ブラッドショーのガイドブック

"Just look up the trains in Bradshaw," said he, and turned back to his chemical studies.

from "The Adventure of the Copper Beeches"  by Arthur Conan Doyle, 1892

「ブラッドショーで電車の時刻を調べてくれ。」とホームズは言うと、再び、化学の実験に戻った。
アーサー・コナン・ドイル著「ぶな屋敷」より


日本で、イギリスを含めたヨーロッパの列車の時刻表と言うと、トーマス・クック社のものが有名で、東京の大手の本屋でも売っていたと記憶します。一方、シャーロック・ホームズが、事件の調査のため、電車に乗る際に、頼りにしていたのは、ブラッドショーの電車時刻表。冒頭の引用は、1892年発表の「ぶな屋敷」(The Adventure of the Copper Beeches)からで、シャーロック・ホームズは、「明日の昼、ウィンチェスターのブラック・スワン・ホテルに来てくれ」との電報を、捜査依頼人から受け取り、ワトソンに、電車時刻の確認を頼むシーンです。単にブラッドショーと呼ばれている事からも、しょっちゅう使われ普及されていた様子がわかります。

さらに、コナン・ドイルのシャーロックもの長編で、1914年発表の「恐怖の谷」(The Valley of Fear)の冒頭では、ベーカー街に送られて来た暗号を解読するにあたり、ある本をもとにすると察したホームズは、ワトソンに、「比較的厚い本で、誰でも手元に持っており、印刷が標準化されているため、版によって、ページのレイアウトが違わないもの」とヒントを出して、当てさせようとするのです。最初、ワトソンは、「ブラッドショー!」と推測するのですが、基本的に時刻表ですから、文字はさほど多くない、最終的には、この読解に必要な本は、当時良く購入されていたという、Whitaker's Almanack(ウィタカー年鑑・その年にあった事件、時事などをまとめたもの)であったのですが。

ジョージ・ブラッドショー(George Bradshaw、1800~1853年)は、地図の製図家であり、地図を主とした印刷業を営んでいましたが、イギリス国内に鉄道網が広がっていくのに乗じて、1839年に、世界初の、国内の鉄道路線を総括した鉄道時刻表を出版。色々な鉄道会社が乱立しそれぞれ運航を行う中、それらを一挙にまとめた時刻表というのは、役に立つものであったのでしょう。

当時の大きな問題のひとつは、イギリス国内での時刻が統一されておらず、太陽を基準にそれぞれの土地で若干の時差があった事。よって、西へ行くほど、時間が多少遅くなっていたので、この最初のブラッドショーの時刻表は、多少の時間差を考慮してのものであったようです。そして1年後の、1840年、イギリス南西部の路線運営を行うグレート・ウェスタン・レールウェイは、路線上の各駅では、グリニッジ標準時間(GMT、Greenwich Mean Time)を使用することを義務付け、更に、1855年までには、98%のイギリス国内の町はグリニッジ標準時間を使用するに至ります。ブラッドショー時刻表は、版を重ね、ベーカー街のホームズ・ワトソン宅を初め、一般家庭に一冊はあるようになるまで普及。

ついでながら、トーマス・クック社が、初めてのヨーロッパ鉄道時刻表を出版したのは、1873年となります。このヨーロッパ時刻表発行は、2013年に打ち止めになったものの、すぐ、トーマス・クックの印刷業部門のみを引き継いだ新しい会社が設立され、トーマス・クックの名はもう使われていないものの、まだ出版が続いているようです。ウィキペディアの情報によるとトーマス・クック時刻表の日本語版が発行され始めたのは、1985年だという事。ブラッドショー時刻表は、1961年で発行を終えています。

さて、今回のブログ記事のタイトルは、ブラッドショーの時刻表ではなく、ガイドブックです。私が、このブラッドショーが、ガイドブックも出していたという事を知り、また、ブラッドショーの名が、現代のイギリス一般人にも、再び良く知られるようになったのは、イギリスの放送局、BBCで、「Great British Railway Journeys」(すばらしき英国列車の旅)という番組が、2010年から放送され始めてからです。これは、かつての保守党(トーリー)の政治家であったマイケル・ポティロ(Michael Portillo)が、ブラッドショーズ・ハンドブックとも呼ばれる、1863年発行のブラッドショーのガイドブックを片手に、そこに書かれた事を参考にしながら、イギリス各地の鉄道旅行をして、その沿線を紹介していくという内容。各地の見どころ、昔と今の産業、習慣などが紹介され、旅行番組というより、社会史番組として面白いシリーズです。比較参考のため、この本の発行は、日本の明治維新の始まり(1868年)の数年前、伊藤博文を含む長州五傑が、ロンドンへやって来た年です。

マイケル・ポティロは、かつては、保守党のリーダー、そしてやがては首相になるのではないかなどと憶測されていた人物ですが、トニー・ブレア率いるニュー・レーバー(労働党)が総選挙での大勝利を収めた1997年5月に、負けてしまい、国会議員としての職を失っています。この時、マイケル・ポティロが、若手の労働党の若者に負けて、選挙区を取られてしまった瞬間は、ポティロ・モーメントなどと言われ、私も、今でも良く覚えています。その後、安全な保守党の選挙区(ロンドンのケンジントン・チェルシー選挙区)の国会議員として返り咲き、一時は野党内閣の一員であったものの、2005年に政界から足を洗い、気が付くと、テレビのプレゼンターなどで活躍。まあ、ストレス一杯であろう政界と、その内部での野心から離れて、こうした番組に出て、メディア界での活躍を楽しんでるようですから、良かったのではないでしょうか。苗字からもわかる通り、お父さんはスペインからの移民なのですが、本人は、サッチャー政権時代からのEU懐疑派。ブレグジットの国民投票でも、離脱に投票。わりと理論的な感じの人なので、そこが不思議ですが。まあ、こういう事を国民投票にかけること自体には、反対だったようです。

この放送が始まってすぐ、テレビで使用されているブラッドショーのガイドブックの再発行ものが、ばか売れするという現象も巻き起こりました。実は、私も、これ、買って持ってます。

前回の、ケント州ウィスタブルに関する記事を書いた時に、25年前に発行されたガイドブックの記述に触れましたが、25年だけでも町の状況は変わっていていますが、それが、150年以上前の話となると、更にその変化は大きいものがあるのは必至。実際、20世紀になってから閉鎖になり、消えてなくなっている路線や駅もあるわけですから。

ブラッドショーのガイドブックの、各駅の記述は、大都市でない限り、わりと短いですが、面白いのは、それぞれの駅の冒頭に、駅にテレグラフ(電報)を送る設備がある、とか、その駅にあるホテルの名前、マーケット(市)が開かれる曜日、銀行がある場合は銀行名などが書かれている事。私の住む町の名の下に乗っていたホテルは、今も、目抜き通りに存在します。

このテレビシリーズは、全10シリーズと、かなりの数があります。イギリス版の評判が良かったためか、その後、カラフルなジャケットとズボンがトレードマークのポティロ氏は、第一次世界大戦勃発直前に出版された、ブラッドショーの大陸ヨーロッパ・ガイドを片手に、ヨーロッパを鉄道で旅行するシリーズを作り、更には、アップルトンと呼ばれる北米の古いガイドブックを片手にアメリカ鉄道旅行をする番組などが放送されています。

何かにつけて、止まったり、キャンセルになったり、遅れたり、ストを起こしたり、さらには日本に比べ、ずっと値段も高く、イライラさせられることも多い、イギリスの鉄道。「いや、昨日の帰りは、ストラトフォードでいきなり電車がとまって、プラットフォームで30分も待ったよ。おかげで、座れなかったし。」などと、通勤などで日常電車を利用する人間の間では、電車のおかげでひどい目に合った話は、天気と共に、よく話題にあがる事項となっています。それでも、私は、基本的に、車での移動より、鉄道での移動の方がずっと好きです。地球温暖化、車社会のため、太りすぎの人間が増えている昨今の事、この国も、もっと公共交通の充実に力を入れてほしいものです。

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