ランス・アームストロング

「長い間病院じゃあ、退屈だろう。」と、だんなのテニスクラブの友達が、本を4冊ほど買って、うちに持ってきてくれました。全冊、スポーツ関係の本。だんなにどれが読みたいかと聞いたら、「一番短いの持ってきて。」

一番短かったのは、これ、ツール・ド・フランスを1999年から2005年まで、連続7回全優勝した、米のサイクリスト、ランス・アームストロングの自伝、「It's Not About the Bike」(直訳は「それは自転車とは関係ない」:日本で翻訳出版されている邦題は、「ただマイヨ・ジョーヌのためでなく」)。

だんなは、「読み出したら止まらなかった。」と、2,3日で読み終えていました。ランス・アームストロングは、将来のある若手サイクリストとして名声が高まる中、25歳で癌(睾丸腫瘍)となり、本は、癌との闘病生活がかなり大きな部分を占めるので、非常に、共感しながら読めるところもあったようです。それじゃ、私も、と読んでみました。

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17歳で彼を生んだ母。実父と母は、彼が生まれてすぐ別れ、母は後に、2度再婚するものの、ほとんど、母一人子一人で育ち、貧しい中、働きながら、自分を大切に育ててくれた母親への愛着は非常に強い感じです。対して、父権を簡単に放棄した実父と、何かにつけ体罰を与えた継父に対する態度は手厳しく、こきおろしています。

サイクル・レースの途中で、苦しくて脱落しそうになると思い浮かぶのも母との会話、
「そんなのやめちゃえばいいじゃん。」
「お前、決して、物事を途中で投げ出してはだめなのよ。」
何でもすぐあきてやめる私には耳の痛いお言葉。

また、もうひとつ、彼の力となる母親の言葉は、
「全ての逆境をチャンスに変えなさい。」

最初は水泳に熱中、そしてトライアスロンのレースに参加してこずかい稼ぎを初め、自転車を始めるのは16歳の時。その後は、自転車一筋。段々と、注目を集めていく。この頃の彼は、貧しい家庭に育って、馬鹿にされたくない、自分の価値を証明してやる、と好戦的な「怒れる若者」だったようで、レースの仕方もその性格を反映していたようです。映画「炎のランナー」のエイブラハムスの様なタイプだったのでしょう。

将来の見通しは明るく、レースにどんどん勝ち、スポンサーも付き、家も買い、ポルシェも買い・・・そしてやってくるのが癌の宣告。苦痛に耐えるのが仕事の様なサイクリスト。体の不調を感じながらも、それを無視し続け、発見された時にはすでに、癌は、睾丸から、肺と脳に転移しており、助かる見込みは40%以下。

この後、睾丸を切り取る手術、脳の癌を除去する手術、そして大変なキモセラピー。暗い話題ながら、下手にセンチメンタルにならずに書かれているので、読感が良かったです。この本によると、睾丸腫瘍は、米では1年で約7000人がかかる、比較的稀な癌で、若者層に多い。白血病と同じく、20年前には不治の病だったのが、今では、(特に早期発見されれば)完治可能。

闘病の話自体の他に、印象が強かったのは、米の医療システム。治療開始直後、彼の医療保険は更新の途中で、新しい保険の下では、癌は既存症状であるとして、保険会社は支払いを拒否。「癌なのに医療保険がない!」とショックを受けた彼は、家、車、家財を売り払って、いくら作れるか、それで間に合うか、と必至で計算を始める。有名選手であったため、スポンサーの一人が、保険会社を無理やり説得して、最終的には、払ってもらえるのですが。これが、彼がただの一般人で貧しい母子家庭の青年のままだったら、今頃、治療を受けられず、死んでいた・・・?アメリカでは、ちゃんと保険でカバーされていれば、すばらしい一流の医療も受けられるのでしょうが、貧乏人は死ぬだけ?大変な病でのストレスの上に、金銭的ストレスも加わるシステムは、傍から見ていると空恐ろしいです。うちも、今回の白血病騒ぎで、改めて英のNHSの存在が大切に思え、だんなとも、「こんな長期かかる病気で、全額自分持ちだったら大変な事になっていた。」と入院当初言っていたのでした。

ツール・ド・フランス。夏季3週間にわたり、約3500キロメートルをステージに分け、フランス(時にその近隣国)の景色の中を走り抜け、パリでゴールインするロードレース。今まで、ほとんど興味も無く、ニュースでやっているのをちらりと横目で見るくらいでした。本によると、初のレースが行われたのは1903年。1910年に、山を走るルートと、ブレーキ(それまではブレーキなし!)が導入。1914年は、第一次大戦のきっかけとなるサラエヴォでのフランツ・フェルデナンド暗殺と同日に、レースが開始。彼の、癌克服後、初優勝した1999年ツール・ド・フランスの描写も、全く新しい世界に遭遇する感じで、「へえ、こういうものか。」と思いながら読みました。

英語の直訳タイトル、「それは自転車とは関係ない」は、本内の下の一説から取ってあります。

「それ(ツールに参加するという事)は、自転車とは関係が無いのだ。それは、人生の暗喩だ。(中略)ツールは、ただの自転車レースでは無い。ツールでは、肉体が試され、精神が試され、そして、己のモラルすら試される。」

日本語翻訳タイトル、「ただマイヨ・ジョーヌのためでなく」のマイヨ・ジョーヌ(maillot jaune)は、ツール中、総合成績一位の選手が他の選手との区別のために着る、黄色のジャージーの事。英語ではyellow jersey。

癌との戦いも、ツール・ド・フランスと比較して、癌は、病気の中のツール・ド・フランスだ、などという事も書いていました。ツールの途中、苦しくなって脱落する人もいる、実際に衝突事故などで死者も出る、長い道のりを登ったり下ったりしながら、何度ももう、これ以上続けられないと思う。フィニッシュラインを切る事が出来るだけでも、ある意味では快挙。

癌のフィニッシュラインは、完治。そこまで到達した時に、癌になる前の自分と、なったあとの自分が、びっくりするほど変わっていたと言う彼。振り返ってみたとき、癌のおかげで人間として成長できたのだそうです。闘病中に、やはり癌患者である見知らぬ他人から来たeメイルに、「あなたはまだ、気がつかないかもしれないが、我々は幸運なんだ。」とあり、当時は「こいつ、気がおかしいのじゃないか。」などと思ったのが、後になってその意味がわかってくる。

癌の完治の可能性に、個人の精神面が、どれほど関係するかに、はっきりとした答えは無く、医者も実際、「非常に明るくポジティブな人間が死に、悲観的消極的な人が完治するケースもよくある。」と言っているようです。が、面白いのが、本によると、子供の癌患者の完治の確立が大人のそれよりも高いとの事。彼に言わせると、それは、子供には生死の意味がまだあいまいで、死への恐怖がそれ程無く、生存の確立を深読みして絶望したり、希望をなくすと言うことが無いためではないだろうかと。「早く遊びたいから、早く治して。」、という態度がいいのだと。また、自分の症状を良く知り、客観的にそれに対する知識や情報を良く集めている人間も、強いそう。彼も、癌とわかったときから、それに関するありとあらゆる本や情報をかき集め、読みまくり、薬の名にいたるまで知り尽くしていたようです。戦うには、敵を良く知るべき・・・か。戦国武将のようですが、なるほど。

癌克服後、前人未到のツール7連勝を成し遂げた人。まるでフィクションのような話です。癌やツールに全く関係ない人が読んでも、面白い自伝。ということで、来年の夏のツール・ド・フランスはもう少し興味を持って追ってみます。

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追記:2012年10月22日

あーあ、ドラッグ使用の疑惑があったランス・アームストロング、過去7つのツールの王冠は取り上げられ、落ちた偶像となってしまいました。

それでも、だんなの入院中に2人で読んだこの本には、元気づけられたので、癌や白血病の治療に臨む人には、今でも、お勧めの本と思っています。まだ、販売が続けば、の話ですが。

コメント

  1. 北海道でもツールド北海道というのが開催されます。昨年の9月、練習している選手達を見かけ、あまりのスピードに驚きました。アニメ映画「茄子アンダルシアの夏」はスペインでしたが、ヨーロッパでは自転車競技が盛んなようですね。アイルランドにいる彼の友人のおじさんも有名な自転車選手だったって聞きました。
    こんな本知っていたら、癌で逝った友にも読ませたかったなと思います。楽観的なことを言って悪くなると責められると思うのか医療関係者が「最悪の場合」についてばかり話すので落ち込んだそうです。

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  2. 平らなところで、時速30マイルくらいで走り続けるというのだから、かなりのスピードと体力です。猛スピードの下り坂で、クラッシュして死者を出すのも分かる気がします。
    「最悪の場合」を言っておくのは必要でしょうが、何度も繰り返されたくないですね、催眠術のようで。彼の医者は、口では40%(50%だったかな?)と言ったものの、心では、助かる見込みはもっと低いと思っていたようです。希望をなくすようなら、生存確率が低い高いなどあまり考えない方がいい、の様な事を、彼は書いていました。

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  3. こんばんは
    今日は秋晴れの一日でした。新米とか新蕎麦とかの文字を目にするとよだれが出て来ます。
    ツールドフランンス、聞いた事はありますが、日本では画像さえ目にすることがないので、その優勝者には黄色のシャツが与えられるうでしたっけ?フランスだけのレースなのでしょうか? 自転車レースというと日本ではギャンブルの競輪がイメージされて残念。
    ご主人は元気そうですね。なかなか闘病記なんて読みたくないですが、こんな時は力になりますよね。それに克服して現役復帰した著者には説得力もあり、勇気がわいてくる事でしょう。

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  4. ヨーロッパはもちろん、世界で色々な、自転車のロードレースがあるでしょうが、ツール・ド・フランスが一番有名です。
    黄色のシャツは、レース中に、その段階までの総合成績の一番上のライダーが着用し、他のライダー達が、誰が今一番成績がいいか、わかるようになっています。ので、レース中に成績が変われば、着用する人物が変わる事もあるわけで。総合優勝は、当然、レース最後の段階で、イエロー・ジャージーを着る権利のある人へ行きます。
    私も、闘病記、という文字を読んだだけで、眉をしかめたくなるタイプですが、この本は、そんな感は一切無く、読み物として、とても面白いですよ。

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