J’accuse!

1870年~1871年。普仏戦争。ビスマルク率いる強力なブロシア軍とドイツ連邦を相手に戦ったフランス。ナポレオン3世の没落、ドイツ帝国の設立、そしてドイツへのフランス東部のアルザス・ロレーン地方の屈辱的な割譲を見、終結。

普仏戦争中、プロシア軍に包囲されたパリ市民は、飢餓のため、パリ市内の馬、犬、猫、ねずみ、挙句は動物園内の動物まで食べるという経験を乗り越え。

その後フランスは、第3共和制のもと、特に1880年代より1914年の第一次世界大戦勃発まで、ベル・エポック(美しき時代)と呼ばれる、芸術文化およびサイエンスが開花する時代を迎えます。社会が一般的に裕福になり、洒落たアール・ヌーボのモチーフが入り口を飾るパリのメトロ(地下鉄)が開通するのも1900年のこと。

才能と意欲に溢れた画家たちは、製作に励む時間外は、カフェで他の芸術家、知識人、文筆家達と議論を戦わせ。そんなカフェの輪の中には、「居酒屋」「ナナ」などの小説で有名なエミール・ゾラの姿も。

日本の浮世絵の前でポーズするこのゾラの絵は、少し時代遡る1868年、エドアール・マネによって描かれたものです。部屋はマネのアトリエ。
 1894年。そんなベル・エポックのフランス内の意見を真っ二つにするドレフュス事件が起こります。

アルフレッド・ドレフュスは、割譲されたアルザス・ロレーン地方のユダヤ人家庭出身。普仏戦争後、地元のドイツ化とその影響を嫌い、この地に住んでいた多くのユダヤ人がパリへと移っていきます。ドレフュス家もそのひとつ。ユダヤ人数の増加につれ、パリ内の反ユダヤ(anti-Semitic)の気風も強くなり。また、ドレフュス事件前、パナマ運河建設を巡ったスキャンダルで、ドイツ系ユダヤ人の金融家が賄賂に関わっていた疑惑も、反ユダヤ感情を煽らせていました。

(古くから「キリスト殺し」の汚名を背負うユダヤ人への迫害は、イギリスも含め、ヨーロッパ内では、近世に始まったことではありません。)

軍に所属したドレフュスは、そんなムードの中、ドイツスパイの容疑をかけられ、本人は無罪を主張するものの、形ばかりの審判の後、デビルズ・アイランド(悪魔島)へ島流しの憂き目に。

この後、ドレフュスのスパイ容疑の証拠とされた手書きメモは偽物だという事、ドレフュスは、カソリックで、反ユダヤ的な軍上層部によってぬれ衣を着せられたという事実が浮上。それでも、軍は事実のカバー・アップをし、ドレフュスの再審を行う事もしない。

(写真は、ルーブル美術館で模写をする女性)
1898年1月13日のこと。後フランス首相となる「虎」の異名を持った政治家・ジャーナリストのジョルジュ・クレマンソー経営の新聞L’Aurore(夜明け)の第一面に、ゾラの有名な記事が載ります。

題名は、「J’accuse!」(我は弾劾する!)。

フェリックス・フォール大統領へ当てた公開手紙形式のこの記事の中、ゾラは、ドレフュスが証拠不十分で処分された事に対し抗議。また、カソリックの傾向の強い軍の反ユダヤ主義、不正、法の悪用を糾弾。ゾラはこの記事のため、誹謗罪に問われ、一時イギリスへ亡命。

あまりにも力強い記事であったため、フランス社会は、ドレフュスを「裏切り者ユダヤ人」と見る側と、「悪権力による犠牲者」と見る側にまっぷたつ。意見を違える両者は、カフェでは、まったく反対の側のテーブルに陣取る始末。クレマンソーは、反ユダヤ主義者の一人と決闘する羽目にもなったとか。また、反ユダヤの傾向があった画家のエドガー・ドガは、この後、ユダヤ人の画家友達とは絶縁し、クレマンソーと親友であったクロード・モネとも長い間、一切口を聞かず。

世論に押され、ドレフュスは、翌年赦免されフランスへ戻り、ゾラも帰国。ドレフュスは、1906年には、無罪とされ、軍へ再入隊。デビルズ・アイランドで数年過ごす羽目になった埋め合わせか、レジョン・ド・ヌール勲章を受けています。

ゾラは1902年に、自宅にて、煙突の詰まりによる一酸化炭素中毒で62歳で亡くなっています。反対派による他殺ではないかという噂も出たようですが、はっきりした証拠が無いまま。彼は今、以前の投稿、パンテオンとフーコの振り子で記事にしたパンテオンに他の仏著名人と共に眠っています。

「ペンは剣よりも強し」などと言われますが、ペンを持って戦う者は往々にして、人権を踏みにじる権力者やその支持者達によって死に追いやられることも良くある話です。

ビスマルクいわく、「時代の重要事は、多数の人間のスピーチや決意によって解決されるものではない、鉄と血によって解決されるのだ。」何ともやりきれないお言葉。そして、また、若き日のチェ・ゲバラが、友人に反政府デモに参加しないかと誘われた際、「そんな事してどうする。武器を持っている奴らに殴られ終わりだ。」と言ったという逸話もあります。現実派の彼が後に肝に銘ずるのは、市民を武装させない革命は失敗する、という事。この事は、僧たちに率いられたビルマでのデモが、政府によって鎮圧される様子をテレビで見ていて頭をよぎりました。

命だけを考えると、剣が強いのは当然。それでも、一部の政権や組織が、知識層や、ジャーナリストに圧力を加えるのは、ペンの力が多くの人間を動かすのを恐れるからか。

未だに圧政や独裁などが続く国々で、母国の不幸を、世に知らせたい人達がペン(現在ではインターネットやブログ)を武器に、ゲリラ戦を行っている姿や、不正を行う国や組織に乗り込み現状のレポートをするジャーナリストの姿に、ゾラの「我は弾劾する!」の精神は受け継がれ生きているのでしょう。「こんな事が起きているのだ、世界の人達、知っておくれ。」と。

(写真はルーブル美術館、ミケランジェロの奴隷)

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