白い金と黒い奴隷

織物を初めとした、製造加工品や武器を積んだ船がイギリスの港を出、西アフリカに辿り着く。アフリカの港で、これら製品と交換に船に詰め込むのは、現地の奴隷商人から得た黒人奴隷達。奴隷を乗せ、船は荒れる大西洋を渡り、新大陸と西インド諸島へ。ここで、奴隷と交換に、砂糖、ラム、たばこ、綿等を得て、船はイギリスへと戻る。・・・これが、大西洋三角貿易です。

イギリスが、アフリカの黒人奴隷に目をつけるのは、エリザベス朝に遡ります。1562年、船乗ジャック・ホーキンスは、黒人奴隷が、スペイン植民地で、金になる物品として扱われているのに着目。そこで、彼は、西アフリカへ出向き、300人の奴隷を船に乗せ、大西洋を渡る。そして、カリブ海スペイン植民地で、その奴隷達と交換に、皮、砂糖、真珠等を入手し持ち帰ったのが始まり。

1600年代初頭、新しい砂糖の栽培方法が、英領西インド諸島のバルバドスに導入、砂糖プランテーシン設立。英国の主な奴隷市場先となります。

1665年にオリバー・クロムウェルがスペインからジャマイカを頂戴。

そして、スペイン王位継承戦争の後のウトレヒト条約(1713年)の結果、スペインから、植民地での奴隷販売の権利を得る事になり、がばがば儲かる大西洋三角貿易はいよいよ波に乗り。

英国内でのコーヒー、紅茶の需要拡大につれ、人気が高まる「白い金」と呼ばれた砂糖、及び、英国織物業の原料となる綿や麻のプランテーションでの生産と輸入において、奴隷は、重要な労働力であり、無くてはならない物品。

特にイギリス大西洋側の港町、ブリストル、リバプールなどは、こうした奴隷貿易で巨額を築き上げます。築かれた富は、産業革命に向けての新しい技術や事業に投資されていますので、イギリスの富は奴隷貿易の上で築かれたとも言えるのでしょうか。

西アフリカで船に乗せられた奴隷は、ぎゅう詰め状態で、ろくに飲食物も与えられず、目的地に着く前に、船内で死んだ者も多数。

そして、悪名高きゾング号の事件。

1781年に奴隷を積んでアフリカを出発しジャマイカへ向かったゾング号。船中、奴隷達の中で病気が発生し、他の船員に移る事を恐れた船長が、133人の奴隷を、手かせ足かせをつけたまま、海に投げ捨てます。もちろん、全員死亡。一説では、船中での飲料水が不足したので、奴隷を海へ捨てたという話もありますが、ジャマイカに到着したゾング号船内にはたっぷり水が残っていたという事です。船主は、この後ちゃっかり、奴隷達の死亡を、積荷の損失として、保険金請求を行いますが、「積荷の管理を怠った為に起こった損害」として、この請求は却下。

この事件に憤慨した画家、Turner(ターナー)は、上の「奴隷船」という絵を描いています。荒れ狂う海に浮かぶ奴隷船。前景に小さく、手かせをした黒人の溺れる様子が見えます。

無事に生き残って、プランテーションでの生活が始まっても、人間としての扱いは受けず、生活の場は不衛生で貧しく、仕事のペースが遅れると、鞭で打たれることは日常茶飯事。

一方、砂糖に夢中になり、歯が虫食いでぼろぼろになったヨーロッパの富裕層などもいたようです。そうして朽ちた歯が抜けてしまった金持ちは、低額を払って貧民の歯を引っこ抜いて、抜けたところに埋め込んだりしたという話もあります。それも数ヶ月ですぐ抜け落ち、悪くすると、貧民から伝染病などをもらってしまうというお粗末な結果となったり。こんな害が多い嗜好品の栽培の為、何人もの黒人が死んだわけです。

やがて、イギリス国内では徐々に、こんな非人道的な事をしていてよいものか・・・と、疑問を投げかける人物が増えていき、奴隷制廃止運動へと展開します。この事は、次の記事「奴隷制を廃止せよ」まで。

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