマ帝国内のあらゆる地方の言葉をしゃべり始めた・・・というもの。

ジョットの絵の、上部中央には、精霊の存在を表す白いハトが小さく描かれており、精霊に充たされた使徒たちの頭からは、炎のようなものがくっついて、ちらついています。建物の外には、シャブオートのために、色々な場所からエルサレムに集まっていた大勢のユダヤ人がいて、自分たちがやって来た土地の言葉を含め、色々な言葉で話をする声が外まで聞こえ、人々は、中を覗き込んだことになっています。この絵では、そんな群衆のうち、3人だけが、前景で、中の様子をうかがっています。

群衆は、最初は、色々な言葉で喋る信者たちを眺めて、「酔っぱらっているのか」と勘違いをするのですが、使徒のリーダー格であるペトロ(英語ではピーター)が、立ち上がり、酔っているのではないと、事のいきさつを説明。そして、処刑されたイエスは、神であり、キリストである、罪を清めるため、イエス・キリストの名において洗礼を受けるようにと、説く。なんでも、このピーターのお説教がきいて、この日に、3000人が、キリストの教えに従うべく洗礼を受けたと。

そして使徒たちが、イエス・キリストのメッセージを伝えに、エルサレムの外へと飛び出しての伝道も始まるのです。

ペンテコステの出来事は、新約聖書の「Acts of the Apostles」(使徒言行禄)の第2章に書かれています。「使徒言行録」は、新約聖書の最初を構成するマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ(英語では、マシュー、マーク、ルーク、ジョン)による4つの福音書に続くものです。この第2章冒頭の、精霊が訪れる部分を、我が家にある、「キング・ジェームズの聖書」より、英語で載せておきます。

2-1 And when the day of Pentecost was fully come, they were all with one accord in one place.

2-2 And suddenly there came a sound from heaven as of a rushing mighty wind, and it filled all the house where they were sitting.

2-3 And there appeared unto them cloven tongues like as of fire, and it sat upon each of them.

2-4 And they were all filled with the Holy Ghost, and began to speak with other tongues, as the Spirit gave them utterance.

参照として、キリストが処刑となる1週間前にエルサレム入りする話は、以前の記事「キリストはロバに乗って」、最後の晩餐とキリストが逮捕される直前のゲッセマネの祈りについては「キリスト最後の夜」まで。

それにしても、昔の西洋美術の鑑賞は、キリスト教を多少でも知っておかないと面白くないというのはあります。美術館に行ったはいいが、何が描いているのかわからず、脇の説明を一枚一枚、いちいち読むのも面倒だから、ちらっとながめて素通り・・・なんてことも。このナショナル・ギャラリーのジョットの絵も、私は、イギリスに来たばかりの当時は、素通りしていたものの一枚。

また、数ある聖人も、名前は聞いたことがあっても、いつの、何をした人か知らないなんてことも、まだまだ。気が向いたときに、ひとつひとつ、ぼつぼつ書いていくことにします。

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