ハムステッド・ヒースを臨むケンウッド・ハウス

ハムステッド・ヒースの北側に立つ白い屋敷がケンウッド・ハウス(Kenwood House)。

もう四捨五入すると30年くらい前に、イギリス内に数ある、いわゆる昔の貴族の館の中で、初めて足を踏み入れたのが、確か、ここでした。ロンドンにある上、入場料もただですから。

比較的ここから近くにあった、ハムステッド・ガーデン・サバーブの英語学校に通っていたのもあって、レッスンの後に、学校の友人達と、ハムステッドヒースへ足を運ぶ事もよくありました。ケンウッド・ハウスの脇のティールームなどでお茶して、だべって。夏の間に、館の前で行われていたコンサートの際には、皆で、音楽を聴きながらピクニックなどもし。私の行っていた頃の英語学校は、ほとんどが西欧から勉強に来た子達ばかりで、資格試験コースだったのもあり、皆、良く学び、良く遊べ風。まだ、イギリス人の知り合いなどもほとんどいなかった時代、クラスメート達と英語を喋る事で、自信を付けていったんですよね。学校があった、のんびりとした環境も手伝い、もう一度経験してもいい、懐かしい時代です。現在での英語学校は、イギリスへ移り住んでくる人たちを反映し、東欧やヨーロッパ外の生徒が過半数をしめているかもしれません。時が流れました。と、老人の様に、昔の話をだらだらするのは、この辺にして、そう、懐かしのケンウッド・ハウスを、おそらく、20年以上ぶりに訪問しました。

過去のケンウッド・ハウス訪問の記憶は、内装よりも、レンブラントの自画像を初めとする数々の名画の印象がほとんど。ここで遭遇した、トマス・ゲインズバラの大きな貴婦人の絵(上の写真)を見て以来、ゲインズバラという画家の名もしっかり覚えた次第。ちょっと前に、改装工事が行われていたので、内部は私が最後に見たときよりもずっと綺麗にお色直しされているはずです。

この地に屋敷が建てられたのは、17世紀前半。邸宅は何度か所有者の手が変わり、1754年に、ケンウッドを購入したのが、スコットランド出身の著名判事であったウィリアム・マレー。一家は、ロンドンのブルームズベリー・スクエアに居を構え、週日はそこで過ごし、まだ、田舎であったハムステッドのケンウッド・ハウスは、週末の憩いの館。

高等法院主席判事の座にのし上がり、初代マンスフィールド伯の称号を得るこのウィリアム・マレーが、館の現在の姿の元を築くのです。依頼した建築家は、そう、御馴染み、当時引っ張りだこであった、やはりスコットランド出身のロバート・アダム。ロバート・アダムの手がけた貴族の館はイギリス内あちこちに点在し、去年の秋に訪れた、ロンドン西部のオスタリーハウスなども、そう。パステルカラーが綺麗な上の図書館なども、あれ、こんなの、前にもどこかで見たぞ、という感じで。

このスタイル流行だったんでしょうが、当時の金持ちの屋敷が皆こんなだったら、私だったら、ちょっと皆と一味違うものを作りたい、なんて思います。特に、ロバート・アダム独特の内装を見るなら、オスタリーハウスの方が豪華なので、「似てるけど、あっちの方が、金かかってるんじゃないか」と比較されてしまうし。

ウィリアム・マレーの名は、当時勢いを付けて来た、奴隷制廃止運動と関わっています。特に、1772年に起こった、「サマセット事件」と称される裁判の判決は、奴隷制廃止への一歩とも見られています。かつて奴隷であったジェイムス・サマセットが、過去の所有者に監禁され、ジャマイカへ売られてしまいそうになったものを、奴隷制を嫌悪していたマレーの判決で、「所有者は、無理矢理、奴隷を海外へ連れて行くことはできない」としたもの。ささいな事件のようですが、こうして、少しずつ少しずつ、所有者が奴隷に振るう威力を抑制していったのでしょう。

子供がいなかったため、館は、第2代マンスフィールド伯として後を次いだ、ウィリアム・マレーの甥の手に渡り、増築されます。そして、第6代伯の時代まで、マンスフィールド伯爵家のものとして留まるのです。

本人は、ケンウッド・ハウスに住まなかった6代伯は、1910年より、1917年まで、当館を、ロシア皇族の出のミハイル・ミハイロヴィチ(ニコライ1世の孫)一家に貸しています。このミハイル・ミハイロヴィチという人は、ロシアの詩人ブーシキンの孫のゾフィーと、無断で、身分違いの結婚をしたため、怒ったアレクサンドル3世により、ロシアから追放されてしまった人。1917年に、時の皇帝ニコライ2世が殺されるに至ったロシア革命の結果、資金がなくなったミハイル・ミハイロヴィチ一家は、泣く泣くケンウッド・ハウスを去り、もっと小さい家に引越しとなるのです。外の世界の事情を反映した、ちょっと、面白い、ケンウッドハウスの歴史のひとこまですね。

1922年には、第6代マンスフィールド伯は、ケンウッドの館と土地を販売する事とし、ハムステッド・ヒースが、土地開発者の手に落ちるのをふせぐために設立されたケンウッド保護委員会が、敷地の一部を購入。1925年に、この部分の土地は、ジョージ5世により、市民の憩いの場所としてオープンされることとなります。また、同年に、慈善家として有名なギネス・ビール社のエドワード・セシル・ギネス(初代アイヴィー伯)が、館と残りの土地を購入。ケンウッド・ハウスの壁を飾る、現在の有名絵画のほとんどは、このアイヴィー伯所蔵であったもので、1927年、アイヴィー伯死後は、館とそれを囲む土地、そして、この絵画たちがすべて、イギリス国民へと寄贈され、おかげさまで、現在もこうして、ちょろちょろっと無料で入館し、絵画とインテリアの鑑賞をして来れるのです。ギネスおじさん、ありがとさん。

さて、私が訪れた時は、懐かしいレンブラントの自画像は、ありませんでした。受付の人の話によると、ナショナル・ギャラリーのレンブラント展のために貸し出されて、その後も、アムステルダムのライクス・ミュージアム(アムステルダム国立美術館)にもお出かけするのだそうで、しばらく留守のようです。

ヨハネス・フェルメールの「ギターを弾く女」には久方ぶりにご対面。この絵、まだ、ケンウッド・ハウスの警備が比較的甘かった1974年に、一度盗まれてるんですよね。幸いに、すぐ、ロンドン内の教会の敷地に置き去りにされているのを発見され、再び、めでたくケンウッド・ハウスの壁を飾っていますが。さすがに、昨今は、もっと戸締り厳重に・・・してるんでしょうね・・・。

2階にある絵画類は、サフォーク・コレクションと呼ばれるサフォーク伯爵家が集めた絵画で、スチュアート朝の肖像画たちが並んでいます。これらは、1974年に、国に寄贈され、しばらくは、別の場所にあったものが、現在は、ケンウッド・ハウスに収められています。

ティールーム、レストランやおトイレが入っている建物は、かつては、大きな台所などのあったところ。ティールームなんかも、私が大昔、友達と訪れた頃より、お洒落っぽくなっている感じでした。

この一角に昔、水浴びが身体に良いと信じられていた名残の水浴び部屋がありました。当初は、ハムステッドヒースからの湧き水を使用していたそうです。ぶるる!

ケンウッド敷地内には、ヘンリー・ムーアのブロンズの彫刻なども置いてあります。金属目当ての盗難で、公園に設置してあるこうしたものが盗まれる事件なども、よくありますので、大丈夫だといいですね、これも。

さて、ここから、えっちらおっちら駅へと向かいますが、結構時間かかるのです。ハムステッド・ヒースは広いですから。良い運動にはなりました。

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