モニュメントに登ろう

前回は21世紀の建物ウォーキー・トーキーの最上階からの眺めの事を書きましたので、今回は、一番最初にロンドンの景色を高所から楽しめる観光場所となった、17世紀建設のザ・モニュメント(The Monument)の事を書くこととします。私が働いていたオフィスの窓から大きく見えていたので、私には、愛着強い建造物でもあります。

ロンドンの地下鉄モニュメント駅下車すぐの、このモニュメントとは、1666年9月に、ロンドンに大被害をもたらしたロンドン大火の記念塔です。高さは約62メートル。独立してたたずむ石柱としては、世界で一番高いもの。ロンドン大火の出火場所はプディング・レイン(Pudding Lane)にあった、パン屋ですが、モニュメントは、この場所から、62メートル離れた場所にあり、これがどーんと横倒しになると、

大火の始まったプディング・レーン
プディングレーンにてっぺんが届くという話です。

なんでも、モニュメントは、南東にやや30センチ傾いているのだそうで、「ロンドンの斜塔じゃ!」などという話もありますが、肉眼ではわかりません。ので、ピサの斜塔のように、倒れる斜塔を支えるかのようなポーズで、写真を撮る観光客は、当然一人もいません・・・。

設計は、大火後、セント・ポール寺院及び、その他多数のシティー内の教会を設計したクリストファー・レン(Christopher Wren)及び、大火後、焼け跡と化したロンドンのサーベイを任せられた、レンの友人、ロバート・フック(Robert Hooke)ですが、ほとんどは、ロバート・フックによるものとされます。建設は1671年から1677年。建設費用は、セント・ポールや、再建された他のシティー内の教会と同様、ロンドンへ運び込まれる石炭にかけられていた石炭税で賄われます。

完成直後は、立っている通り(フィッシュ・ストリート・ヒル)の名を取って「フィッシュ・ストリート・ピラー(フィッシュ・ストリート柱)」と命名されたそうですが、すぐに、ザ・モニュメント(記念碑)の名が定着。確かに、フィッシュ・ストリート・ピラーでは、さえない電信柱みたいですから。

天文学者、数学者であったレンも、科学者のフックも、記念塔とは言え、その建設にあたっては、天文・科学実験にも使える建築物にしようと、色々工夫を凝らすのです。(当時は、「建築家」という専門職も、建築家になるための特別な訓練も、確立されていません。)

石柱内の螺旋階段は12回りし、階段の総計は365段。もっとも、観光客が、見学プラットフォームまで登る階段数は、311段で、そのほかに、更に上へと昇る隠れた階段と、地下へと下がる階段があるという事。フックは、気圧の研究に使えるように、階段一段の高さを15センチと統一しているそうです。地下に研究室を持ち、石柱そのものを、固定された巨大な、天頂望遠鏡(Zenith Telescope)としても使えるように作られたそうですが、にぎやかな周辺の土地の振動などで、研究場として、実際は、ほとんど役に立たなかったようです。

レンは、セント・ポール大聖堂西棟のひとつを、性懲りもなく、やはり天頂望遠鏡にしようという事も考えたようですが、これは、実用性から実現されずに終わります。ついでながら、フックは、セント・ポールのドームをいかに支えるか、という問題にもレンにアイデアを与えています。

柱はポートランド・ストーンを用いた、ドーリア式。てっぺんに何を置くかというのは、不死鳥、時の王チャールズ2世の像などと、色々意見があったようですが、最終的に、費用と手間の面から、大火の象徴として、金色に輝く炎のような丸い代物となります。チャールズ2世の像が選ばれなかった理由として、真偽のほどはともかく、王が自ら「火事を起こしたのは私ではない。ごめんこうむる。」と辞退したというエピソードがまことしやかに伝わっています。

台座の4面には、色々な記述と彫刻が彫られています。北面には、ロンドン大火に関する記述が掘られており、1681年には、その最後の部分に、火はやがて消えたが、

Popish frenzy, which wrought such horrors, is not yet quenched.
このような惨事を巻き起こしたカソリックの狂気は、まだ鎮まってはいない。

という一文も追加されています。これは、大火は、プロテスタントの国であるイギリスに害を与えようとする、カソリックの仕業であるという意見を表しています。実際、大火後、少々、頭の弱いフランス人が犯人として捕まり、彼が(無実でありながら)、なぜか、すすんで自白してしまい、処刑にあっています。この、いわくの一文は、長い間、社会的行動が制限されていた、カソリックの住民の権利が、法により認められた直後の、1830年に、削除され、今はありません。

南側台座は、チャールズ2世が、ロンドンの再建及びモニュメントの設立を命じた云々の記述。

入り口の上の東側面には、建設期間中の、ロード・メイヤー達の名前。更に、やはり1830年に、削除されたという、「ロンドンは、カソリックの陰謀により燃やされた」という記述が、1680年以降に加えられていたという事です。

このカソリックがロンドンを焼いたという説は、1678年に、タイタス・オーツという人物のでっちあげによる、カソリックの陰謀騒動(Popish Plot)が起こり、社会に強烈な反カソリックのムードが蔓延したため、妄信されるに至り、その数年後、モニュメントにまで記述するに及びます。

さて、台座西側は、デンマーク出身のカイアス・ガブリエル・チバー(Caius Gabriel Cibber)による彫刻が彫られていますが、これは、焼けつくされたロンドンの再建を表すアレゴリーで、左手には、力が萎えているシティー・オブ・ロンドンを体現する女性が、翼が生えた、時を体現する人物に支えられ、雲の上には女神が二人見下ろす。そして右手には、ローマ風衣装に身を包んだチャールズ2世が、後ろに弟(後のジェームズ2世)を従え、シティーを助ける支持を下している姿。カイアス・ガブリエル・チバーは、この時期、ギャンブルによる謝金のため、債務者監獄にいたというのですが、牢から外出の許可が出た日には、この作成にあたったという事。芸術品を作るため、牢屋から娑婆へ通勤というのも、今から見ると、面白い話です。彼は、また、セント・ポール寺院南側の3角屋根部分に掘られた、不死鳥の像でも知られます。

さて、狭い入り口で入場料を払い、311段をくるくると昇って見学ギャラリーへ。現在ギャラリーは、ケイジと称される金網で、上から下まで囲まれています。18世紀後半から、19世紀初めにかけて6人の投身自殺者をだしたため、1842年に、鉄の檻が作成され、現在の物は、新しく2009年に作り直されたもの。金網越しにも、十分景色は見え、写真も撮れます。

ほとんど真南には、シャード。

タワーブリッジに向けてのテムズ川風景。

ウォーキー・トーキー及び、他の高層ビルの姿。これは、前回の記事にも載せた写真ですが、モニュメントから取ったものです。モニュメントの方が背丈が低いので、側面から見る感じですね。

西側のセント・ポール寺院は、比較的真近に見えます。

なんでも、切符売り場で一番良く受ける質問は、「エレベーターはありますか?」だそうです。ある・・・わけない。レンもフックも、そこまでは考えていません。今から設置しようにも、場所もないでしょうし。エレベーターで、すーっと登る、近代高層ビルと違い、歴史を感じながら登り、一度は焼け野原と化したロンドンの昔とその復活を思う記念碑です。ゼーゼーと息をつきつつ、巡礼者にでもなった気分で、がんばって登ってみましょう。

モニュメント公式サイト:https://www.themonument.info/

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