ドーバー城
角ばった姿のドーヴァー城 |
かれこれ、20年前に、日本の幼馴染が、だんな連れでイギリスに遊びに来た際に、ロンドン以外で、唯一訪れていた場所がドーヴァーでした。なぜに、ドーヴァーだったのか・・・おそらく彼女のだんなが、第2次世界大戦に興味があり、戦時中の重要な指令地としても使用されたドーヴァー城が見たかった、というのが一番の理由であった気がします。なのに、今の今まで、私も、やはり第2次世界大戦の歴史に興味のあるうちのだんなも、ドーヴァーには一度も訪れた事がなかったのです。
2009年より、ロンドンのセント・パンクロス駅から、ドーヴァーまでは、Javelin(投げ槍)の愛称を持つ、現在、イギリスで一番速いと言われる日立の電車が走っており、直通に乗れば、1時間ほどで着くのです。さすが、日本の電車!これに乗って、2人で、先日、ドーヴァーのプライオリー駅に降り立ちました。ゆっくりと車内でお弁当を食べている時間もなく、ほんとうに、あっという間に到着。ホテルのチェック・インの時間よりも多少早く着いたため、フロントに荷物を預け、道を聞いて、さっそく、城へと出かけました。急な丘を登っていくのは、わりと大変。
ドーヴァー城敷地内にあるローマ時代の灯台 |
ドーヴァー城グレートタワーの屋上から町のある谷とその向こうの西の丘を望む |
ローマの灯台とサクソン時代の教会 |
1066年10月14日、ドーヴァーより南に行ったヘイスティングスの戦いで、イングランド王ハロルドに勝利した、ノルマン人の征服王ウィリアムは、10月21日にドーヴァーへたどり着き、町を燃やし、8日間ドーヴァーにとどまって、防御用の要塞を築く。やがて、ウィリアムは、カンタベリーへ赴き、その後、クリスマスの日に、ウェストミンスター寺院で、イングランド王ウィリアム1世として戴冠するためにロンドンへ。これから約20年後の、1086年の土地台帳(ドゥームズデイ・ブック)には、ドーヴァーには課税の対象となり得るものがほとんど記帳されておらず、ウィリアムによる破壊の度合いがかなりだったのではないかという事。また、ドゥームズデイ・ブックには、ドーヴァー城も記帳されていないそうで、当時、この場にどのような要塞が建てられていたかは定かでないようです。ただし、ドーヴァーの港としての重要さから、町は、王に船と船員を提供する見返りに、いくつかの特権を許されていたと言います。
ドーヴァー城の現在の姿の基盤を作るのは、ヘンリー2世(在位1154~1189)。王の影響力から隔離された、教会と聖職者の持つ特権をめぐり、カンタベリー大司教であったトマス・ベケットと、ヘンリー2世は大喧嘩。結果、1170年、ヘンリー2世に忠誠を誓う4人の騎士によって、ベケットはカンタベリー大聖堂内にて暗殺。死後、瞬く間に、奇跡を起こす聖人として、イングランドのみならず、キリスト教世界全土にその評判が広がり、カンタベリー大聖堂への巡礼者は、ヨーロッパからもわんさと押し寄せるようになるのです。ヘンリー2世が1180年から、イングランド内の他のどの城の建設よりも大きな金額を注ぎ込んで、ドーヴァー城を建設させたのは、このカンタベリー巡礼を目当てに、ヨーロッパからやってくる主賓を迎えるにふさわしい場所を設けるためであったと言われています。フランスにも広大な領土を有していたヘンリー2世ですが、フランスへ出かけるときは、彼はドーバーではなく、ポーツマス、サザンプトンの港から出港しており、またドーバー周辺には狩猟ができ、大量に食用の肉、薪などが確保できるフォーレストも無かったため、王自身と宮廷が長期滞在する場所では無かったようです。いずれにせよ、ヘンリー2世が、フランスで死亡した時(1189年)には、ドーバー城は、まだ完成していません。
ヘンリー2世の時代は、フランスのノルマンディーはイングランドの領土であったわけですが、だめ王であった、ジョン王に至っては、フランスの領土を失ってしまい、イングランド南部の海岸線の対岸が、今までと違って敵国となってしまう。そこで、海岸防御に力を入れる必要が出、ジョン王は、ドーヴァー城の補強にさらなる大金をつぎ込むこととなります。ジョン王に反旗を翻した有力貴族たちにより、イングランドは内戦状態となり、ドーヴァー城も2回ほど、反乱貴族たちに攻められることとなりますが、なんとか持ち応え、その強固さを証明しています。
ジョン王の息子、ヘンリー3世(在位1216-1272)は、イングランドのあちらこちらで、お城やその他もろもろの建設に力を入れた人で、城の全貌は、彼の時代にほぼ完了。
チューダー朝に入り、ヘンリー8世は、イギリス国教会を設立し、フランスからの侵略などが心配となってくると、ドーヴァーを含むイングランド南部海岸線の防御のための建築物を作るのに余念がなく、ドーヴァーから海岸線をやや北上したウォルマー(Walmer)とディール(Deal)にも城を建設。
17世紀に入り、イギリス内戦(ピューリタン革命)が勃発すると、ドーヴァーは1642年に議会軍の支配下に入ります。この時代、多くのイングランドの城が、後であまり使い物にならぬよう、議会側によって、わざと破壊されたのに対し、ドーヴァー城は、この難を免れ、ほぼ無傷で逃げ切ります。
18世紀中ごろまで、城は、ほぼ放置状態であったようですが、1740年から1748年にかけて起こったオーストリア継承戦争で、再び海岸防御の必要性から、城に手がかけられ、更には、1756年の7年戦争、そして、ついには、1793年からフランス革命政府との戦争、そして続けて1815年までナポレオンを相手取った戦争にもつれこむので、この間、最前線の港町ドーヴァーとその城の重要性は上がることとなります。特に、ナポレオン軍が占領してくるのではないかという危機感はかなり強かったでしょうから、時の首相ウィリアム・ピットは、ドーヴァーの町と、ドーヴァー城の補強に、再び大金を費やすこととなります。
このナポレオン戦争の危機が1815年で終わると、城は再び放置状態。そして、20世紀、第一次世界大戦、第二次世界大戦で、活躍を余儀なくされ、やっと戦後、城とその敷地は、歴史的建造物として保存の対象となるのです。ミサイルや核兵器の時代、敵をやっつけるにはボタンひとつですから、昔ながらのお城は引退です。もっとも、冷戦の時代、キューバのミサイル危機などでの核兵器使用の恐れから、ロンドンの中央政府が崩壊した場合に、地方の12の場所に、仮政府を確立できる準備がなされ、地下のトンネルが発達しているドーヴァー城もそのひとつであったそうです。
城のざっとした歴史を書くつもりでいながら、かなり長々となってしまいました。ヘンリー2世が、カンタベリー巡礼を頭に築いた城が、その後、ヨーロッパとの戦争と侵略の危機の度に、拡大拡張を続け、戦争と戦争の間には少々、放置され、とそれを繰り返してきた感じです。城内には、中世の王座や、王様のベッドなどが再現されていますが、やはり、海に向けてあちらこちらに備え付けてある大砲、迷路のように、はりめぐらされた地下道の印象が強く、王様貴族が寝泊りするための場所というより、防御のための城です。
戦時中に使用されたトンネルのある崖 |
ナポレオン戦争の際に、駐屯した兵士たちの寝泊りの場所として、掘られたトンネルが、第2次世界大戦中に、海軍の本拠地として使用されています。イギリス海軍のバートラム・ラムジー(Bertram Ramsay)は、ここで、1940年5月26日から6月3日にかけて行われたダンケルク大撤退(コードネームはオペレーション・ダイナモ )の計画と遂行を行うのです。これは、フランスのダンケルク(英語発音はダンカーク)から、連合軍の兵士たちを、ありとあらゆる船を使って、一時的に、イギリスへ撤退させた作戦。映画「つぐない」(Atonement)を見た人には、その時の、救出を待つ疲れ果てた兵士たちでいっぱいのダンケルクの海岸線の様子が頭に浮かぶかもしれません。この海軍基地のあったトンネルを探索するオペレーション・ダイナモのツアーに参加し、内部を見学しました。というか、ツアーに参加しないと、内部は見れません。
戦時中の病院のあったトンネルの入り口 |
1943年からは、海軍、陸軍、空軍合同の本拠地が、ここに置かれ、トンネルはさらに拡大されます。
海峡を見つめるバートラム・ラムジーの像 |
城のある崖の下は、貨物や車を乗せたフェリーがフランスとイギリスを行きつ戻りつする港の風景。
ドーヴァー城は、イングリッシュ・ヘリテージにより管理経営。現在(2016年)入場料約20ポンドと、高めですが、これだけ見どころがあればいいか、と満足してホテルへ向かいました。
イングリッシュ・ヘリテージのドーヴァー城のページは下のリンクまで。
http://www.english-heritage.org.uk/visit/places/dover-castle/
戦争のときは要所だったのですね。
返信削除その付近で育った夫は 子供の頃は不発弾やらなにやらが海外でいっぱい見つかって
というので年齢詐称かと思ったものですが ^^
数年前、ベルギーの畑か平原で、第一次世界大戦の不発弾が爆発して人が死んだというニュースがあった気がします。その次の日、うちのだんなが、「第一次世界大戦で最後に人が死んだのはいつか」っていうクイズがあったら、「昨日」って事になるのかな、と言っていました。
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