ウォルマー城とディール城

ウォルマー城(Walmer Castle)観光

ドーバーの白い崖の海岸線を北上したところに、ウォルマー城(Walmer Castle)はあります。城の形は、上から見ると、4つ葉のクローバーか、4枚の花弁がある花のような形。円形の中心部から、半月方の部分が4つ突き出しています。

1533年、ヘンリー8世は、スペインのキャサリン・オブ・アラゴンとの結婚を無効とし、カトリック教会と決別。そして、アン・ブリンと結婚。1538年には、ヘンリーはローマ法王から破門され、更には、今までいがみ合っていたフランスとスペインが平和協定を結ぶのです。このため、プロテスタントの王となったヘンリーをやっつけるため、フランス、スペインを初めとするカトリック勢が、イングランドへ侵略を試みるのではないかという不穏な状況にいたります。そこで、ヘンリー8世は、1539年から1543年にかけて、こうした海外からの侵略に備え、イングランドの海岸線防御のため、いくつもの砦を建設。この周辺では、当ウォルマー城とディール城、そして、今は無きサンダウン城が、かなりのスピードで建設されるのです。修道院解散でせしめた金を、この防御用建築物のためにどっぱり使ったのでしょうが、蓋を開けてみると、侵略者たちはやって来ず、ウォルマー城完成のころには、すでに侵略の危機感も薄くなっていたようです。

実際、この城が戦闘を見るのは、外国からの侵略ではなく、17世紀半ば、イングランド内戦(ピューリタン革命)の最中のみ。一応、19世紀前半まで、ウォルマー城に兵隊は駐屯したそうですが、17世紀後半からは、実質上、防御戦闘用の城とは見られなくなります。

砦としてより、居住地としてのこの城の歴史が始まるのは、1708年より、ここが、ドーバー城に代わって、シンク・ポーツ(Cinque Ports)を統括する五港長官(Lord Warden of Cinque Ports)の公邸となってから。(注:シンク・ポーツについては、当記事の最後に説明をしてあります)五港長官として、ウォルマー城に滞在した人々の中でも、特に有名なのは、1792年に任命された、イギリス首相ウィリアム・ピット(小ピット)と、1828年、首相となるとともに、五港長官としても任命されたアーサー・ウェルズリー(ウェリントン公爵)。ウェリントン公爵は、実際、この城で息を引き取っています。ですから、現在、内部は、要塞というより、居心地の良い別荘風。ガーデンも綺麗です。

ウィリアム・ピットが任命された頃には、すでに、五港長官は、こうしてウォルマー城に居住する権利と、年間3000ポンドのサラリーがついてくるという美味しい役目。フランスとの戦争も始まったばかりと、海岸線防備に色々神経を使ったでしょうが、それと共に、ピットは、夏のホリデーをウォルマー城で過ごし、リフォームにも余念なく。特に、1801年に、辞任で、一時首相の座を去っていた間は、春から秋にかけて、ここに居を構えて生活。なんでも、父親を含め、家族にアマチュアでありながら優れた園芸家がいたため、本人も、城の敷地内の造園に熱心であったそうです。上の写真は、城内のピットの書斎。

ピット同様、ウェリントン公爵も、ウォルマー城を大変気に入ったようで、「かつて見た中で、一番魅力的な海辺の館」と称し、毎年8月から10月にかけて、ウォルマー城に滞在。彼が息を引き取った肘掛け椅子も、ウェリントンの部屋に展示されています。彼が、この館で使用していたベッドは、小さな戦場用簡易ベッドで、家でも、こんなのでいいや、と思うところが軍人です。まあ、私も、こんな素敵なお城の中の部屋を自由に使っていいよ、などと言われたら、家具類はこれで十分。その他、城内にあるウェリントン公爵ゆかりの展示物は、彼のデス・マスクや、今や長靴の代名詞となった、かの有名な元祖ウェリントン・ブーツなど。

1852年の9月14日に、ウェリントンが息を引き取ったのち、死体は、約2か月ウォルマー城に留まり、11月9日、10日に、約9000人の周辺住民たちが、英雄の棺を見るため、ウォルマー城を訪れたということ。棺は、その翌日、葬式のため、ロンドンへ電車で運ばれます。ロンドンでも、一般人が棺を見れるよう、7日間、チェルシー・ホスピタルへ設置。この間、押すな押すなの人ごみのため、3人の死者が出ています。ついに、18日にセント・ポール大聖堂で大々的な葬式の後、棺は聖堂内に収められます。この時、大聖堂への道を埋めた人ごみは100万ほどであったそうです。

第1次世界大戦中、やはり五港長官であったアスキス首相は、この城で政治家や軍人たちとの打ち合わせ話し合いなどを行い、当時は海軍の長であったチャーチルも何度か、この城を訪れています。

1917年に、バッキンガムシャー州にある館、チェッカーズ(Chequers)が、持ち主によって、首相が使用できるようにと、国に与えられ、1921年に、ロイド・ジョージ首相がチェッカーズへ移り住むと、ウィリアム・ピット以来、時に、政府や軍事の簡易な会合や打ち合わせの場所として使用されていたウォルマー城の役割がチェッカーズへと移動することとなります。現在でも、海外からの要人を、首相は、時に、チェッカーズにご招待し、インフォーマルなおもてなしなどをしています。

また、第2次世界大戦中は、対岸のドイツ軍の襲撃圏内であったため、ウォルマー城は、使用するには危険すぎたようです。大砲などが備え付けてあるルーフテラスにいる人たちは、今は、ドイツからの襲撃などを心配せずに、のんびり茶をすするのみ。

今や、五港長官と言うのは、ほとんど名誉職的な役柄。現女王、エリザベス2世のお母さん、クィーン・マザーも、一時は五港長官であり、この城を気に入って何度も足を運んだようです。今日でも、ウォルマー城の一部は、夏季、五港長官が滞在し使用するようですが、歴史的物件を展示した城の一部と庭は、こうして、一般公開されています。上の写真は、クィーン・マザーの95歳の誕生日を祝って、1997年に作られたという、クィーン・マザーズ・ガーデン。

城内を見て回った後は、こうしてしばし庭を散策し、

温室の中の変な植物なども見て回り。

この後は、やはりヘンリー8世が建てたディール城を見るために、ウォルマー城を後にしました。受付の女性に道を聞くと、ディール城までは、海岸線をずーっと歩いて行ける、というので。

ウォルマー城を出たのが大体夕方4時。さあ、閉館までに、ディール城にたどり着けるかな。片手に海岸を見ながらひたすら真っすぐ突き進め!

ディール城(Deal Castle)観光

とことこ海岸線を上がって、なんとか閉館前にたどり着きました、ディール城(Deal Castle)。ウォルマー城の四葉のクローバー型と少々違って、ディール城は、花弁6枚のお花が大小2つ重なったような形。

ディール城も、上記の通り、カトリック勢によるイングランドへの侵略が恐れられていた頃、1539~1543年にかけてヘンリー8世が、超特急で作った、海岸線防御のための要塞のひとつです。この際、ケント州のこの周辺に、ディール城と共に建てられた、ウォルマー城とサンダウン城の3つは、約1年で建設されているそうですが、この建築の素早さの理由の一つは、修道院解散によって崩された近郊の修道院とその関係の建物の石や素材をリサイクルして使用したためだとか。足りない部分の石だけを切り出せばよかったので、かなり時間の節約になったようです。

1539年の12月、ヘンリー8世の第4番目の妃となるべくディールに上陸したアン・オブ・クリーブスは、まだ未完であったディール城にてもてなしを受け、その後、一時的にドーバー城へ滞在。そして、グリニッジにあったヘンリー8世の城へと赴くのです。会いしなからお互いに嫌悪感を抱いたようで、すでに翌年の7月に、ヘンリーはアンを離縁。首切られなくて済んで、みっけものです。彼女も、切れやすく、気難しいデブじいさんから離婚されて、ほっとしたことでしょう。

ウォルマー城同様、完成したころにはすでに、カトリック国によるイングランド侵略の懸念も薄れ、実際に戦いを見るのは、約100年後のイギリス内戦(ピューリタン革命)。周辺の城は、すぐに議会派の支配下に入るのですが、1648年に、ウェールズ、エセックス州、そしてケント州にて、議会派への反乱が巻き起こります。王党派は、ディール城、ウォルマー城、サンダウン城の三城にたてこもるものの、やがては議会派により鎮圧。この時の、反乱の引き金となったのは、敬虔なるプロテスタント(ピューリタン)の牛耳る議会派が、クリスマスを祝う事を禁止する令を出したことであったそうです。お祭り好きのイギリス人からクリスマス取っては、まずいでしょー、それは。反乱は、まず、カンタベリーから始まり、ここケント州海岸線三城での攻防戦にも至るのです。

ウォルマー城が五港長官の官邸として使用されるようになった1708年以後、ここも、要塞としてより、城のキャプテンの居住地としての重きが増すようになり、徐々に、住み心地が良いような改善がなされたようです。

もっとも、現在、内部はウォルマー城とは相反して、家具や調度、展示物などはほとんどなく、もっと、要塞であった頃の雰囲気が強い城です。閉館ぎりぎりの5時ちょっと前にたどり着き、30分ほどしか時間がなかったのですが、まあ、それでも、なんとか見て回れましたので。

閉館と共に城を出て、ディールの町の中心からバスに乗り、再びドーバーのホテルへと戻りました。フロントで預かってもらっていた荷物を拾い、電車でロンドンへ帰るべく、ドーバー・プライオリー駅へ。2日間のドーバーの白い崖ハイキングと、ケント海岸の城めぐり、歩きが多く、かなり疲れましたが、充実でした。

シンク・ポーツ(Cinque Ports)と五港長官(Lord Warden of Cinque Ports)

Cinque Ports のCinqueというのは、ノルマン時代のフランス語で「5」の意味。よって、Cinque Portsは「5つの港」。この5つの港は、最初は、ヘイスティングス、ニュー・ロムニー、ハイズ、ドーバー、サンドイッチを指し、これら5つの港と、その他付随する周辺の町や港は、王によって、重要視され、これらの場所は、王が必要な時に船とそれを動かすための人員を供給する代わりに、国税を払う必要がない、自治権が認められる、独自の法体制を持てる、などのいくつかの恩恵が与えられます。中世の終わりには、シンク・ポーツの重要性も衰えていき、こうした特権も無くなるわけですが。

シンク・ポーツの、港と船の人員は、王室により定められた五港長官によって統括され、一番大切な港と見られたドーバーの城が、ウォルマー城にとってかわられるまでは、五港長官の公邸でした。15世紀までには、五港長官の管轄は、南はサセックス州、北はエセックス州まで広がり、その領域の海岸線の軍事も司るようになります。

16世紀になると海軍、17世紀には陸軍が形成されるため、その後は、五港長官の軍事的リーダーとしての要素は無くなり、上記の様に、19世紀後半には、五港長官という地位は、セレモニーのために、名誉職的なものとなり、現在に至っています。

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