シェークスピアのファースト・フォリオと鉄のカーテン

どんなに素晴らしい文学作品を書いても、びびっとくるような発言(スピーチ)をしても、それが、きちんと紙面に書き残され、後世に伝えられなければ、時を経るとともに、歴史の中に消え去り、忘却のかなたに埋もれてしまう。書き留められていても、忘れ去られてしまうものもありますから。

1616年に、当時の人気劇作家ウィリアム・シェイクスピアが、52才にして、いきなり死んでしまいます。その7年後の1623年、芝居仲間であったジョン・ヘミングと、ヘンリー・コンデルは、まとまった作品集のようなものが出されていなかったシェークスピアの戯曲をかき集め、編集し、出版。これが、シェークスピアのファースト・フォリオと呼ばれるもの。現在に至るまで、シェークスピアの戯曲が、世界中あちこちで上演され続けて来たのも、このフォリオが出版されたおかげです。

ファースト・フォリオの影の立役者、ジョン・ヘミングとヘンリー・コンデルへ捧げた記念碑は、ロンドン、シティーにある、ラブ・レーン(Love Lane、恋横丁)と呼ばれるひっそりした通りでお目にかかることができます。(恋横丁なんて、ちょっとロマンチックな名前!と思いきや、どうやら、名の由来は、中世の時代、この辺りで、売春婦が徘徊していたからだとか。)

二人は、長年この地区に住んでおり、以前ここにあった教会の墓地に埋葬されたのだそうです。記念碑の上に立つ胸像は、シェークスピアのものなのですが、おそらく、この二人が、どんな顔をしていたのかもわかっていないのでしょう。胸像の下には、開いた形の本を模したものが設置され、そこにファースト・フォリオの冒頭の文字が刻まれています。

更に、その下の記念碑には、

To the memory of John Heminge and Henry Condell
Fellow acotors and personal friends of Shakespeare
They lived many years in this parish and are buried here
To their disinterested affection
The world owes all that it calls Shakespeare
They alone collected his dramatic writings, regardless of pecuniary loss and without the hope of any profit, gave them to the world
They thus merited the gratitude of mankind

シェイクスピアの同僚の俳優であり友人であった
ジョン・ヘミングとヘンリー・コンデルを記念して
彼らは長年、この区に住み、この地に埋葬される
今、シェイクスピアと呼ばれる物すべては、彼らの私心無き、友人への敬愛の賜物であり、世界はその恩恵を受けた
金銭の損失を顧みず、見返りを期待せず、彼らのみが、シェイクスピアの戯曲を集め、世に与えた
よって、彼らは、人類からの感謝を受けるに値する

と掘られています。

ラブ・レーンから望むファースト・フォリオの記念碑
この記念碑は、東西に走るラブ・レーンと南北に通るオールダーマンベリーという通りの角に、かつて存在した、セント・メアリー、オールダーマンベリー(St Mary Aldermanbury)と呼ばれる教会の跡地内に位置します。オールダーマンというのは、地域を代表する長の事で、ベリーという言葉は館、住居を指す言葉。要はオールダーマンの館を意味する言葉で、ここで言うオールダーマンとは、アルフレッド大王の娘婿で、ロンドンの統治を任されたエセルレッドの事ではないかと言われています。また、この場所には、一番最初のシティーのギルドホールが建設されたとか、エドワード懺悔王がウェストミンスターに王宮を建てる前に、ここに歴代王の住処があったなどという話もあります。

セント・メアリー、オールダーマンベリー教会は、12世紀からこの場所にあったそうですが、ロンドン大火で焼失後、クリストファー・レンの設計よって再建。第2次世界大戦では、ドイツ空軍の爆撃で被害を受け、塔と外壁、内部の12の支柱が残るだけとなり、戦後は、修復せず取り壊す予定の教会のひとつに数えられます。

こうして、一度は死の宣告を受けた、この教会の運命が変わるのは、1961年に、米雑誌ライフが、大戦中に被害を受け、取り壊しの運命を待つクリストファー・レンによるいくつかの教会の記事を載せた事。丁度そのころ、アメリカ合衆国ミズーリ州フルトンのウェストミンスター・カレッジ(Westminster College, Fulton, Missouri)は、キャンパス内に、ウィンストン・チャーチルの記念碑建設を考慮していました。というのも、フルトンのウェストミンスター・カレッジというのは、1946年3月、トルーマン大統領によってアメリカに招かれたウィンストン・チャーチルが、東西の冷戦時代の到来を予測して、共産圏と資本主義圏の間に「鉄のカーテン」が降りた、とのスピーチを行った場所として知られます。

From Stettin in Baltic to Trieste in Adriatic an Iron Curtain has descended.
バルト海はシュテッテンから、アドリア海のトリエステまで、「鉄のカーテン」が降ろされた。

ライフの記事を読んだ、ウェストミンスター・カレッジの長たちは、「この取り壊される予定の教会のひとつを、フルトンに持ってきて、チャーチルの記念碑に使用してはどうか。」と考案。戦争の爆撃被害を受けた、歴史ある教会をよみがえらせる・・・というのも、チャーチルの記念にはもってこい、という頭もあったようです。そして、サイズ的にキャンパスにぴったりのセント・メアリー・オールダーマンベリー教会が選ばれる。教会の石はひとつひとつ丁寧に、遠路はるばるフルトンへ運ばれ、かの地で巨大ジグゾーパズルのごとく、再建。足らない石は、もとの教会建設に使用されたのと全く同じ、ポートランドの石切り場から切り出され運ばれ。内部も、かなりオリジナルに忠実に再建されるに至ります。内部のオルガンを作ったノエル・マンダー氏(Noel Mander)、戦時中は消防係りとして働き、実際にセント・メアリー教会が燃えるのを目撃、内部のオルガンが燃えながら最後の音を立てるのを聞いた人物。彼は、被害を受けながらも、修復されることとなった教会内のオルガンの修復作成、また、1970年代には、セント・ポール寺院のオルガンの修復に当たっています。

教会の地下には、ナショナル・チャーチル博物館が設置されます。こうして、教会が移っていったフルトンでは、戯曲とはまた違うものの、政治家の有名スピーチが記念されているわけです。


セント・メアリー教会跡地は、今は、ベンチなどが置かれたちょっとした憩いの場を提供する公園と化しています。

ついでながら、ラブ・レーンには、また、鎖につながれた金属製のコップもついている昔の水飲み場が、そのままの姿で残っています。さすがに、もう水は出ないので、この教会跡地で、のんびりお昼でも食べようと思ったら、飲み物は持参です。

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