走れロケット号~蒸気機関車時代の到来

ヨーク鉄道博物館にあるロケット号のレプリカ
汽車 汽車 ポッポ ポッポ
シュッポ シュッポ シュッポッポ
僕らを乗せて シュッポ シュッポ シュッポッポ
早いな 早いな 窓の外
畑も飛ぶ飛ぶ 家も飛ぶ
走れ 走れ 走れ
鉄橋だ 鉄橋だ 楽しいな

前回の、線路というものに焦点を当てた、「鉄道の始まり」の記事の続きとして、今回は、イギリスにおける蒸気機関車の創成期の歴史を書いてみます。「鉄道の始まり」で記したよう、鉄道も機関車も、人を移動させるというより、重い貨物を移動させることを最大目的として開発されていったため、最初は、炭鉱、鉱山,、産業がらみで発達していきます。

日本で蒸気機関車は、時に、「Steam Locomotive」の略である「SL」という名でもおなじみ。スティームは、蒸気の事ですが、ロコモティブは、ラテン語の、ロコ(loco 場所から)という言葉と、モティバス(motivus 動く事)という言葉が合体した言葉。そして、ロコモティブは、場所の間を移動する、という意味の形容詞から、蒸気機関車の誕生に伴い、「自らの力で鉄道の上を動くエンジン」=「機関車」の意で名詞としても使用されるようになります。

蒸気のパワーを、一カ所に固定された機械に使うのみでなく、乗り物に応用しようという試みは、18世紀後半から、幾人かの人物により、行われてはいたようですが、実際に、定期的使用に耐え得るような信頼性のあるものができあがるまでは、かなりの時間がかかっています。

リチャード・トレビシックと蒸気機関車の誕生

イギリス南西部コーンウォールの鉱山のエンジニアであったリチャード・トレビシック(Richard Trevithick)が、最初の、蒸気を用いた乗り物を作るのに成功した人物、ひいては、蒸気機関車の生みの親と見られています。まず、彼は、蒸気自動車を製造し、何度か道路を走ることに成功。その後、鉄道路線の上を走らせるための、蒸気機関車を作ってはどうかと考え付くに至ります。当時の鉄道は、上を馬が荷車を引いて歩くという馬車鉄道でしたので、馬に代わる、よりパワフルなものが、蒸気機関車であったのです。

トレビシックは、1804年、ウェールズのマーサー・ティドフィル(Merthyr Tydfil)という場所にあったペナダレン(Pen-y-darran)鉱山のトラムウェイ(簡易線路)の上を、完成した蒸気機関車で、約10トンの貨物と70人の乗客を乗せ、10マイルほどの距離を、引いて走らせることに成功。速度は時速約2.5マイルと、今から考えると、のろのろですが、世界で初めて、機関車というものがデヴューした輝ける瞬間です。更に、この4年後に、トレビシックは、キャッチ・ミー・フー・キャン(Catch Me Who Can、追いつけるやつは追いついてみな)号という、おちゃぴーな名前の機関車を生み出しています。実際のスピードは、時速8マイルほどで、簡単に追いつけたそうですが。ただし、このキャッチ・ミー・フー・キャン号の基本的デザインは、あまり変更されることなく、後の蒸気機関車に受け継がれているそうです。後、ロバート・スチーブンソンは、ロケット号を作る際、トレビシックと会い、アドバイスを受けたという事です。

錬鉄レール登場(1820年)以前の蒸気機関車

トレビシックの発明の後、他のエンジニアたちも、蒸気機関車の製造を開始。特に、1812年に、ウィリアム・へドリー(William Hedley)らにより作られた機関車、パッフィング・ビリー(Puffing Billy)号は有名です。パッフィング・ビリー号は、イギリス北東部の都市ニューカッスル・アポン・タインから16キロほど西に位置する、ワイラム(Wylam)という炭鉱で、この後、52年もの間、炭鉱からの石炭を船着き場へ運ぶという役割を果たしています。そして、このパッフィング・ビリー号の成功に刺激されたのは、近郊、キリングワース(Killingworth)炭鉱のエンジニアであり、ワイラムの出身者でもあった、ジョージ・スチーブンソン(George Stevenson)。

ジョージ・スチーブンソンは、1814年、キリングワース炭鉱から港までの9マイルの線路上を走らせるため、蒸気機関車を製造します。この機関車は、最初は、別の名で呼ばれていたのを、翌年のワーテルローの戦いで、ウェリントン公(Duke of Wellington)率いる軍を助け、ナポレオン軍を破るのに、大きな貢献をしたプロシア軍のブリュハー元帥を称えるため、ブリュハー(Blucher)号と改名されています。

さて、この時点で問題になっていたのは、「鉄道の始まり」にも記したように、馬車が上を通ることを前提とした、当時の線路が、もろい鋳鉄のレールを使用していた事。貨物を引く重い機関車が、より早いスピードで上を走る圧力に耐えられず、線路は壊れる事が多々。よって1820年に、ジョン・バーキンショーが、錬鉄を使用して長いレールを製造する特許を得るまで、蒸気機関車の開発も、しばし滞ります。

ストックトン・アンド・ダーリントン鉄道

世界初の公共用馬車鉄道は、すでにサリー鉄道として1803年にオープンしています。これが、世界初の公共用機関車鉄道となると、イギリス北東部、全長38マイルのストックトン・アンド・ダーリントン(Stockton and Darlington)鉄道の開通を待つこととなります。エンジニアは・・・そう、ジョージ・スチーブンソン。オープニングは1825年9月27日。大勢の見物人に見守られ、ジョージ・スチーブンソン作成の機関車ロコモーションNO1(Locomotion No 1)号は、38台の貨物車に、600人の乗客を乗せて、時速15マイルで走行。

レインヒル・トライアル

イギリスの蒸気機関車創成期で、一番有名な歴史のひとこまが、このレインヒル・トライアル(Rainhill Trials)ではないでしょうか。

ジョージ・スチーブンソンの、エンジニアとしての更なる挑戦は、今度は、大都市リバプールとマンチェスター間に鉄道を建設する事。北米からリバプールの港に荷揚げされた大量の木綿は、当時コットノポリスとも称され、多くの織物工場が存在したマンチェスターへ運ばれる必要がありました。そしてまた、出来上がった商品を、リバプールへと搬送。産業革命に拍車がかかる中、その運搬方法は、もう運河だけでは足りない状況となり、地元の実業家たちは、新しい公共用鉄道を作ることを決定。この路線に、もっとも信頼のおける蒸気機関車を走らすために行われたコンペが、レインヒル・トライアルです。リバプール近郊のレインヒルで、完成済みの鉄道部の平らな区間を使って、実際に、コンペに応募した、いくつかの機関車を走らせてみて、そのパフォーマンスから勝者を選ぶ、というもの。

上が、リバプール・アンド・マンチェスター鉄道会社が新聞に載せた、レインヒル・トライアルへの公募の広告です。かなり厳しい条件付きで、申し込みは10件あったそうですが、最終的に、トライアルの日(1828年10月)に集まった機関車の数は5台。そのうち2台は、条件を満たさず、実際に走るに至った機関車は3台。ノヴェルティー号(Novelty)、サン・パレイル号( Sans Pareil)、そして、ジョージ・スチーブンソンの息子ロバート・スチーブンソンによる、ロケット号( Rocket)。

トライアルの内容は、リバプールとマンチェスター間の30マイルを走る代わりに、レインヒルの1・5マイルの路線上を10往復する事。スピードはもとより、パワー、信頼性、効率の良さなども考慮に入れられます。

ノヴェルティー号は、時速30マイルを記録しながら、2回走ったのみで、ボイラーの故障を起こし、サン・パレイル号は8回走った後、水ボンプの故障。スチーブンソンのロケット号は、30マイルの完走を2回成し遂げ、それぞれの時間は、一回目2時間30分、2回目2時間。文句の入れどころのない、ロケット号の勝利に終わります。ちなみに、ノヴェルティー号は、後にアメリカに送られ、アメリカ大陸を走り、そしてノヴェルティー号製造者の一人、スウェーデン人のジョン・エリクソンは、後に、アメリカで発明家として名を成すこととなります。

リバプール・アンド・マンチェスター鉄道開通

リバプール・アンド・マンチェスター鉄道の開通セレモニーが行われたのは、1830年の9月15日。時の首相であったウェリントン公も式典に参加し、ウェリントン公および他の賓客は、リヴァプールから、ロケット号を改善させた、ロバート・スチーブンソンによる、ノーサンブリアン号に乗り、マンチェスターへと出発。ノーサンブリアン号の他にも、別の線路上を、7つの機関車が、マンチェスターへと走る予定。

途中のパークサイド駅でノーサンブリアン号は、給水のためにしばらく止まるのですが、この際、列車の中に座りっぱなしであった賓客たちの幾人かが、降りないでくれ、という鉄道側からの忠告があったにも関わらず、足を延ばすため、外に出て、線路上などを歩いてしまう。そして、そこへ、わきの線路を約10マイルのスピードで走って来たのが、ロケット号。外にいた人物たちは、大慌てで、車両へ戻ったり、飛びのけたりとして難を免れるのですが、一人、リバプール代表の国会議員、ウィリアム・ハスキソン(William Huskisson)は逃げ遅れ、ひかれてしまうのです。足を無残に砕かれたハスキソンは、「これでおしまいだ。」(I have met my death.)と叫んだと言われます。病院に担ぎ込まれた後、医者にあと何時間生きられるかと聞き、6時間以内と告げられると、ハスキソンは大急ぎで遺書を作成し、息を引き取り、列車事故での最初の死亡者となってしまうのです。

ウェリントン公は、この事件後、マンチェスターへと予定通り列車の旅を続けることに反対の意を表したようですが、マンチェスターではすでに、首相を乗せた機関車が到着するのを見ようと、大勢の市民が集まっている、それをキャンセルととなると、不満不服のために暴動でも起こっては困るという話になり、ウェリントン公は、不承不承、マンチェスターへと趣き、行路を全うすることとなります。

ハスキソンの死で、湿った気分のオープニングとなったものの、当鉄道は、経済的にも成功を収め、蒸気機関車鉄道の時代の到来は確固たるものとなります。ロバート・スチーブンソンは、この後すぐ、ロンドン・アンド・バーミンガム鉄道のエンジニアとして、着工を初め、ロンドン・アンド・バーミンガム鉄道は、1838年に開通しています。

鉄道時刻表の代名詞用のようになった「ブラッドショー」(Bradshaw)は、1839年に、イギリス内鉄道路線を総括した時刻表の出版を開始するので、この頃の鉄道がイギリス全土を覆っていく様子は、かなりの勢いがあったのでしょう。


余談

冒頭に載せた「汽車ポッポ」という童謡ですが、なんと、これ、1938年のオリジナルは「兵隊さんの汽車」と呼ばれた、兵隊が汽車に乗って旅立つのを、日の丸を振って見送ったという歌なのです。これが、戦後の1945年に、同じ作詞家により、もっとイノセントな歌詞に書き換えられています。何事にも裏話というか、歴史があるものだな、と改めて感心しました。両方の歌詞を比べたサイトは、こちらまで。

ついでながら、もうひとつ、「汽車」という童謡がありましたが、これは、「汽車ポッポ」より、ずっと古く、1912年(100年以上前)に書かれた歌。日本の鉄道が始まったのが、新橋ー横浜間の1872年。最初は、機関車は、イギリスからの輸入ものを使用。このひとつ、一号機関車は、現在、埼玉鉄道博物館に展示されているそうです。童謡「汽車」が発表された1912年頃、どのくらいまで日本の鉄道網が発達していたかは調べていませんが、まだまだ乗ったことが無いという人はいたわけでしょう。初めて、汽車というものに乗った、その速さと、景色がずんずん変わる面白さとおどろきが、伝わってくる歌詞です。

今は山中 今は浜
今は鉄橋渡るぞと
思う間もなく トンネルの
闇を通って広野原

鉄道というものがお馴染みになった今でも、列車の窓を流れる景色を見るのは大好きです。日本に帰った時、新幹線などに乗り、窓側の席に座っている人が、ブラインドを降ろして目をつむったりするのを見ると、「景色に興味ないなら、窓際に座ってないで、席代わってくれないかな。」と思った事が、何度かあります。

ヨーク鉄道博物館の新幹線
ついでながら、新幹線と言えば、ロケット号のレプリカがあるヨーク鉄道博物館には、日本の昔の新幹線も展示されています。ヨークを訪れたら、丸っこい、笑った顔をした、昔の新幹線を見に行くことをお忘れなく。

コメント

  1. こんにちは。先週までイギリスに行っていました。数日、列車旅を楽しみました。日本製のピカピカ列車が堂々と走る姿に感動したり、相変わらず古いままの列車が、ゴトゴトゆっくり走る所にも魅力を感じます。駅に在るカフェが、徐々にアメリカ資本のコーヒー店に変わって行くのが、一寸悲しかったでしょうか。

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    1. 電車の旅は楽しいですが、スト、キャンセル、ひどい遅れに巻き込まれる可能性が日本に比べてぐっと高いのが難点です。旅行やビジネスで来て、そんな事になったら、大変だろうなと感じます。日立の電車は乗り心地いいですね。

      昔ながらレトロ情緒のティールームを持つ田舎の駅なども探せばあるようですが、稀です。

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