バウンティ号とピトケアン島

南太平洋にあるピトケアン諸島(Pitcairn Islands)は、イギリスの海外領土です。正式名は、ピトケアン・ヘンダーソン・デュシー及びオエノ諸島(Pitcairn, Henderson, Ducie and Oeno Islands)。人が住むのは、うち、ピトケアン島のみで、住民は50人前後・・・この人たちは、何度も映画化されている「バウンティ号の反乱」(Mutiny on the Bounty)を引き起こした英国船乗りの末裔達です。

それでは、史上最も有名な船上でのmutiny(ミューティニー:上官に対する反逆、反乱)であると言われる、その「バウンティ号の反乱」とは・・・

1787年12月23日、タヒチにむけ、イギリスを出発したバウンティ号。船のキャプテンは、キャプテン・クックの第3回目の航海に同乗した経験を持つウィリアム・ブライ。バウンティ号航海の目的は、タヒチでパンノキ(breadfruit)の苗を入手し、それを西インド諸島(特にジャマイカ)へ輸送すること。パンノキを西インド諸島で育て、その実を、現地プランテーションで働く黒人奴隷の、安価な食物に利用しよう、というせこい計画の一環です。

ウィリアム・ブライは、当初は、南米の最南端、ホーン岬(Cape Horn)を回って南太平洋へ出、タヒチに辿り着く計画だったものの、危険とされる、この海路、悪天候のため、1ヶ月近くトライしてらちがあかず、最終的にあきらめ、東海路で、アフリカの喜望峰(Cape of Good Hope)を回り、インド洋経由となりました。タヒチに着くのは翌年、1788年の10月。タヒチ到着後は、パンノキの苗をある程度の大きさに育てる必要から、船員たちは、数ヶ月滞在する事となるのですが・・・

タヒチ、良いとこ、一度はおいで
酒は美味いし、姉ちゃんはきれいだ

という感じで、当時のタヒチは地上の楽園。お日様サンサン。綺麗なビーチ。半裸の美しくおおらかな女性達。そして、島民からの歓迎、歓待を受け、イギリス、更には船上での厳しい生活とはうって変わった夢の様な日々。多くの乗組員が現地女性と恋仲にもなり。約1世紀後の、19世紀後半、今度は、フランスの画家ゴーギャンが魅了され描く、あの女性達です。(残念ながら、西洋とのコンタクトが増えるにつれ、タヒチの社会は、今まで無かった西洋人が持ち込んだ様々な病気、更には銃、アルコールの影響で、やがてパラダイスではなくなってしまうわけですが。ゴーギャンの時代はすでに、タヒチはフランスの植民地で、伝統的社会の崩壊は進んでいたようです。)

そんな楽園に長期滞在をした後、いざ、「さあ、それでは出発の時が来た」、となった際、タヒチを去りたくない者は沢山。イギリスに帰らないことによって無くすものなどほとんど無い下層乗組員はもちろん、航海中は、ブライの右腕であったフレッチャー・クリスチャンも現地に好きな女性ができた上、ブライとの関係が悪化していました。

1789年の4月、ついにバウンティは、パンノキを積んで、タヒチを出発。約20日経ち、トンガ近海を航海中、フレッチャー・クリスチャンは数人の乗組員と共に、ブライの眠る船室へ潜入し、彼を取り押さえ、船をのっとります。乗組員総勢約40人中、反乱側とキャプテンに忠誠を尽くす側は、半々に分かれ。ブライと忠誠側乗組員は、小型ボートに移され、そのまま海上に置き去りにされ、反乱軍を乗せたバウンティ号は、タヒチへと取って返すのです。
さて、ブライ船長は、部下の取り扱いはいまひとつだったものの、航海技術には優れた人物だったようで、18人を乗せた、このびっくりするような小さいボートで、酷い思いをしながらも、記憶を辿って航海を続け、オランダ領ティモール島の西部に位置するクパンに、同年6月に辿り着くのです。彼が、実際にイギリスへ戻り、海軍にバウンティ号の反乱の顛末を報告するのは、更に、この約1年後となります。

一方、反乱組みは、というと、タヒチへ戻ったものの、そのまま留まると、やがて、英国の船が再び訪れ、逮捕される可能性がある。捕まれば、ほとんどの場合、絞首刑ですので、自分達の他、愛人を含む原住民何人かを乗せ、タヒチに留まる決意をした数人を残し、英国海軍に発見される可能性が低い永住地を求め、再び、碇を揚げます。そして、やがてたどり着くのがピトケアン島。この後、仲間内で殺し合いなどもあったようで、クリスチャンも、殺害されたなどと言われていますが。ただ、死ぬ前に、しっかり子孫は残しており、前述したよう、バウンティ号で、ここへ辿り着いたイギリスの船乗り達とタヒチの女性の子孫達が、まだ、ここに住んでいます。

1856年には、ピトケアン諸島の人口上昇のため、住民の大半が、オーストラリア東に浮かぶオーストラリア領ノーフォーク島に移り住んでいます。更に1999年には、ピトケアン島で、14歳の少女をめぐる暴行事件などがあり、情けない事でニュースとなってしまっていました。

尚、ブライは、更なる後の航海(1791-93)で、タヒチからのパンノキの苗をジャマイカへ運送に成功。パンノキは移植され、とても良く育ったものの、現地の奴隷たちは、その実を食べるのを拒否したという話ですので、なんとも大がかりな無駄なおつかいとなってしまいました。ただ、現在は、西インド諸島で、場所によって、パンノキは人間の食用としても、また、家畜の食用としても利用されているようです。

*****

この事件は、過去、5回も映画化されているようです。

有名なのは3作で、

1935年 戦艦バウンティ号の叛乱(Mutiny on the Bounty)
クリスチャン:クラーク・ゲーブル ブライ:チャールズ・ロートン

1962年 戦艦バウンティ (Mutiny on the Bounty)
クリスチャン:マーロン・ブランド ブライ:トレヴァー・ハワード

1984年 バウンティ 愛と反乱の航海(The Bounty)
クリスチャン:メル・ギブソン ブライ:アンソニー・ホプキンス

1984年ものが、史実に一番近い描写がしてあるとの事で、私が見たことがあるのはこれだけです。ウィリアム・ブライの肖像画を見る限りにおいては、アンソニー・ホプキンスに顔の感じも似ています。

この映画の中で、「これも史実かな?」と気になったのは、タヒチでキャプテン・ジェームス・クックの肖像画が後生大事に崇められていたのです。族長に「キャプテン・クックはお元気ですか?ハワイで亡くなったという話も聞いたが。」と聞かれ、事実、クックは3度目の航海の際、ハワイで原住民に殺されてしまっていたのだけれど、タヒチでクックが敬愛されているのを知るブライは「彼は元気だ」と嘘をつくのです。

音楽は「炎のランナー」でお馴染みのヴァンゲリス。主役2人の他に、ダニエル・デイ=ルイス、ローレンス・オリビエ、エドワード・フォックス、リーアム・ニーソンを含む豪華キャストでした。純粋なアドヴェンチャーものとしても楽しめ、なかなか良かったです。

原題:The Bounty
監督:Roger Donaldson
言語:英語
1984年

コメント

  1. みにさん、こんにちわ
    ちょうど、昨夜こちらのテレビでもこの話をやっていました。イギリスからビトケアン島撮影許可が下りるまで3年以上かかったとかで、現在の島の様子を撮影していました。現在は年に4回だけの定期船がでているようですね。
    テレビでは殺し合いの人間心理が中心のビートたけしが案内人の組み立てになっていました。今度機会があれば映画も見てみたいと思います。
    みにさん、いつもながらの魅力的な作品紹介ありがとうございます。
    あまりコメントしていませんが、ご主人の病気が完治されることをこちら埼玉からも奥と一緒に祈っております。

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  2. らぶさん、こんにちは。
    そうなんですか、テレビで取り上げられていたのですか。太平洋に関する興味は、場所的に日本の方が強いかもしれませんね。ピトケアン島、いつか奥さんと行かれてみては?
    私もそのうち、見ていないバウンティ号の他の2作(特にクラーク・ゲーブルもの)を見たいと思っています。

    完治はかなり時間がかかると思いますので、病気を持って生きるのが日常となりつつあります。それなりに楽しくやっていきます。コメントは、入れなきゃなどと思う必要一切無しです、気がむいた時に、落として下さい。

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  3. こんばんは
    あの震災から半年が経ちます。明日は十五夜です。きれいなお月様が見られるといいです。
    この話は初めて知りました。大英帝国の海の冒険はドラマチックですね。ぜひ映画も見たいです。男っぽい映像と美しい南の島のコントラストが魅力でしょうか?ただ、私は船酔いするので船のシーンばかりだとつらいです。

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  4. イギリスの歴史は、大半がイギリス本土外で起こったことなので、把握が大変、と良く言われます。
    見ているだけで船酔いするかは疑問ですが、寒い悪天候の中、ホーン岬を回ろうとして酷い目に合う船上のシーンがあります。

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