ノルマン・コンクエストとバイユー・タペストリー
ヘイスティングスの戦い |
これに勝利したウィリアムは、軍を従え、行く先々を焼きながら、ロンドンへたどり着き、クリスマスの日にウェストミンスター寺院にてウィリアム1世として戴冠。Norman Conquest(ノルマン人の征服)のはじまり、はじまり。これにより、俗に言うアングロ・サクソン時代は終わり、イングランドの民は、ノルマン系フランス語を喋る王様と、数少ないノルマン人エリートにより統治される事となります。
海の向こうのノルマンディーから、ウィリアムがイングランドの王座を要求してやってきたいきさつは、ハロルド2世の前の王、エドワード懺悔王(Edward the Confessor)に子供がおらず、正当な世継ぎがいなかったことに起因します。エドワードの治世中、勢力を誇ったウェセックス伯ゴドウィン(Godwin)に牛耳られ、エドワードは、ゴドウィンの娘のエディスを妻に取っています。妻との間に子供がいなかったのは、エドワードが、キリスト教に熱心で身の純潔を保ちたかったからなどとも言われますが、ゴドウィンへの復讐として、わざと、エディスとは名目上の結婚だけで子孫を作らなかったという説もあります。
エドワード懺悔王 |
父王エゼルレッド2世亡きあと、イングランドの王座についたのは、エドワードの異母兄エドモンド2世ですが、彼は、即位後すぐに亡くなり、続いてイングランドの王様となるのは、スヴェン1世の息子であるデーン人のクヌート。エドワードの母のエマは、なんと、後にクヌートと再婚し、再びイングランドの女王様となるのです。
クヌート亡きあとは、まずはクヌートの最初の妻との息子がハロルド1世としてイングランド王になり、その後に、今度は、クヌートとエマとの間の子、ハーデクヌート(エドワードの異父弟)がイングランド王として君臨。ハーデクヌートは、エドワードを自分の後継者としてノルマンディーから呼び寄せ、ハーデクヌートの後に、エドワードが再びアングロ・サクソン系の王様となるわけです。
自分で書いていても、あまりにもごちゃごちゃとややこしくなってきたので、エゼルレッド2世から、エドワード懺悔王に至るまでのイングランド王を下に整理してみると、
エゼルレッド2世、Ethlred II
在位1回目978-1013、2回目1014-1016
エドワード懺悔王の父、The Unready(無思慮王)のあだ名があり、過去の最悪王の一人と考えられることもしばしば
マルドンの戦いに見るような、度重なるデーン人の侵入に悩まされ、一時、デーン人スヴェン1世に王座を取られる
エドマンド2世、Edmund II
在位1016ー1017
エゼルレッド2世と一番目の妻の息子、エドワード懺悔王の異母兄
クヌートまたはカヌート、Canute
在位1017-1035
デーン人、デンマーク王スヴェン1世の息子
イングランドの風習に合わせ、比較的現地化し、イングランド有力者たち、特にウェッセクス伯ゴドウィンとは親密であり、ゴドウィンが勢力を強める
2度目の妻として、エゼルレッド2世の未亡人エマをとる
ハロルド1世、Harold I
1035-1040
クヌートと一番目の妻の息子
ハーデクヌート、Hardicanute
1040-1042
クヌートと2番目の妻エマの息子、よってエドワード懺悔王の異父弟
エドワード懺悔王、Edward the Confessor
1042-1066
エゼルレッド2世とエマの息子
となります。ちなみに、青字はサクソン人のウェセックス王家。赤字はデーン人の王様。
上記の通り、クヌート王の時代から陰で糸を引いており、エドワード懺悔王も悩まされていた、有力者ウェセックス伯ゴドウィンですが、彼は、1053年に死亡。これにて、ウェセックス伯となるのが息子のハロルド・ゴドウィンソン。1055年には、ハロルドの弟、トスティック・ゴドウィンソン(Tostig Godwinson)は、イングランド北東部ノーサンブリア伯となります。エドワード懺悔王は、ゴドウィンの娘で、ハロルドとトスティックの妹、エディスと結婚しているので、トスティックとハロルドは、エドワードにとって、義兄となります。もともと、ノーサンブリアの貴族たちは、南部出身のトスティックに、ノーサンブリア伯の位が行ってしまったのが面白くなかった上、トスティックの傍若無人な態度に対する反感が爆発、1065年に、ノーサンブリアで反乱暴動がおこり、ハロルドは、事を収めるため、ノーサンブリア周辺の貴族たちと話し合いの上、弟を国内から追放。これが、後に、ハロルドの命取りとなるのですが・・・。
エドワード懺悔王の死 |
案の上、自分が正当なイングランド王座の継承者だと思っていたウィリアムは、成り上がりものにしてやられ、海のむこうで怒りに燃え、イングランド侵略の準備を始めるのです。エドワード懺悔王から、王位継承の約束を受けていたという説のほかに、1064年に、ハロルドがノルマンディーを訪れた際に、ハロルドは、ウィリアムに忠誠を誓っていたという話もあります。この時、ハロルドは、一体何を誓ったのか、というのが議論を呼ぶところですが、ウィリアム側とすれば、ハロルドが、イングランドの王座をウィリアムが継承するのを助けるという誓いも含むと解釈したようです。
いずれにせよ、ウィリアムの侵略も近いと察知したハロルドは、それを迎え撃つ準備をするのですが、タイミング悪く、追放していた、困り者の弟トスティックが、ノルウェー王ハーラル3世と共にイングランド北部に侵入。ハロルドは、大変な速度で、兵を集めながら北上し、侵入軍とヨーク近郊のスタンフォード・ブリッジにて、血みどろの戦い。ここで、トスティックとノルウェー王は戦死し、ハロルドは勝利を収める。このスタンフォード・ブリッジの戦い(Battle of Stamford Bridge)をもって、イングランドへのヴァイキング侵入時代は終焉したとされますが、この戦いが起こったのは、9月25日。ハロルドが勝利にうかれる暇もなく、ウィリアムのノルマン軍が、イングランド南部のサセックス州プレヴェンシー(Prevensey)に上陸するのが9月28日。
ウィリアム上陸の知らせを受けたハロルドは、再び踵を返し、疲れ果てた兵を従え、おそらく途中で兵を補給しながら、南へ移動。10月14日に、ヘイスティングス近郊、現在はバトル(Battle)と呼ばれる場所で、今度は、ウィリアム率いるノルマン軍との戦いに挑むこととなります。実際、スタンフォード・ブリッジの戦いが無ければ、ハロルドが勝っていた可能性は大であったかもしれません。なぜに、疲れているところを、わざわざ大急ぎで取って返したのか、もう少し待って、別の場所でウィリアムと戦いを交わすことはできなかったのか、決戦を急いだハロルドの思惑は、今ではわかりませんが、いずれにせよ、イングランドの関が原となるバトルの平原で、ハロルドは戦死。同時に、サクソン貴族の半分が命を落としたと言われます。ウィリアムは、ウェストミンスター寺院で戴冠の際、自分の継承権の正当化をするが如く、エドワード懺悔王の棺の前で式を行ったとか。
レディング博物館内ヴィクトリア朝のバイユー・タペストリー |
長さは70メートル、高さ50センチ。亜麻地に、8色の毛糸を使用して刺しゅう。1064年から、1066年のヘイスティングスの戦いまでのいきさつを、勝者の目から綴ったもので、ハロルド・ゴドウィンソンが、ノルマンディーに赴き、ウィリアムに忠誠の誓いをたてる様子、懺悔王の死後、すぐに王座についたハロルドの頭上に不吉な彗星が現れる様子、ウィリアムの船出の準備、イングランドに上陸し、即座に簡単な城を建てていく様子、そして最後の戦いと、ハロルドの死、ノルマン人の勝利が縫いこまれています。なんでも、刺しゅうされている馬の数は190頭、犬35匹、その他鳥獣506匹、船37隻、建物33、人間は626人で、そのうち、女性は3人のみ、子供は1人。
ハロルド2世の死 |
本物のタペストリーは、バイユーの美術館に行かないと見れないのですが、ヴィクトリア時代に忠実に作成されたコピーを、先日訪れたレディング博物館で見学してきました。何でも、このコピーは、スタフォードシャー州の刺繡グループのリーダーであった女性が、本物のバイユー・タペストリーを見て、イングランドにもひとつコピーがあるべきではないか、と作成を考案。35人の女性によって、1885年から86年にかけての1年間で仕上げられています。本物の写真を見ながら、色も現物に忠実になるよう、このために、わざわざ8色に染めた毛糸を使用。完成後は、イングランド各地をツアーで回り展示され、アメリカ、ドイツにも持っていかれたそうです。レディングで展示されていた1895年に地元の有力者が、これを購入し、レディングの町に寄贈。1992年に、綺麗にされ、現在の様に展示されるに至ったという事。
レディング博物館 |
尚、下の英語ウィキペディアのページのリンクで、バイユー・タペストリーの最初から最後まで、各セクションごとに描かれている内容を見ることができます。
https://en.wikipedia.org/wiki/Bayeux_Tapestry_tituli
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