キリスト最後の夜

本日は、パーム・サンデー。来週の日曜日は、復活祭で、しかも、ブリティッシュ・サマータイムも始まるというのに、窓から外を眺めると雪景色。それは細かい粉雪が舞っています。昨日も、ほぼ一日、雪は降り、現在のうちの庭の積雪は、約10センチくらいでしょうか。それでも、うちの辺りはまだ良いほうで、イギリスも場所によっては、交通網大混乱の大雪となり、雪に埋もれた車内で、死亡する人まで出る始末。去年は、非常に雨模様の日の多い、しけった1年だったため、今年は、いつもに増して春の到来が楽しみだったというのに。春は、どこ???

こんな天気では、お出かけも楽しくないので、家で、イースター関係のブログ記事でも書こうと、キーボードを叩くことにしました。今さっき、近くの教会の人が、イースターと聖週間の教会での儀式のスケジュールを載せたパンフレットを、うちのポストに落としていったばかりですし。

聖週間の始まりとなるパーム・サンデーについては、去年書いた記事をご参照ください。(こちらまで。)

キリストが十字架にかけられるのは、金曜日とされ、それは、グッド・フライデー(聖金曜日)として、こちらでは祝日です。翌日の土曜日にキリストの死体は、棺に収まったまま、そして、日曜日(復活の主日)にキリストはよみがえるわけです。グッド・フライデーの前日の木曜日は、イギリスでは、洗足木曜日(Maundy Thursday モーンディー・サーズデー)と称されます。

ヨハネ(英語読みはジョン)の福音書によると、最後の晩餐の前に、キリストは、使徒たちの足を洗い、新しい戒律(new commandment)として自分が彼らを愛したように、彼らにお互いを愛するようにと告げる。このことから、英語のMaundy Thursdayは、ラテン語で戒律を意味する Mandatumから派生したと言われています。

上の絵は、ティントレットによる、キリストの洗足シーンを描いたもの(ロンドン・ナショナル・ギャラリー蔵)。キリストの洗足は、ティントレットのお気に入りのテーマのひとつだったそうです。ここで、足を洗ってもらっていながら、キリストとやり取りを交わしているのは、ペトロ(ピーター)。

The Gospel according to St. John
13-8 Peter saith unto him, Thou shalt never wash my feet. Jesus answered him, If I wash thee not, thou hast no part wih me.

ヨハネによる福音書
13-8 ペトロはイエスに曰く、あなたが私の足を洗うなどしてはなりません。イエスは、それに答え、もし私がお汝を洗わねば、汝は私とは何の絆も持たぬものである。

このキリストの行為をまねて、過去のイングランドの王様女王様たちは、洗足木曜日に、貧民の足を洗ったり、貧民にパンや魚、ワインや布などの配布を行ったりという事をしていたようです。王様によって、儀式に参加して本当に洗う人から、一切やらない人、食物の配布だけを行うなど、まちまちだったようですが。特に、黒死病なんかが流行っているときは、貧民の足を洗うどころか、近くにもよりたくない、というのが本当のところでしょうし。前もって、足がまあまあ綺麗そうな人物だけ選んだとかも、あったかもしれませんね。最終的には、他人の足を洗うなんて、じょうだんじゃねー、と、王様達が足を洗う習慣は18世紀には消え去ります。現在、洗足木曜日には、イギリス国教会ではロイヤル・モーンディーの儀式が行われ、モーンディーマネーと称される銀貨が女王によって、配られます。銀貨を受け取る人たちも、今では貧乏人というより、教会や社会一般に貢献したとして選ばれた人たち。この儀式の際に、王室の施物分配師は、洗足のなごりとして、右肩にタオルをかけています。

さて、ヨハネの福音書に話を戻すと、洗足後、晩餐のテーブルで、キリストは、「お前達のひとりが私を裏切るだろう」(one of you shall betray me)と告げます。「それは、誰か」と聞く、ペトロに、キリストは、「私が、このパンを浸して渡す者だ。」と言い、パンを浸すと、それをイスカリオテのユダ(ジューダス)に渡す。そして、「さあ、お前がしようとしている事を速やかに施行するがよい。」ユダは、それを受け、その場を去るのです。

「最後の晩餐」の絵と言えば、やはり、まっさきに思い浮かべるのはレオナルド・ダ・ヴィンチのものです。キリストが、「この中の一人が私を裏切る」と告げた直後の弟子達の反応を描いたもの。

パンとワインをもって、「これがイエスの体、これがイエスの血」とする聖餐(ユーカリスト、主の晩餐)の儀式のもととなる記述は、ヨハネを除く、マタイ、マルコ、ルカの福音書にそれぞれ記載されています。

The Gospel according to St. Matthew
26-26 And as they were eating, Jesus took bread, and blessed it, and brake it, and gave it to the disciples, and said,Take, eat; this is my body.
26-27 And he took the cup, and gave thanks, and gave it to them, saying Drink ye all of it;
26-28 For this is my blood of the new testament, which is shed for many for the remission of sins.

マタイによる福音書
26-26 そして、晩餐を取る間、イエスはパンを取り上げ、それを割り、弟子達に与え、言った。これを受け、食べるが良い、これは私の体である。
26-27 そして、イエスはカップを持ち上げ、感謝をささげると、それを弟子達に手渡し言った。これを飲み干すがいい。
26-28 これは、新しい誓約として、多くの民の贖罪のために流される私の血である。

さて、シーンは代わり・・・上の絵は、ナショナル・ギャラリー蔵、アンドレア・マンテーニャによる「The Agony in the Garden」(ゲッセマネの祈り)。

自分の死が近いと知っているキリストは、晩餐の後、重い心で、弟子の3人、ペトロ、ヨハネ、ヤコブを従え、ゲッセマネのオリーブ山へ出かける。この出来事は、4つの福音書全てに記述があります。弟子達から少し離れたところで、祈りを捧げるイエス。「主よ、できれば、死を回避できないものでしょうか。それでも、それが主の意思であるならば、それに従います。」と。その間、3人の使徒たちは、近くで眠りこけてしまう。マタイの福音書では、その姿を見たイエスが、「私と共に1時間も祈祷することができないのか?精神はあっても、肉体は弱いものだ。」との言葉をもらすのです。

ルカの福音書によると、迫る死に苦悩するイエスの元に、天使が現れ、イエスに勇気を与えた、ということ。遠くには、キリストを逮捕するために、ユダに導かれたローマ兵たちが近づいてくるのも描かれています。

上は、マンテーニャの義理の弟ジョバンニ・ベリーニによる、同じテーマの絵。こちらも、やはりナショナル・ギャラリー蔵なので、じっくり比べる事ができます。ごつごつっとした岩肌が彫刻の様で、構成がもっとドラマチックなマンテーニャより、夜明けの光がやわらかく、やさしい感じの絵。十字架での死を前にした、キリスト最後の夜が明けていきます。

と、ここまで書いて、我が家の窓から外を眺めると、粉雪は、まだ空気の中を踊り続けています。

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