ダフネ・デュ・モーリアの「鳥」

昨日のニュースによると、今年の夏は、人間に襲い掛かるかもめの数が増えており、RSPB(王立野鳥保護協会)へ、「迷惑かもめ何とかならんか」の電話が殺到しているとか。かもめの子育て時期が、少々遅れた年であり、比較的暑い天気が原因だという話です。子育て期のかもめは、かなり気が荒くなるといいます。ラジオの報道では、ヨークシャー州海岸沿いに住む老女が、外に出る度にかもめの襲撃を受けるので、ドアから外に出るときは、頭に金属の水切りボールを被っているという話を紹介し、更には、イングランド南西部コーンウォール州のセント・アイブスで、ホリデーを楽しむ人たちや住人たちの、暴れん坊かもめに関するインタヴューなどもありました。そのうちの一人の女性は、「かもめの数多すぎるのよ。ゴミ箱の内容物を全部かきだしたりして冗談じゃないわ。大掛かりなカル(集合的に害のある動物を殺すこと)でもしてくれないかしら。」などと強硬意見を述べていましたが・・・

イギリスで、かもめの数は減少しているそうです。大型で、ロンドンなどの街中でも見かけ、それこそ人間のごみなどもあさるから、目に付きやすく、どこにでもいる・・・なんて気がするだけで、上昇しているのは、かもめの数ではなく、人間と、その人間の営みが生み出すごみの量なのでしょうね。イギリスは、ヨーロッパの中では、人口上昇率がかなり高い国ですし、世界人口もあがる一方。比較的小さい国で、人口が増えるばかりだと、野生との衝突が増えるのは必至。そして、大胆で、大型、見た目が怖いかもめのような鳥は、悪者になることも必至。最近のかもめに関する別のニュースでは、ランカシャー州の滑走路で、飛行機のエンジンなどにかもめが巻き込まれる危険性を考慮して、周辺のかもめを殺すことが決まったそうです。

飛行機墜落の恐れほどの危険性の無い、かもめのごみあさりに関しては、食べ物をポイ捨てするのも人間で、この強硬意見おばさんなども、ファーストフードなどを子供達と一緒に、むしゃむしゃっとやって、食べられないと、ゴミ箱にぽいっとしているかもしれない。かもめも、自分の子供に餌をやるのに死に物狂いなのです。人間が自分達の行動を省みずに、一方的に野生を悪者にするのも考え物です。かもめは、餌が見つけられなければ、雛は死ぬ。自分の子供を自分で育てられない窮境になったら、政府が多少の助けを出してくれるイギリスの人間社会とは違って、野生は厳しいのです。海辺のリゾートなどでも人気のファーストフードのフィッシュアンドチップスを抱えている人間を狙ってかもめがついてくるのも、フィッシュはもともと海を泳いでいたもの。海にいれば、かもめは海から食べるわけだけれど、それを釣って、揚げて、陸で売っているのは人間がしたこと。かもめは、「お、陸にも魚が!」とよってくるわけですから。ただ、水切りボールを被らなければ、怖くて家から出れない老婦人には同情しますが。子育てシーズンが終わったら、かもめも少しは落ち着くと期待して。ラジオニュース放送で、最後にインタヴューされた、アイスクリームを手にした男性、「かもめに襲われるの怖くないの?」の質問に、「僕には、とても怖い妻がいる。妻の方がずっと怖いよ。かもめなんか気にならない。」ははは・・・!

さて、かもめを含めた鳥達が、ある日突然人間を襲う・・・と言うと、アルフレッド・ヒッチコックが映画化したことで有名な、ダフネ・デュ・モーリアの短編小説、1952年出版の「鳥」(The Birds ザ・バーズ)が、頭に浮かびます。ちなみに、ダフネ・デュ・モーリアの父は、俳優で、ヒッチコックとも知り合いだったということです。

ヒッチコックの映画では、米のカリフォルニアが舞台で、金髪の美女が主人公ですが、原作の小説の舞台は、デュ・モーリアが好きで人生の大半を過ごした、イングランドの南西部にあるコーンウォール州でした。この小説の発想は、彼女が、農民が耕し掘り起こしたばかりの農地に無数のかもめが舞い降りているのを目撃し、「もし、この鳥達が人間を襲ったら・・・」という考えが頭を過ぎったことから書き始めたという逸話があります。私の原作との遭遇は、イギリスで、ラジオドラマ化されたものを聴いたのがはじめ。かもめのニュースを聞いて思い出し、原作を読んでみるか、と、昨夜キンドルに「鳥」を含めた彼女の短編集をダウンロードし、「鳥」を、寝る前に一気読みしました。暗く、雲が低く垂れ込めた冬のイギリスの風景描写と、人物がほとんど登場せず、大半が、海沿いの小さなコテージの内部で展開されるという閉鎖され隔離された感覚が、じわじわくる不安の高まりに一味かっています。

あらすじは、

戦後まもなく、コーンウォールの農場で働き、海岸からほど遠からぬ小さなコテージに住むナット。西風のおかげで、比較的暖かな秋が終わりつつある12月の初め、海岸の崖縁に座りながらのランチの間、おちつきなく飛び交う鳥達をながめる彼は、その鳥達の様子が、なんとなく例年と違うと感じる。その夜、風はやわらかな西風から、冷たい東風に変わり、ナットが妻と子供2人と共に住む小さなコテージは、侵入しようとする鳥達に襲われる。この最初の襲撃の夜にやってきたのは、ロビン、ブルーティット、レンなどの小型で愛らしい、いわゆるガーデンバード達。何羽かは子供の寝室に入り込み、くちばしで子供達に襲い掛かる。ナットは子供達を寝室から避難させ、一人、鳥と戦う。

翌朝、部屋の中には、数多くの小鳥達の死骸が転がり、ナットは、農場の従業員や、農場主の妻に、鳥の襲撃の話をするものの、酔っていたのかとまじめに取り合ってもらえない。小鳥の死骸を片付けに海岸へ降り立つナットは、無数のカモメ達が群れを成して波の上をさまようのを目撃し、「何かがおかしい」と不安を募らせる。家へもどると、妻がロンドンからのラジオ放送で、ロンドンに大挙して鳥達が群がっているという報道を伝える。今度はコテージに、小鳥ではなく、カモメ達が襲ってくると感じたナットは、コテージの窓や出入り口を補強し、まさかの襲撃に備える。戦争が始まった時に、プリマスの母の家の窓を、ドイツ軍の空襲に備え、板で塞いだときの事を思い返しながら。農場主の夫婦ののんびりした態度に、ナットは、戦時中空襲を受けていない者は、実際に襲撃を受けるというのがどういう事かわからないのだ・・・という感想を持つのです。暖炉の火を燃やしたキッチンに家族4人でたてこもると、カモメ達の襲撃が始まる。壁や窓にくちばしから体当たりしてくる音、その追突で、そのままどさりと地面に落ちる音。そして、飛行機の音。政府が、飛行機で鳥を退治しようとしているのだ、とぬか喜びもつかの間、続いて、飛行機が墜落し、大破する音が。プロベラやエンジンに鳥が飛び掛り地に落ちた模様。

鳥の襲撃は、満ち潮の時にやってきて、引き潮になると止まるとわかったナットは、翌朝の引き潮時に、農場から食べ物と燃料の補給を頼みに出かけるのだが、農場の住民達はすべて鳥に殺されていた。ナットは、必要なものを農家からかき集め、再びコテージへ戻り、さらなる攻撃に控えて、家を補強。ラジオからは、今はもう何の放送も入ってこない。ロンドンは全滅してしまったのか。1本だけ残ったタバコを口に入れながら、火を見つめるナット。

Nat listened to the tearing sound of splintering wood, and wondered how many million years of memory were stored in those little brains, behind the stabbing beaks, the piercing eyes, now giving them this instinct to destroy mankind with all the deft precision of machines.

ナットは、木が切り裂ける音を聞きながら、考えた。あの鋭い目と突き刺さってくるくちばしの間の小さな脳の中に、幾百万年の記憶が蓄えられているのかを。今、こうして機械の様な精密さをもって、人類をほろぼそうという衝動に駆るような。

自然を抑制していると自負していた人類が、今度は自然にコントロールされてしまう恐怖。彼と彼の家族は生き残ることができるのか・・・それは、想像にお任せしますとばかりに、小説は、火を見つめるナットの姿を描いておしまい。

戦争中の爆撃体験との比較や、東風が吹き出したら、鳥達がおかしくなった、きっとロシアの仕業だ、などという記述に時代背景がわかり、それも面白かったです。また、ナットの奥さんが「アメリカが助けに来てくれないかしら。アメリカはいつもこの国を助けてくれるはず。」ともらすのも、当時の、第1次、第2次大戦の記憶の新しさがあります。BBCのラジオ放送も、やがて入ってこなくなった上、外国の放送もまったく聞こえなくなる・・・というのは、鳥の襲撃がヨーロッパでも起こっており、やがては、世界各地で人類は鳥にやられてしまう、という設定のようです。これを、ロシアの共産主義が世界を飲み込む比喩とする解釈もあるようですが。

かもめなどの大型の水鳥に襲われるのは、やはり怖いのは怖いのです。下の描写は、ナットが、初めて外でかもめに襲われ,、命からがら、コテージへ駆け込む途中のシーン。

They kept on coming at him from the air, silent save for the beating wings. The terrible, fluttering wings. He could feel the blood on his hands, his writs, his neck. Each stab of  a swooping beak tore his flesh. If only he could keep them from his eyes. Nothing else mattered. He must keep them form his eyes.

カモメ達は上空からナットめがけて舞い降り続けた。空気を打つ翼以外は一切音を立てずに。なんとおぞましい、羽ばたきか。ナットは、手に、手首に、そして首に、血が流れるのを感じた。襲い掛かってくるくちばしの一撃ごとに、ナットの皮膚が切り裂かれた。目さえ守ることが出来れば。後は一切どうでもいい。目だけを守ることができれば。

そして、コテージのドアへ入る直前に、かもめより更にくちばしの鋭い、ガネット(私の英和辞典によるとカツオドリとありました)という水鳥が襲い掛かるのです。

Only the gannet remained. One single gannet, above him in the sky. The wings folded suddenly to its body. It dropped like a stone. Nat screamed, and the door opened.

(カモメ達は去り)残るは、ガネットのみだった。一羽のガネットが、ナットのすぐ上の空を舞っていた。いきなり、その翼は、体の脇にたたみこまれ、ガネットは、石のようにナットめがけて舞い降りてきた。ナットは叫び声を上げた。その時、ドアが開いた。

このガネットのくちばしは、まさに凶器で、数年前に、海岸を散歩していた人が、傷ついたガネットを助けようとしたところ、目玉をつつかれて重症をおったというニュースを聞きました。大型の水鳥にはできる限り、善意からでも手を出さないのが無難です。それこそ、傷ついたガネットを見たら、RSPBにでも電話して、自分は近寄らずに、プロに任せるのが最善。善行をしようとして、目玉くり貫かれたりしたら、なんともいたたまれないですから。

鳥の襲撃の合間の家族での食卓場面も、当時の田舎の家庭生活を垣間見れて、私には面白かったです。

最初の襲撃のあった後の朝、

The glowing sticks brought normality, the steaming kettle and  the brown teapot comfort and security.
赤く燃え上がる木の枝が日常感覚を呼び戻し、湯気の上がるやかんと茶色のティーポットがやすらぎと安全感を与えてくれた。

紅茶を入れる行為、紅茶を飲む行為で、ほーっとするのは、今のイギリスも同じです。

また、2晩目には、
They drank tea and cocoa and ate slices of bread and Bovril.
彼らは、紅茶とココアを飲み、ボブリルをつけてパンを食べた。

ボブリルというのは、ビーフのエキスとイーストの入った、見かけはマーマイトのような代物で、入っている瓶もマーマイトに良く似ています。大体の場合は、お湯に溶かして飲むもので、うちでも時々、しょっぱいものが飲みたいときは、「ボブリルでも飲もうか」なんてことになりますが、この小説の書き方だと、ナットの家では、ボブリルを、マーマイトよろしく、パンにつけて食べたのでしょうか。溶かさず、べちょっと付けると、かなりきつい味でしょうね。食べ物は、まだ、今のような飽食の時代の感はなく、質素です。

さて、映画の方のヒッチ・コックの「鳥」(The Birds)ですが、場所は、イギリスのコーンウォールから、アメリカ西海岸へ舞台を変え、ストーリーも、ちょっとしたラブストーリーをからめて、かなり大幅に書き直されています。

ティッピ・ヘドレン扮する、裕福な父を持つ金髪の美女メラニーは、多くの鳥かごの置かれた、サンフランシスコのペット・ショップで、弁護士のミッチ(ロッド・テイラー)と出会う。軽快タッチな最初の出会いはラブ・コメ風でお洒落。愛らしいペットの小鳥達が、後から殺人を犯す鳥達と対照的。小さな妹キャシーの誕生日にペアのラブバードを探しているというミッチ。メラニーは、彼を驚かせるために、彼が店を去った後、自らラブバードを注文し、週末に彼が過す母親と妹が住む家がある、ボデガ・ベイという小さな海沿いの村に、車を飛ばしてラブバードの入った鳥かごを配達に行く。ミッチは、メラニーを夕食に誘い、また、翌日のキャシーのの誕生日パーティーにも招く。その日のうちにサンフランシスコに帰る予定であったメラニーは、予定変更で、一晩、村の小学校教師でかつてはミッチの恋人だったアニーの家に宿泊。メラニーは、アニーから、ミッチに近づく女を全て敵として嫌うミッチの母、リディア(ジェシカ・タンディ)のために、ミッチとの恋愛が壊れたいきさつを聞くのです。

さて、キャシーの誕生日パーティーで、鳥達の襲撃が始まります。原作と同じく、鳥達の襲撃には、波があり、起こっては止まり。この後、キャシーの学校での襲撃、地元のレストランの周りでの襲撃と続き、最後は、補強した家に立てこもったミッチ、メラニー、リディア、キャシー。室内で鳥に襲われ、大傷を負ったメラニーを医者に見せるため、車を出してサンフランシスコへ行く決心をしたミッチは、多くの鳥達が見つめる中、家族を車に乗せ、家を去って行く。映画では、鳥の襲撃を受けたのはボデガ・ベイ辺りのみで、ここを脱出することで、一家は救われるでしょう、また、この事件を通して、リディアの心が和らぎ、メラニーとの絆を築き、ミッチとメラニーはめでたく結ばれるでしょうね・・・という雰囲気で、原作の人類の終焉的ムードよりは、希望がある終わり方です。

この映画作成の裏話をドラマ化した番組も、最近、見たばかりです。「ザ・ガール」という題名だったと思いますが。このドラマによると、なんでも、ヒッチコックは、主役ティッピ・ヘドレンにぞっこんになってしまい、何とかベッドインしようと試みたものの、拒絶された結果、復讐に出るのです。偽の鳥を使わず、本物の鳥を彼女に襲い掛からせるのが、その復讐のひとつ。室内で、彼女が鳥に襲われるこのシーン、彼女が切り傷擦り傷、くたくたになるまで、何度も何度も取り直しをさせるのです。セクハラにもめげずがんばった彼女は肝座ってます。それにしても、すばらしい映画を作るからと言って、すばらしい人格とは限らないもんですね、まあ当たり前ですが。ティッピへの執着心消えぬヒッチコックは、タクシーの中でいきなり襲い掛かろうとしたり、しつこく何度も電話かけたりとかもして、そのすけべおじさんぶりを発揮したようです。まさに、こちらの方が映画より、こわいですね、こわいですね、こわいですね~。

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