マルドンの水辺・・・塩、バイキング、オイスターそしてテムズ・バージ

チェルマー川とブラックウォーター川が、エセックス州ブラックウォーター河口にて合流し、北海へと流れ出る・・・この河口の南側にある小さな町がマルドン( Maldon、英語発音はモルドンに近い気がしますが )。前回の投稿で書いたマルドン・ソルトの塩産業を始め、当然その過去の歴史は、海と水路とに深い関わりがあるのです。

この町の名が始めて歴史的に記述された出来事は、10世紀に進入してきたバイキングとの戦いである「マルドンの戦い」。アングロ・サクソン時代の古い英語で書かれた「マルドンの戦い」という詩が残っており、オールド・イングリッシュを研究する学者達には貴重な資料となっているようです。「指輪物語」で有名なトールキンも、こうしたオールド・イングリッシュの学者であり、この「マルドンの戦い」の後に何があったかを書いた短い戯曲なども出版しています。

当時、イギリスの海岸線の土地は、デーン人などのバイキング達がどんぶらこっこと船で現れては大暴れすることしばしば。特に990年代は、デーン人の侵入は激しく、略奪、地元民との戦いなどが繰り広げられていたのです。この結果、やがては、政権が一時サクソン人の手から離れ、1017年から1042年にかけて、デーン人のクヌートとその息子たちがイングランドの王座に就くに至るのですが。

さて、デーン人支配の先駆けとなるマルドンの戦いとは・・・
ブラックウォーター河口に浮かぶ小島ノージー島にやってきて、キャンプをはったバイキング達。バイキングの大暴れを抑えるため、イングランド各地からやってきた兵士でなる、アングロ・サクソンの軍を率いていたのはブリスノス(現在は、Brithnothと綴られる事が多いようですが、過去はByrhtnothなど、スペルは色々。また発音もまちまちの感があり、とりあえず、ブリスノスとしておきますが、当時の真なる発音からは少し離れているかもしれませんので、ご了承あれ。 )。ノージー島のバイキング達は、ブリスノスに、お宝をよこせば、土地を荒らさずに帰ってやるぞ、と脅迫。ブリスノスは、そんなことをするくらいなら正々堂々と戦うぞ、と相成ったのです。

そして991年8月10日、ブラックウォーター河口の潮が引いて、島とモルドンをつなぐ土手道が現れた時、ブリスノスは、ご大層にも、バイキング達をわざわざ本土に渡らせ、彼らが降り立った、島のすぐ向かいの土地で戦いの幕が切って落とされるのです。島と本土との土手道が引き潮時に現れるのというのは、セント・マイケルズ・マウントののりです。

詩が残っているくらいなら、アングロ・サクソン軍が勝ったのでは・・・と思うところが、負けてしまうのですね~、これが。ブリスノスは、傷つきながらも、最後まで果敢に戦った、という敗者を称える詩なのです。「ほろびの美学」めいた、日本的感覚。彼の頭は、バイキングに切り取られどこかへ持っていかれてしまったようですが、残りの遺体は、イーリー大聖堂に収めれられており、その骸骨から察するところ、2メートルはあったという大男だったそうです。

いずれにせよ、イングランドはこの戦いの敗北後、デーン人に、デーンゲルト(danegeld)と称される貢物や金銭を送るなどして、なんとか、侵入をしてこないように、丸く収めようとしますが、どんなに沢山デーンゲルトを受け取っても、デーン人は次から次へとやって来て、ついには、デーン人、クヌートの政権を迎えるわけです。

マルドンの川沿い(海沿い)のプロムナードをずっと歩いて行き着いた所に、ノージー島と戦場跡の方角を向いて、剣をたたく掲げるブリスノスの像が立っています。

引き潮時にマルドンの川を渡るというと、最近は、バイキングより、参加者が泥にまみれながら走る、マルドン・マッド・レース(Maldon Mud Race マルドン泥競争)の方が有名でしょうか。このレース、年々、有名になり、ヨーロッパからの参加者なども増え、確か、日本からもコメディアンが参加したという話を聞いた事があります。見物人も今や、軽く1万5千人を超すという大々的な行事となっています。

さて、マルドンの戦いの英雄の像を眺めた後、くるりときびすを返し、町の方角へ戻りながら眺める風景が、一番上の写真です。船のマストと、教会が空にのびる様子が、なかなか。散歩にはもってこいの、このプロムナードで、途中には、紅茶で一服できるカフェもあるし、ちょっとしたシーフード、特にシーズンにはオイスターが食べられる小さな出店もあります。

ブラックウォーター河口と更にここを北へあがった、コルチェスターを流れるコーン川河口は、古くからオイスターが有名です。この周辺のオイスターは、過去も、現在もロンドンに出荷され、ケント州のウィトスタブル(Whitstable)の牡蠣と共に重宝されています。

昔は、ローマ時代から食されてきた、貝が丸っこい形をしたヨーロッパヒラガキ(ヨーロピアン・フラット・オイスター、またはコルチェスター・オイスターとも呼ばれた)が主だったのが、1960年代に、この原産のヒラガキが寒さで大被害を受けてから、日本でお馴染みのマガキ(パシフィック・オイスター)が導入され、現在エセックス海岸では、また全国的にも、マガキがメイン。原産のヒラガキも、まだ養殖しているようですが、これを食したことは、まだ無いです。

数年前に訪れたときに食べた牡蠣。夏の終わりか、秋だったでしょうか。レモンをちろっとたらして、美味かった・・・!カウンターのお兄さんが、「ロンドン有名レストランや、オイスター・バーにも出しておるのじゃ」と自慢していました。

最近は、収穫した牡蠣は、2日間、きれいな海水に浸してから販売されるのが一般となり、牡蠣で食中毒・・・などという話は、あまり聞かないようになりました。現在はともかく、過去は、伝統的に、オイスターは、「r」の文字が綴りの中に入っている月に食べるものとされていたようで、「r」の入っていない、5月、6月、7月、8月には、食べなかった・・・要は、夏季に、牡蠣は食べなかった・・・のです。

波止場には、いくつかのテムズ・バージが停泊しているのが見れます。バージ(barge)とは、川や浅瀬の運行に適した平底荷船。かつては、ロンドンへの物資の運搬に大活躍した船たちです。19世紀後半の最盛期には、5000近くのテムズ・バージが東海岸を行ったりきたり。

テムズ・バージで運ばれた、この周辺からの主な物資のひとつに、近くの農場からの干草などがあります。当時は、まだ、ロンドンは馬車が走っていた時代。馬の肥料や敷き藁用に、干草が大量に必要とされたため、干草はテムズ・バージに高く積み上げられ、ロンドンへ運搬。ロンドンからは、今度は、「ロンドン・ミクスチャー」と称された馬糞を、バージに積み帰途へ。馬糞は田畑にまかれることとなりますので、これぞ究極のリサイクル。

河口で物資を積み上げて出発する際には、満ち潮である事が肝心。潮が引き始めた時に、帆を立て出て行こうものなら、途中で、泥の中しばし立ち往生となりますので、常時、潮のタイミングを見ながら作業することは必須でした。

初夏に、イタリア人の友人がイギリスに来たので、マルドンへ連れて行ったのですが、この際、引き潮で、船などがみな、泥にお腹を置いて座っている様子が、彼には印象深かったようです。「潮の満ち引きが、かなりおおきいんだな。地中海は、潮の上がり下がりなど取るに足らないから、こんな景色は見れないよ。」と、熱心に潮の満ち引き表を眺めて、その水位の違いに感心していました。そう言われてみれば、たしかに、イギリスは潮の流れを利用した発電に適した国だなどと言われています。何事にも、こうやって興味を示してくれる人は、連れて歩いていて、こちらも楽しいし、ためになるのです。「旅は精神を豊かにするなどと人は言うが、そのためには、まず、精神を持っていなければならない」というG.K.チェスタートンの引用が頭を過ぎりました・・・。

この地に、塩田を与え、牡蠣を与え、バイキングが島から徒歩で渡った、水の無いこんな河口の風景にも、たしかに、イタリアのカラフルな海岸線とは別の、水墨画にもなりそうな風情があるのです。

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