トーマス・カーライルの家

前回の記事で、ビクトリア朝文豪ディケンズのロンドンの家の事を書いたところで、今回は場所を、ロンドンのブルームズベリーからチェルシーへ移し、ディケンズの同時代人で、ディケンズにも影響を与えたというトーマス・カーライルの家の事を書いてみます。訪れたのは、2年前の事なのですが。上の写真は、彼の住んでいた通りの入り口を背景に、テムズ川を臨むように座っているカーライルの銅像。

思索家、評論家、歴史家として、当時は、イギリスの知識人にかなりの影響を与えた人物であったのですが、現在では、その知名度も落ち、学者でない限り、実際に、彼の書いた本を読んだという人も、かなり少ないことと思います。かくなる私も、彼の本は手に取ったこともありません。以前、トーマス・カーライルの著は、シェイクスピア全集と共に、ヒトラーの愛読書であったという話を聞いたことがありますが。その著は、名前だけ知れているところで、「英雄崇拝論」「フランス革命史」「オリバー・クロムウェル」など。

スコットランド出身のトーマス・カーライルと妻ジェーンが、現在は超高級住宅地のチェルシーにあるCheyne Row(チェイン・ロウ)に引っ越したのは、1834年。その後、カーライルは、死の1881年まで、47年間、同じ住所に住み続ける事となります。なんでも、入居した際の家賃は、年間35ポンド。現在の値段に換算していくらになるかはわかりませんが、比較的安めの家賃であったという事。これが、死ぬまでずっと同じ値段だったというので、インフレなかったのですね。チェルシーは、この頃はまだ、さほどファッショナブルな場所とは思われていなかったようです。

この家を訪れる前に、イギリス在住のアメリカ人人気作家ビル・ブライソンによる「At Home」(直訳:家にて)という本を読みました。今の段階で、日本語の翻訳は行われていないようですが、この本は、主にイギリスの家、家庭の歴史を記した雑学ノートのような内容で、キッチン、バスルーム、庭などの項目に分けて、過去、イギリス人は、どういう家庭生活を送ってきたかをつづっています。やはり、ブライソン著の科学史「人類が知っていること全ての短い歴史」(A Short History of Nearly Everything)のおうち版の様な内容です。という事で、トーマス・カーライルの家の訪問前から、私の中の、トーマスとジェーン・カーライル夫妻と、彼らのこの家での暮らしぶりのイメージは、この「At Home」に書かれていた内容に、かなり影響されています。なんでも、カーライル夫妻は、手紙マニアで、親類、友人、そしてお互いに対して、しょっちゅう手紙を書きまくっており、しかも、その内容に、家の切り盛りの問題点、特に使用している召使に対する文句やぐちが非常に多いのだそうです。このため、当時の家庭の生活ぶりや、召使と雇い主の関係などを調べる際に、カーライル夫妻の手紙や手記が、大切な資料となっているのだとか。ジェーン・カーライルが死去するのは、1866年ですが、彼女がここに住んだ32年の間、なんと34人以上の召使を雇っては、気に入らず、首にしたのだそうです。

ビル・ブライソンは、この頃の召使というものが一般に、いかに権利の無い存在であり、家庭内で何かがあるたびに、罪をなすりつけられた事にも触れていて、ジョン・スチュアート・ミルが、トーマス・カーライルから借りていた「フランス革命」の原稿を、燃やしてしまったという逸話に言及しています。ミルの言い訳は、家のメイドが暖炉に火を焚きつける際に、そばにあったこの原稿を使ってしまったというもの。原稿がすべて燃やされてしまったという事実を考えると、実は、やはりフランス革命の事を書きたいと思っていたミルが、当時、精神不安定であった事も手伝い、嫉妬か怒りの発作で、自らカーライルの原稿を燃やしたのを、召使のせいにしたのだろうという事なのです。ちなみに、この後、カーライルは、気を取り直して、再び「フランス革命」を書き直し、出版されたものは、当時の文化人の間で高く評価され、ディケンズは、これを500回読み、「二都物語」のインスピレーションにもなったというのですが、ブライソンは、「フランス革命」を、書かれた時代に高い評価を得た、最も読みづらい本のひとつとしています。意味不明に限りなく近い、妙に技巧を凝らした、もったいぶった言葉使いで、最初から最後まで現在形で書かれているのだそうです。ああ、ますます、読みたくなくなった。人生限りありますからね、そんな本に時間を費やしたくないな、と。

ブライソンは、今日、トーマス・カーライルが生きていて、自分の書いた歴史書はほとんど読まれておらず、何十年にもわたる召使の文句を含んだ、彼の日常生活の詳細の記録の事で、良く知られているとわかったら、驚くとともに、がっくりくるだろう、と結論しています。また、召使が存在したおかげで、トーマス・カーライルもジェーンもこれだけ沢山の書き物をする時間が作れたという事実がなんとも皮肉な話だ、とも書いていました。メイドのおかげで出来た余暇で、メイドの文句を時間をかけて綴る・・・確かに、なさけない話です。

撮影禁止だったのか、覚えていませんが、館内で取った写真はないので、1857年の当館の室内の様子を描いた上の絵で、内部の雰囲気がわかるでしょうか。花柄の壁紙の模様や、パターンのついたカーペットから、テーブルクロス、いかにもビクトリア朝中流の室内デコレーションです。私が、昔、ロンドンで下宿していた家の装飾が、やはりこんな感じでした。特に壁紙がそっくり。大家さんが年寄りだったので、昔風デコレーションが好きだったのかもしれません。

館内のアイタムで一番気に入ったのは、ジェーンが作ったという、デコパージュのスクリーン。色々な切り抜きを集めて貼ってあるのですが、自分でも作ってみたい一品です。

こちらがキッチンですが、最初の頃は、召使用の部屋が無かったそうで、メイドはキッチンで寝泊まり。小さなメイド用のベッドも置いてありました。実際使用していたものは、折り畳み式ベッドであったようですが。トーマス・カーライルは、この暖かいキッチンが居心地が良く好きで、夜はしばしば、この暖炉脇でパイプをくゆらせて座り、読書などしていたそうですが、そうなると、召使は、彼が階上へ戻るまで床に就くことができず、キッチンの脇の物置部屋で、じゃがいもなどの間に座り、主人がいなくなるのを待ったという事。

カーライル家の召使は、常時一人のみで、何から何まで、すべて一人でやらねばならなかったわけです。料理や掃除洗濯はもちろん、沸かしたお湯を、階上のベッドルームまで運ぶのも。

カーライルは、産業革命を、人間の精神面を軽視する機械の時代として批判していたそうなのですが、その産業革命の結果、やがては、洗濯機、掃除機、ガス、電気、水道その他もろもろが、家庭に導入されることになり、現在の中流家庭では、カーライル一家があれほど悩まされた召使を雇わず済むようになったわけです。

階上の屋根裏部屋は、書斎になっており、非常に戸外からの音に敏感だったカーライルのために、防音処置をしてありました。今はとても静かな通り、何がうるさかったのか、と内部の案内係の人に聞くと、馬車ががらがら走る音や、物売り、行商の声、また、朝は近所のニワトリの鳴き声。

ちょっと庭へ出たところ(上の写真右手)には、屋外トイレがあり、案内係の人に、「庭のトイレ、ちょっといいから覗いてごらん」と言われ、覗いたついでに、実際に使って出てきました。タイルなどの感じがなかなか良かったと記憶します。

カーライルは、庭いじりが好きで、果物や野菜を育てるのにも余念なかったとか。こちらは、室内の掃除などより楽しいので、召使や庭師などに頼まず、自ら進んでやったわけですね。

という事で、家の話というより、当時の召使の話がほとんどとなりました。召使という仕事も大変だったでしょうが、独身の労働階級の女性にとって、それでは、その他に何の仕事があるのか・・・と考えてみると、まだ、ましな職業であったのかもしれません。

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夏目漱石の「カーライル博物館」

さて、ロンドンに留学した経験のある夏目漱石の著に「カーライル博物館」という、当館を訪問した際の印象を記したものがあります。彼は滞英中に、ここに4回足を延ばしたようです。当時の入場料は6ペンス。入場の際に、訪問帳に署名を書き入れ、前のページをくってみても、日本人の名前がなく、自分が日本人で初めてここへ来た人間ではないか、とちょっと嬉しく思ったというくだりもあります。

50歳くらいの女性に案内されての見学で、とにかく、建物やその周りの空間に関しては、「四角い」という印象が強かった様子。「四階づくりの真四角な家・・・出っ張ったところも引き込んだところもないのべつに真直ぐに立っている」そして、この四角四面の住居に比べ、カーライルの顔形は「懸崖の中途が陥落して草原の上に伏しかかったような容貌」であり、彼の奥さんは「上出来のらっきょうのよう」そして、案内してくれている、日付をやたらめったらまくしたてる、ばあさんの顔は、「あんぱんのごとく丸るい」などと書き連ねています。

漱石は、「倫敦塔」でロンドン塔の訪問についても書いていますが、あちらは、なんだか、ミステリアスにしようとしすぎて、下手なフェアリーテールの様になった感があり、また、その情報にも、ひとつ間違いがあり、私は、あまり感心しなかったのですが、「カーライル博物館」には、ちょっと笑わせてもらえました。

カーライル博物館の訪問予定している人は、漱石のこの本を先に読んでいくと、面白いかもしれません。

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