バーカムステッド城

去年の今頃は、大雪騒ぎを経験したイギリスですが、先週は、記録的に暖かい日が続き、陽気に誘われ、ハートフォードシャー州バーカムステッドにある城跡訪問と周辺のハイキングへ出かけました。

バーカムステッド(Berkhamsted)という地名は、英語のウィキペディアによると、「berk」の部分が、丘か、カバノキを意味し、 「hamsted」とは「homestead、ホームステッド」の事で、土地つきの家・館を意味するので、「丘またはカバノキに囲まれた荘園」の様な意味になるそうです。

1066年10月14日に戦われたヘイスティングスの戦いで、イングランド王ハロルドの軍を破り、勝利したノルマンディー公ウィリアム。1週間ほど、ヘイスティングスに留まり、ウィリアムをイングランド王と認める、イングランド側の正式な服従を待ったものの、それは来ず、ウィリアムは、兵を上げロンドンへと向かいます。その過程で、まず、港町ドーバーを焼き尽くし、キリスト教会の大切な根拠地カンタベリーを落とし、11月には、テムズ川南岸にあるサザックへ到着。サザックから、ロンドン橋を渡った対岸のロンドン(シティー・オブ・ロンドン)に侵入するのに失敗したウィリアムは、その後、行く先々を焼き尽くしながら、テムズ川南岸を西(上流)に移動し、12月初旬、オックスフォードシャー州のウォーリングフォード(Wallingford)でテムズ川を対岸へ渡ります。ここから軍の一部を、要地であるウィンチェスターへ送り、ウィンチェスターを抑え、ウィリアムは、そのままチルターン丘陵を沿って、ロンドンの北西約42キロの場所に位置するバーカムステッドにやって来るのです。要は、ロンドンの南部のサザックから、ロンドンを軸とした感覚で、ぐるりと時計回りに半周してバーカムステッドにたどり着いたわけです。

そして、このバーカムステッドの地で、ウィリアムは、ハロルド王亡き後、イングランドの王位継承者と見られていた14歳のエドガー・アシリングとアングロ・サクソンの重鎮たちを迎い入れ、彼らの降伏を受諾し、イングランド王と認められます。さんざん、あちこちの村や町を焼き落されて多くの犠牲者を出した後の服従とあって、早めに状況判断をして、とっとと降参していれば、被害も少なく済んだのに、という批判もあるようですが。そして、クリスマスの日に、彼は、イングランド王ウィリアム1世として、ウェストミンスター寺院で戴冠式とあいなるのです。

バイユータペストリーに見られる城作り
さて、ウィリアム1世とノルマン人たちが、イングランドへ導入したものとして、「城」があります。ヘイスティングスの戦いの顛末を刺繍で巻物風に綴ってあるバイユー・タペストリーにも、ヘイスティングスに到着したばかりのノルマン人兵士たちが、いきなり小山のようなものを築き、その上に木製の城を建築している様子が、描かれています。こうして、ノルマン人征服の後、各地に、住民たちを威嚇するかのように、ぼこぼこと城が建てられていきます。大急ぎで作った最初の頃は木製の城塞であったのが、そのうちに威厳ある石造りのものが建てられ。ロンドン塔(ホワイトタワー)も、ウィリアムが建設を命じた城のひとつです。

バーカムステッドは、ウィリアムの異父弟のロバート(Robert, Count of Mortain)に与えられ、ロバートは1070年ごろ、この地に、まずは木製の城を建設。後に、やはり石の城が築かれる事となります。

バーカムステッド城は、今では残骸しか残っていないものの、いわゆる「モット・アンド・ベーリー城(motte and bailey castle)」の典型とされています。モットとは、バイユータペストリーの描写に見られるような、お子様ランチのライス風の小山で、この頂上に、見晴らしのきくキープ(城塞)が建設されます。ベーリーは塀や堀で取り囲まれた平地。上の地図は、バーカムステッド城の敷地見取り図ですが、下の方の丸い部分がモット、中心部に平たい部分がベイリーで、全体は溝で囲まれているのがうかがえます。

上の写真は、ベイリーから眺めたモットです。昔は、この上に城塞がたっていたわけですが。広場では、地元のママさんたちが、ピクニックを楽しんでいました。

バーカムステッド城は、しばらくは王族の所有でしたが、1155年、ヘンリー2世は、当時はまだ仲良しだったトマス・ベケットに与えており、ベケットは、かなりのお金を注いで、城の増築修復をおこなったようです。ベケットがヘンリー2世と教会のあり方に関して口論に陥った後、1164年には、ヘンリーはベケットから城を再び取り上げています。

1216年、第一次バロン戦争で、内戦状態のイングランド。だめ王ジョンに反対する貴族たちの召喚で、イングランド王座を取るため侵入してきたのは、フランス王太子ルイ(後のルイ8世)。同年の10月に、いきなりジョン王が死んでしまうと、王座を継いだのはわずか9歳のヘンリー3世。厄介者であったジョン王が死んでしまうと、ウィリアム・マーシャルをはじめ、多くの貴族たちが、罪もなく、幼いヘンリー3世に忠誠を誓い、ルイ側についていた貴族たちも、ヘンリー側に寝返りはじめます。この状況下で、ルイは、バーカムステッド城を襲撃し、約2週間に渡る攻城戦の後、城は降参。もっとも、1217年の秋には、ほとんどの貴族がヘンリー側に寝返ったため、ルイはイングランド王座をあきらめ、和平を結び、フランスへ戻ります。

1225年には、城は、ヘンリー3世の弟で、当時のイングランドで一番富裕な人物と称されたリチャード(Richard, Earl of Cornwall)に与えられ、彼が、再び、城に手を加えています。贅沢な居住の場所としても、良く使用していたようで、息子のエドマンドは、この城で生まれ、彼の二人の妻も彼自信も、バーカムステッド城で亡くなっているという事。

次なる城の著名居住者は、エドワード3世の長男の黒太子エドワード(Edward the Black Prince)で、ここは、彼のお気に入りの城のひとつであったそうです。

1495年以降は、おそらく、ほとんど居住される事はなくなり、城は、徐々に朽ちるに任せ、石は、地元の別の建物の建設のために使われたりもされ、現在は、その最盛期の姿からは程遠い廃墟と化しています。


おまけ(バーカムステッドからトリングへのハイキング)

バーカムステッド城跡をのんびり歩き、モットの上から景色を楽しみ、お昼のサンドイッチを食べた後、バーカムステッド駅から北へ一駅のトリング駅までのハイキングへ出発しました。トリング駅は、今年1月のトリング自然史博物館を訪れた際、使用したばかりなのですが。

まずは、電車の線路と並行して北上する運河(グランド・ユニオン・カナル)沿いを歩きます。

とにかく、2月とは思えぬぽかぽかの日だったので、生き物も春だと思ったのでしょう。そろそろ子作りの季節がきたと、2羽のモーヘン(Moorhen、日本語はバン)という水鳥が、水上に足を蹴り上げて戦っていました。領地とメスをめぐっての争いでしょうか。遠巻きに、別のモーヘンがその様子をながめていたのですが、あれが、メスだったのかもしれません。10分ほど眺めていましたが、終わる様子もなく、再び歩きだした時も、まだ水しぶきをあげての闘争は続いていました。

また橋の下では、数えきれないほど多くの小魚が、水の中をゆらゆら揺れて漂っており。

途中から運河を離れ、丘を登り、ナショナル・トラスト所有のアッシュリッジ・エステート(Ashridge Estate)へ入り、ナショナル・トラストの経営するカフェで夕刻のお茶とケーキを楽しみました。いつも思うのですが、ハイキング中は、ほとんど人を見かけないのに、こうしたナショナル・トラストなどの所有する場所のカフェに接近するやいなや、近くに駐車場があるため、いきなり人でいっぱい、賑やかになるのです。カフェの注文カウンターは長蛇の列で、10分ほど待ちました。車社会ですから、電車を使ってハイキング・・・なんていう人はほとんどいないのです。残念な話ですが。

アッシュリッジ・エステートには、2013年に行ったトリングからのチルターン丘陵ハイキングで来ており、このブリッジウォーター記念塔(Bridgewater monument)の前で記念写真を撮ったのですが、今回も再び、アリバイ写真を撮りました。

アッシュリッジ・エステートからオールドベリーを望む 
ここからは、2013年のハイキングと同じく、オールドベリー(Aldbury)という村を通過して、トリング駅へ戻りました。という事で、トリング駅に、ハイキングでお世話になるのは、これで3度目、比較的ロンドンから行きやすく、広々としたチルターン丘陵の景色が好きなので、リピーターとなっています。

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