トゥールーズ=ロートレックとムーラン・ルージュ
パリのモンマルトルの丘のふもとにある赤い風車が、ムーラン・ルージュ(Moulin Rouge)。今回の投稿で話題にする映画の「ムーラン・ルージュ」(邦題;赤い風車)は、椿姫を基にしたニコル・キドマンのミュージカルではなく、1952年製作の、画家アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレックの人生の物語です。
当時、金が無くて苦労した画家は、ヴァン・ゴッホをはじめ多くいますが、ロートレックは貴族の家に生まれ、一生、金に不自由しなかった人。彼のフルネームは、アンリ・マリー・レイモン・ド・トゥルーズ=ロートレック=モンファ(Henri Marie Raymond de Toulouse-Lautrec-Monfa)と、仰々しくも由緒正しそうなもの。でも、彼には、金では解決できない他の悩みがあった・・・両親がいとこ同士で結婚したためか、子供時代に、階段から落ちた事故の後、足の発育が止まり、上半身のみは普通の大人でありながら、足の短い小人であったこと。いとこ同士の結婚など近親間での結婚は、貴族にはざらだったでしょうから、皮肉な事に、富裕な家に生まれた故の障害。
絵は子供の時から才を示し、スケッチなども絶妙だったようです。奇形となってしまってからは、それまで、乗馬を共に楽しんでいた父親との交流も無くなり、画家の道をとるべくパリへ。自分の階級の人間と共に過ごすより、パリの通りや、居酒屋、売春宿などで遭遇する人間たちとの友情を好み、絵の題材も当然、そういった層の生活ぶりを反映するもの。非常に頭の回転早く、ウィットに飛んだ人間で、気の利いた台詞を飛ばし。
映画「赤い風車」の中でも、パリのボヘミアンな生活を捨て、自分たちの屋敷に戻って、そこで絵を描けばいい、と薦める母親に対して、「自分の友達にヴァン・ゴッホという人物がいる。彼は麦畑などの戸外で絵を書くのを主としているけれど、自分にはそれはできない。自分は、街の生活を描く画家(ストリート・ペインター)だから。」という場面があります。日本の浮世絵に大幅な影響を受けたロートレックですが、題材的にも、歌舞伎役者などを描いた浮世絵と同じく、彼も大衆演芸や世間の生活がテーマ。言ってみれば、ロートレックはパリの「浮世」を描写いた画家であるわけです。
1889年に、その扉を開くや、パリで一大センセーションとなるモンマルトルのクラブ、ムーラン・ルージュ。芸術家達にも常連はいましたが、その中でも、特にこのクラブと関わりが深かったのがロートレック。彼は、それまで通っていたムーラン・ド・ラ・ギャレット(ギャレットの風車、Moulin De la Galette) から、こちらムーラン・ルージュに乗り換えて、足しげく通い、経営者、ダンサー、従業員達とも顔なじみとなり。ショーを見ながら、すばやくその様子をスケッチし続け。
映画の出だしは、ムーランルージュ内でのショーの場面。ロートレックの絵で見慣れた人物達が踊って歌って芸をして、喧嘩して。雰囲気は抜群です。フレンチ・カンカンのシーンで流れる音楽に、意図せずに思い出してしまったのは、大昔の白黒の文明堂カステラのコマーシャル。「カステラ1番、電話は2番、3時のおやつは文明堂~」と、小熊の着ぐるみを着たような操り人形たちがカンカンを踊るものでした。おっと、脱線。ムーランルージュのショーの様子を、テーブルでつぎつぎと写生するロートレック。ショーが終わり、店じまいの時間、一人残ったテーブルから立ち上がる時に、はじめて、その背の低さに、彼の足が奇形であるのがわかるのです。
彼が、ムーラン・ルージュのポスターを製作を、経営者から依頼されるのが、1891年。この有名なポスターの中心で、スカートを蹴上げて奔放に踊るのは、当時のムーラン・ルージュの売れっ子ダンサー「ラ・グリュー」(La Goulue 大食漢)。彼女の他は、後景の客も、手前右手に見えるラ・グリューのダンス・パートナーのヴァレンティンも、 すべて、シルエット。ちなみに、このひょろりと背が高いヴァレンティンは、そのゴムのようなしなやかな身のこなしから、骨なしヴァレンティン(Valentin le désossé )のあだ名を取った人物。日中は経営する自分のカフェで働き、夜、ムーラン・ルージュで、もっぱら自分の楽しみのために、金を取らずに踊っていたという変わった人物です。
画期的なリトグラフを使用しての「ムーラン・ルージュ:ラ・グリュー」の大型ポスターは、良かれ悪しかれ話題を呼びます。これをはじめに、ロートレックが生涯デザインしたポスターは、計30。その他、プログラム、歌の本のカバー、新聞、カタログなどのイラスト、デザインも手がけています。
ラ・グリューの後に、ムーラン・ルージュの主要ダンサーとなり人気を博すのが、ジャンヌ・アヴリル(Jane Avril、英語読み、ジェーン・アヴリル)です。映画では、彼女は、ザ・ザ・ガボール(なんちゅう、名前じゃ!)によって演じられ、ダンサーというより歌手のような描かれ方をしています。
ラ・グリューは、ムーラン・ルージュを去った後、自分で公演などを行ったものの、思ったほど人気があがらず、やがては、でぶっと太ってしまい、最後は落ちぶれてしまうのです。ジャンヌ・アヴリルも、華やかなショービジネスを去り、結婚した後、だんながいい加減な奴で、やはり最後は貧困で死んでしまうのです。社会保障が皆無の時代ですから、人生設計が狂うと、悲惨な事になる。一寸先は闇と、将来どんな事になるかわからない、だから、余計、楽しめる、今のうちに楽しんでおかないと・・・という浮世の法則が働いたのでしょう。
上のポスターは両方、ジャンヌ・アヴリルを描いたもの。右の、蛇が巻きついたドレスは、映画でも出てきました。ちょいとキッチですね。
商業的には成功しながらも、お金持ちの坊ちゃんだったので、生活のために、絵画の成功に頼る必要は無かった、というのは、当時のパリの他の多くの画家達に比べれば、かなりラッキーです。映画の中の彼のアパートも、当時はまだ少なかっただろうガスが引かれており、暖かいお湯が出るお風呂などもあったように描かれていましたし、愛した女に、高いドレスなども買ってあげられるし、お出かけも、高級レストランなどにも出入りできた。
社交的で、顔も広く、上流社会出身にかかわらず、しっくりとパリでの生活になじんでいるようでいながら、奇形であるという事実には、常にさいなまれていたようです。人が彼の身体の落ち度を話題にすると、かなり怒って、鋭く反応。やがて、アルコールに走るのも、そんな事実が関係していたよう。映画では、心を寄せた2人の女性との関係が悲恋に終わる事で、さらに、アルコール依存となる様子を描いていましたが。
ヴァン・ゴッホと弟のテオは、梅毒患者だったようですが、当時の社会、売春宿などに通うのがさほどのタブーでも無く、また、病気から必死で身を守ろう、という感覚もあまり無かったのか、とにかく梅毒というのは、蔓延で、ロートレックも梅毒の気があったという話です。売春宿でも盛んに、絵を描いていましたから、足しげく通ったんでしょう。
ロートレックが人生の終わりの方で、神経と頭をやられたのは、アブサン、コニャクなどの強烈アルコールの取りすぎと、梅毒の影響か・・・。ということで、画家として頂点に達し、精力的に活動したのは、1888年から1898年の約10年間。1898年には、ロートレックは狂気の発作を起こし、1899年には、神経障害のため、周囲の人間の薦めもあり、サナトリアムでしばし養生。パリに戻った後も、アルコールはやめられず、1901年には更なる神経障害を起こして、同年9月、実家の屋敷で死去。36歳。
映画では、ラスト、彼の父が、死の床に横たわる息子に、「生存する画家としては初めて、ルーブルに絵が展示される事が決まった」とロートレックに知らせるのです。ロートレックは、その父の言葉を聞いていたのかいないのか、ムーラン・ルージュの踊り手たちが次々とダンスを披露し、彼に別れを告げて消えていく幻を見るのでした。
映画内での、私のお気に入りシーンは、冒頭のムーラン・ルージュのショーの場面と、自殺を試みようとする場面です。愛した下層階級の女性に、「奇形!」とののしられ、破綻した後、自殺をしようと、窓を閉め、室内のガスの栓を全て開け放つシーンがありますが。よっこらと椅子に座って、ガスの効き目が回ってくるのを待つ間、彼は、室内に飾る自分が描いた絵を眺め始め、まだイーゼルに掛かったままの未完の絵に視線が落ちると、気になりだして、絵筆を取り、手を加え始めるのです。そして、熱中し始めると、そそくさと、全てのガス栓を再び閉める。上手い描写ですよね、これ。奇形で、女には邪険にされても、人生の原動力となるものがまだ、自分に残っていると気付く瞬間を捕らえていて。
当時のパリの再現も雰囲気が良く出ているし、ロートレックという人物像も、主役のホセ・フェラー(Jose Ferrer)が上手く出していて、画家のバイオピック(伝記映画)という狭いジャンルを離れても、なかなかいい映画だと思います。
原題:Moulin Rouge
監督:John Huston
言語:英語
1952年
*ムーラン・ルージュ、ムーラン・ド・ギャレットを含むモンマルトル界隈の写真と周辺の歴史の話は、過去の旅行記に載せてあります。こちら。
当時、金が無くて苦労した画家は、ヴァン・ゴッホをはじめ多くいますが、ロートレックは貴族の家に生まれ、一生、金に不自由しなかった人。彼のフルネームは、アンリ・マリー・レイモン・ド・トゥルーズ=ロートレック=モンファ(Henri Marie Raymond de Toulouse-Lautrec-Monfa)と、仰々しくも由緒正しそうなもの。でも、彼には、金では解決できない他の悩みがあった・・・両親がいとこ同士で結婚したためか、子供時代に、階段から落ちた事故の後、足の発育が止まり、上半身のみは普通の大人でありながら、足の短い小人であったこと。いとこ同士の結婚など近親間での結婚は、貴族にはざらだったでしょうから、皮肉な事に、富裕な家に生まれた故の障害。
絵は子供の時から才を示し、スケッチなども絶妙だったようです。奇形となってしまってからは、それまで、乗馬を共に楽しんでいた父親との交流も無くなり、画家の道をとるべくパリへ。自分の階級の人間と共に過ごすより、パリの通りや、居酒屋、売春宿などで遭遇する人間たちとの友情を好み、絵の題材も当然、そういった層の生活ぶりを反映するもの。非常に頭の回転早く、ウィットに飛んだ人間で、気の利いた台詞を飛ばし。
映画「赤い風車」の中でも、パリのボヘミアンな生活を捨て、自分たちの屋敷に戻って、そこで絵を描けばいい、と薦める母親に対して、「自分の友達にヴァン・ゴッホという人物がいる。彼は麦畑などの戸外で絵を書くのを主としているけれど、自分にはそれはできない。自分は、街の生活を描く画家(ストリート・ペインター)だから。」という場面があります。日本の浮世絵に大幅な影響を受けたロートレックですが、題材的にも、歌舞伎役者などを描いた浮世絵と同じく、彼も大衆演芸や世間の生活がテーマ。言ってみれば、ロートレックはパリの「浮世」を描写いた画家であるわけです。
1889年に、その扉を開くや、パリで一大センセーションとなるモンマルトルのクラブ、ムーラン・ルージュ。芸術家達にも常連はいましたが、その中でも、特にこのクラブと関わりが深かったのがロートレック。彼は、それまで通っていたムーラン・ド・ラ・ギャレット(ギャレットの風車、Moulin De la Galette) から、こちらムーラン・ルージュに乗り換えて、足しげく通い、経営者、ダンサー、従業員達とも顔なじみとなり。ショーを見ながら、すばやくその様子をスケッチし続け。
映画の出だしは、ムーランルージュ内でのショーの場面。ロートレックの絵で見慣れた人物達が踊って歌って芸をして、喧嘩して。雰囲気は抜群です。フレンチ・カンカンのシーンで流れる音楽に、意図せずに思い出してしまったのは、大昔の白黒の文明堂カステラのコマーシャル。「カステラ1番、電話は2番、3時のおやつは文明堂~」と、小熊の着ぐるみを着たような操り人形たちがカンカンを踊るものでした。おっと、脱線。ムーランルージュのショーの様子を、テーブルでつぎつぎと写生するロートレック。ショーが終わり、店じまいの時間、一人残ったテーブルから立ち上がる時に、はじめて、その背の低さに、彼の足が奇形であるのがわかるのです。
彼が、ムーラン・ルージュのポスターを製作を、経営者から依頼されるのが、1891年。この有名なポスターの中心で、スカートを蹴上げて奔放に踊るのは、当時のムーラン・ルージュの売れっ子ダンサー「ラ・グリュー」(La Goulue 大食漢)。彼女の他は、後景の客も、手前右手に見えるラ・グリューのダンス・パートナーのヴァレンティンも、 すべて、シルエット。ちなみに、このひょろりと背が高いヴァレンティンは、そのゴムのようなしなやかな身のこなしから、骨なしヴァレンティン(Valentin le désossé )のあだ名を取った人物。日中は経営する自分のカフェで働き、夜、ムーラン・ルージュで、もっぱら自分の楽しみのために、金を取らずに踊っていたという変わった人物です。
画期的なリトグラフを使用しての「ムーラン・ルージュ:ラ・グリュー」の大型ポスターは、良かれ悪しかれ話題を呼びます。これをはじめに、ロートレックが生涯デザインしたポスターは、計30。その他、プログラム、歌の本のカバー、新聞、カタログなどのイラスト、デザインも手がけています。
ラ・グリューの後に、ムーラン・ルージュの主要ダンサーとなり人気を博すのが、ジャンヌ・アヴリル(Jane Avril、英語読み、ジェーン・アヴリル)です。映画では、彼女は、ザ・ザ・ガボール(なんちゅう、名前じゃ!)によって演じられ、ダンサーというより歌手のような描かれ方をしています。
ラ・グリューは、ムーラン・ルージュを去った後、自分で公演などを行ったものの、思ったほど人気があがらず、やがては、でぶっと太ってしまい、最後は落ちぶれてしまうのです。ジャンヌ・アヴリルも、華やかなショービジネスを去り、結婚した後、だんながいい加減な奴で、やはり最後は貧困で死んでしまうのです。社会保障が皆無の時代ですから、人生設計が狂うと、悲惨な事になる。一寸先は闇と、将来どんな事になるかわからない、だから、余計、楽しめる、今のうちに楽しんでおかないと・・・という浮世の法則が働いたのでしょう。
上のポスターは両方、ジャンヌ・アヴリルを描いたもの。右の、蛇が巻きついたドレスは、映画でも出てきました。ちょいとキッチですね。
商業的には成功しながらも、お金持ちの坊ちゃんだったので、生活のために、絵画の成功に頼る必要は無かった、というのは、当時のパリの他の多くの画家達に比べれば、かなりラッキーです。映画の中の彼のアパートも、当時はまだ少なかっただろうガスが引かれており、暖かいお湯が出るお風呂などもあったように描かれていましたし、愛した女に、高いドレスなども買ってあげられるし、お出かけも、高級レストランなどにも出入りできた。
社交的で、顔も広く、上流社会出身にかかわらず、しっくりとパリでの生活になじんでいるようでいながら、奇形であるという事実には、常にさいなまれていたようです。人が彼の身体の落ち度を話題にすると、かなり怒って、鋭く反応。やがて、アルコールに走るのも、そんな事実が関係していたよう。映画では、心を寄せた2人の女性との関係が悲恋に終わる事で、さらに、アルコール依存となる様子を描いていましたが。
ヴァン・ゴッホと弟のテオは、梅毒患者だったようですが、当時の社会、売春宿などに通うのがさほどのタブーでも無く、また、病気から必死で身を守ろう、という感覚もあまり無かったのか、とにかく梅毒というのは、蔓延で、ロートレックも梅毒の気があったという話です。売春宿でも盛んに、絵を描いていましたから、足しげく通ったんでしょう。
ロートレックが人生の終わりの方で、神経と頭をやられたのは、アブサン、コニャクなどの強烈アルコールの取りすぎと、梅毒の影響か・・・。ということで、画家として頂点に達し、精力的に活動したのは、1888年から1898年の約10年間。1898年には、ロートレックは狂気の発作を起こし、1899年には、神経障害のため、周囲の人間の薦めもあり、サナトリアムでしばし養生。パリに戻った後も、アルコールはやめられず、1901年には更なる神経障害を起こして、同年9月、実家の屋敷で死去。36歳。
映画では、ラスト、彼の父が、死の床に横たわる息子に、「生存する画家としては初めて、ルーブルに絵が展示される事が決まった」とロートレックに知らせるのです。ロートレックは、その父の言葉を聞いていたのかいないのか、ムーラン・ルージュの踊り手たちが次々とダンスを披露し、彼に別れを告げて消えていく幻を見るのでした。
映画内での、私のお気に入りシーンは、冒頭のムーラン・ルージュのショーの場面と、自殺を試みようとする場面です。愛した下層階級の女性に、「奇形!」とののしられ、破綻した後、自殺をしようと、窓を閉め、室内のガスの栓を全て開け放つシーンがありますが。よっこらと椅子に座って、ガスの効き目が回ってくるのを待つ間、彼は、室内に飾る自分が描いた絵を眺め始め、まだイーゼルに掛かったままの未完の絵に視線が落ちると、気になりだして、絵筆を取り、手を加え始めるのです。そして、熱中し始めると、そそくさと、全てのガス栓を再び閉める。上手い描写ですよね、これ。奇形で、女には邪険にされても、人生の原動力となるものがまだ、自分に残っていると気付く瞬間を捕らえていて。
当時のパリの再現も雰囲気が良く出ているし、ロートレックという人物像も、主役のホセ・フェラー(Jose Ferrer)が上手く出していて、画家のバイオピック(伝記映画)という狭いジャンルを離れても、なかなかいい映画だと思います。
原題:Moulin Rouge
監督:John Huston
言語:英語
1952年
*ムーラン・ルージュ、ムーラン・ド・ギャレットを含むモンマルトル界隈の写真と周辺の歴史の話は、過去の旅行記に載せてあります。こちら。
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