夏のない年

ヨーロッパの歴史上、1815年と言えば、6月18日のワーテルローの戦い(Battle of Waterloo、英語発音はウォータールー)をもって、ナポレオン戦争がついに終結した年。流されていた地中海に浮かぶ島、エルバ島から、えっこら逃げ出し、百日天下を取ったナポレオンが、パリにいた同年4月初めに、ヨーロッパから遥か離れた、インドネシアで起こったのは、タンボラ山(Mt Tambora)の大噴火。

翌年、1816年は、「Year without a Summer、夏のない年」と称され、地球の北半球、特にヨーロッパと北米大陸東海岸側では、異常に寒く、雨が多く、場所によっては、霜がおり、雪まで降る夏となります。当然、農作物は不作の年となり、飢饉、社会不安なども広がります。イギリスはそれでも、まだ、海上貿易が発達した国であったので、足りないものは、多少は、比較的被害の少なかった地域から、輸入で賄うことができたものの、パンの値段は約2倍に跳ね上がり。中部の大陸ヨーロッパに至っては、不作により、かなりの生活困難に陥る人々が多数出たようです。また栄養不足で、病気なども蔓延。

現在では、この「夏のない年」の原因は、タンボラ山の大噴火にあったとわかっていますが、当時、タンボラ山の噴火のニュースは、ヨーロッパにも伝わっていたものの、インドネシアで起こった噴火と、自分たちが体験する異常気象の関連などは、当然、一切わかっておらず、この夏、怯えた人たちは、「これは、神から人類への天罰」と思ったのか、「神様が助けてくれる」と思ったのか、教会へ足を向け、教会への参列者が大変増えたという話。

タンボラ山噴火は、直接的には、周囲20キロメートルを破壊すると同時に、火山灰を噴き上げる。火山灰と共に、空へと舞い上がったのは、硫黄ガス。この硫黄ガスは、10キロメートル近くも、上空に吹き上がり、大気の成層圏(stratosphere)へ達して、水分と結合し小粒子を形成、これが、地球全土を、ヴェールのように覆ったというのです。このヴェールにより、外から入る太陽光線は遮断されていき、夏のない年へとつながる。このヴェールが完全に散って消えるには、なんと5、6年もの時間がかかるのだそうです。

前回の、フロスト・フェアの記事で、1300年から1850年は、小氷期(リトル・アイス・エイジ)と呼ばれる、比較的気温が低い時代だったという話に触れましたが、もともと、この小氷期も、1300年少し前に、連発して起こった火山噴火が引き金であったのではないか、という説もあります。また、タンボラ山大噴火の数年前から、いくつかの火山活動で、すでに成層圏へ硫黄ガスが噴き上げられていたといわれ、1810年から1820年にかけては、特に寒い時期であったそうです。

1816年の夏に、スイスはジュネーブのそばのレマン湖畔(英語ではLake Geneva)の別荘、ディオダテ荘に集まっていたのは、バイロン卿と、彼の主治医ジョン・ポリドリ、そして、詩人のパーシー・シェリーと、後に彼の妻となるメアリー・ゴドウィン、メアリーの血のつながらぬ妹のクレア・クレモント。なにせ、「夏のない年」となり、雨が続く陰鬱な天気。外で遊山をする代わりに、一同は、室内にこもりざるを得なくなり、かの有名な、ディオダテ荘の怪奇談義、ひいては、メアリーによる「フランケンシュタイン」の誕生となるのです。

また、雪まで降るような異常な夏を迎えた北米東部の土地では、土地を去り、西へと移住していく者たちが増えたということ。

何か、全く関係なさそうな事象が原因となり、色々と連鎖反応のように、物事が起き、歴史の行程が方角を変えたりするものです。近年、現代になってから、こうした火山爆発の影響など、自然科学方面でも考慮すべき事項が明確になっていくと、歴史も、またちょっと違った角度から見ることができ、面白いものです。それと同時に、人類は地球と自然に生かしてもらっているものだと、改めて感じます。彼らが狂うと、人類の生活も狂う、当たり前と言ってしまえばそれまでですが。

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