ドーバーの白い崖

There'll be blue birds over
The white cliffs of Dover
Tomorrow, you just wait and see

There'll be love and laughter
And peace ever after
Tomorrow, when the world is free

ドーバーの白い崖の上空を
青い鳥が飛ぶでしょう
そんな明日を待ちましょう

愛と笑いがもどり
そして、平和がずっと続き
世界が自由になる明日

ドーバーの白い崖と言うと、この歌を口ずさんでしまうという事は、私も半分、イギリスに現地化しているのかもしれません。この「ドーバーの白い崖」(The white cliffs of Dover)を歌ったのは、第2次世界大戦中に国民の恋人と称された歌手ヴェラ・リン。ちなみに彼女は、来年(2017年)の3月には、100歳の誕生日を迎えるそうです。

崖の色の白さの理由は、一帯がチョーク層であるため。(地層について詳しくは、過去、イーストボーンとセヴン・シスターズを訪れた際に書いたポスト「イングランドの白い崖」まで。)

昔々、イギリスとフランスは地続きでした。氷河期の後に、溶けた氷がテムズ川やライン川に大量に流れ込み、ドーヴァーの北側に巨大な湖を形成。やがて、大洪水が、やわらかなチョークの地形をどーんと突き破り、イギリス海峡が誕生。これは、40~10万年前の話だという事。ですから、23マイル離れた、イギリス海峡の向こう側のフランスの海岸の崖も、Cap Blanc Nezと称される、白い崖なのです。持って行った望遠鏡で水平線を見てみると、低く覆いかぶさっていた雲の上に、更なる白い隆起が望めました。あれが、Cap Blanc Nezだったのでしょう。

3500年以上前の船であるDover Boat
その後も、ここよりも北側と現オランダあたり(現北海南部)はまだ地続きであったのですが、紀元前6000年あたりに、水位の上昇により、ついにイギリスは島国となり大陸ヨーロッパから切断。ブレグジット!それでも、イギリスと大陸の距離が一番狭いドーヴァーでは、すでに新石器時代(紀元前4100~2400年)から、イギリス海峡の向かいの地とのやり取りは、行われていたようです。1992年に、青銅器時代(紀元前2400~800年)の船(ドーバー・ボート)が発見発掘されており、海峡間の行き来の証拠とされています。ドーバー・ボートは、紀元前1550年頃のものであるとされ、ドーバーの町の中心のマーケット広場に面し、入り口に観光案内所のあるドーバー博物館で見ることができます。入場無料ですので、この船だけでも一見の価値あり。この手のものでは、世界最古だという事ですので。

さて、地質、地形などの物体的側面から離れ、精神的な面で、ドーバーの白い崖は、イギリスそのものの様な存在。自由の女神がアメリカを代表するよう、故郷から離れていく人、遠い地に住む人、新しくやってくる人にとって、イングランドの白い崖、特にドーヴァーの白い崖は、イギリスなるものを代表するシンボルの感があります。だから、大戦中に、兵士たちが、再び故郷の地に帰るぞ、と思い抱くイメージは、ヴェラ・リンの歌のメロディーと共に、青い空に浮き上がる白い崖という事が多かったのでしょう。

この大切なシンボルを土地開発その他もろもろで無くすわけにはいかんと、イギリスの自然と歴史的建物を保護する慈善団体、ナショナル・トラストが、海岸線の土地を購入し保護しています。海を見ながら、ずーっと崖の上を歩けるようになっているので、ドーヴァー城を訪れた翌朝、チェックアウト後、ホテルに荷物を預け、徒歩で崖の上に登る道を聞いて出発。

上り坂になる前の、道の出だしで、民家の後ろにそびえる崖を仰いで歩きましたが、こんな家に住むのちょっと怖いですね。いつの日か崩れてくるかもしれない。家財保険も高そうだ・・・などと要らぬ心配をし。

崖を登り始め、振り返ると、港と、丘の上にはドーバー城が見えています。まずは、このまま進み、ナショナル・トラストのカフェやギフトショップが入っているヴィジターセンターへと向かいます。

ヴィジターセンターの傍には駐車場もあり、ずるして車で到着した人たちでカフェもにぎわっていました。ここで絵葉書とティータオルを購入。

センターの前から、港にフェリーが出入りする風景をしばしながめ。

海の向こうのフランスのカレーには、何が何でもイギリスに移民をしたい、アフリカや中東からやって来た人たちにより「ジャングル」と呼ばれるキャンプが形成されており、彼らは、日夜、命を張って、イギリス行きのトラックの荷台に潜り込もうと、チャンスを狙っています。彼らにとっては、白い崖の前に、イギリス行きのトラックがイギリスでの新生活を約束するシンボルであるのでしょう。海峡を越えて、イギリスにたどり着いたトラックの運ちゃんたちは、荷台から不法移民が発見されると、責任を問われるので、非常に頭が痛いところ。奇しくもこの日は、この「ジャングル」の存在が疎ましいカレー周辺の農場主たちや、そうしたトラックの運ちゃんによる「ジャングル」への反対運動が繰り広げられていました。私自身が、生活苦と不安定な母国の状況に悩まされていたら、やはりどこかの自由で平和な国で、一からやり直したいと夢見るでしょうから、彼らを一概に責めるわけにはいかない。かといって、先進国がこうして入ってきたい人全員を受け入れていたら、移民の波はとどめが効かず、先進国はその対処と、人口増加にきりきり舞いし、一方、世界の一部は空っぽになり、すたれるばかりという話になってしまう。誰かはしっかりとどまって、一致団結で、母国の発展を助ける必要はあるわけなのですが。この平和な光景からは想像しがたい、移民最前線が、すぐ海峡の向こうで繰り広げられていると思うと、なんとも複雑な気分にさせられます。フランス側では、現在、こうして、イギリスに行きたい移民のキャンプは、フランスが管理するより、海を渡ったイギリスのケント州の海岸線に移すべきだなどという声もあがっているようです。特にブレグジットとなった暁には。ドーバーの白い崖が移民キャンプなんてことになる可能性も・・・あり?

センターから更に歩き続けると、やはりナショナル・トラスト所有の灯台(South Foreland Lighthouse)にたどり着くので、簡単な地図をもらい、「ジャングル」の暗雲を心から一時的に払いのけ、歩き続けます。

地図といっても、海沿いをずっと歩くので、ほぼ迷うことはないのですが。

お日様はかんかん。私もだんなも、帽子を持って行かなかったので、お肌じりじり。センターで購入した水をがぼがぼ。水平線辺りは、ぼやけていますが、これだけの快晴に恵まれ、文句を言ってはいけません。景色を見るとスマイルが出ますし。遠くにかすかに目的地の灯台が見え。

崖っぷちの、こういう所々浸食されている場所を見ると、気が遠くなるような年月が経った後、一帯は、いずれは全て、海にのまれるのだろうなとは感じます。どんなに保護したところで、自然は着々と地形を変えていきますから。その過程の現在の姿を楽しめるうちに楽しむのみ。

途中の扇状にくぼんだ地形のFan Bayには、第2次大戦中、この地に駐屯した兵士たちの宿泊と避難用のトンネル(Fan Bay Deep Shelter)が掘られており、夏の間は、トンネル内を歩くツアーもあるようです。

ついに到着!灯台内には、なかなか良いカフェなどもあるそうなのですが、残念、この日は灯台もろとも閉まっていました。8月も終わってしまうと、オープンする回数も減ってしまうようです。歩いていた人たちは、ほぼ全員、灯台までたどり着くと、ヴィジターセンターの駐車場に戻るべく、来た道を引き返していました。

私たちは更にこの後、やはり同じ海岸線上にあるウォルマー城(Walmer Castle)とディール城( Deal Castle)も見学したかったので、灯台のすぐわきの家に住んでいたおじさんが、たまたま家の前で日向ぼっこをしていたのをつかまえ、ウォルマー城にたどり着くためのバスが出る、一番近いバス停の場所を聞きました。わりと距離あるよ、と言いながら丁寧に教えてくれ、あの辺りは、007を書いたイアン・フレミングも住んでた事があるんじゃ、という情報もくれました。そして、ウォルマー城とディール城だったら、ウォルマー城の方がずっと見ごたえがある、クウィーンマザー(現エリザベス2世のお母さん)も、良く訪れてた城だ、とのこと。ちょっと、ひょうひょうとしたおじさんで、そのうち、顔見知りらしい、通りがかりの別のおじさんも加わり、周辺の噂話などを色々教えてもらい、灯台でのティータイムでは味わえないような、面白いひと時を過ごしました。

バス停にたどり着く途中、セント・マーガレッツ・ベイ(St Margaret's Bay)という海岸に降り立ち、だんなはここで足をちゃぷちゃぷ水に浸していました。やや南向きで、崖により囲まれているため、ちょっとトロピカルな暖かなマイクロ気候を持つ湾で、周辺は、他の場所では育たないような植物も生息するようです。だからイアン・フレミングなども、そばに住んでいたのでしょう。ドーバーの白い崖にはここでサヨナラし、ここから、坂道を登り、200数段あるそれは急な階段をへーへー言いながら登って、バス停へと向かいました。

コメント