レディング修道院跡

去年末に、バークシャー州レディング(Reading)の知り合い宅に出かけ、町の観光は一切せずに帰ったのですが、先日、再び出向き、今回は、レディングの町の中心部を見て回りました。レディングは、テムズ川とケネット川が合流する場所に位置します。昔は、大きな川、特にテムズは、今の重要幹線道路のような役割を果たしたわけですから、便の良い場所であったのでしょう。

1121年に、ノルマン朝第3番目の王様で、征服王ウィリアムの末っ子であった、ヘンリー1世(在位1100~1135年)は、自分の埋葬場所としてレディングを選び、修道院を建築させます。建築に使用された石は、ノリッチ大聖堂同様、はるばるフランスのノルマンディー地方にあるカーン(Caen)で切り出され、イギリス海峡を渡り、川を上って、運ばれてきます。創成期は、ベネディクト修道院を改革したクルニュー派(Cluny)修道院であったようですが、後には、ベネディクト修道院として知られるようになります。ヘンリー1世は、1135年にフランスで息を引き取るのですが、遺体はわざわざイングランドに返され、やはり、ノリッチ大聖堂と同じくらいの大きさであったという、レディング修道院の教会の聖壇前に埋葬された・・・という事になっています。修道院の解散などのその後の歴史を経て、実際、彼の遺体が、今、どこにあるのかは、わかっていません。そのうちに、リチャード3世の骸骨の様に、ある日突然、発掘されることもあるでしょうか・・・。

王様お墨付きの修道院でありましたから、中世のレディング修道院の重要性と富はなかなかのものであったようです。上の写真は、レディング博物館にあった、14世紀の修道院周辺の風景を再現したモデル。手前を流れるのはケネット川。

レディング修道院にあったヤコブの手
レディング修道院は数多くの聖遺物を有したそうですが、その中でも有名なものに、キリスト12使徒の一人であった、ゼベダイの子ヤコブ(英語では、セント・ジェームス、St James)のミイラ化した手があります。ヤコブの遺体は、スペインのサンティアゴ・デ・コンポステーラにて、9世紀に発見されたという事になっているため、スペインの聖人として知られていますが、1133年に、レディング修道院が、この聖人の手をゲットしてからは、レディングでは、ヤコブ人気となり、ヤコブのシンボルであるホタテ貝は、修道院の印などにも使用されるようになり、

近くにある、やはり12世紀に遡る教区教会、聖ローレンス教会の外壁にも、このホタテ貝の紋章を掲げる天使の彫り物を見ました。

ヘンリー8世の修道院解散の嵐が吹き荒れる中、修道院の坊さんたちは、この大切な聖人の手を鉄の箱に収め、修道院の壁の中に埋め隠したそうです。その後、その存在は、すっかり忘れられ、1786年、レディング牢獄建設のために、周辺の地を掘り起こしていた労働者の一人により、たまたま発見されることとなります。手は、現在は、バッキンガムシャー州マーローにあるカソリックの教会により保存されているという事。(上に載せたヤコブの手の写真は、レディングの地方紙のサイトより。)

修道院の床のタイル
修道院自体の歴史に話を戻すと、ヘンリー8世の修道院解散に対して抵抗を示したレディング修道院、最後の修道長ヒュー・ファリンドン(Hugh Farringdon)は、反逆罪に問われ、修道院の敷地内で、極刑(絞首、内臓裂き、4つ切りの刑)。修道院内の教会は、朽ちるに任せ、外側を覆っていた立派なカーンの石は、他の建造物のために、ほぼすべて、再使用されてしまい、今、修道院跡にあるのは、壁の内部を形成していた、ごろごろ石のみ。内部の彫像、床タイルの一部などは、レディング博物館で見ることができます。

解散後、修道院内の修道僧たちの居住場は、一時的に王宮として使用され、

レディング博物館蔵、エリザベス女王の肖像
エリザベス女王のお気に入りの宮殿でもあったと言います。

残っていた修道院の建物も、イングランド内戦(ピューリタン戦争)では、大砲などの破壊被害も受け、ますますぼろぼろとなり。修道院跡地は、現在、修正作業が行われ、内部に入れないようになっており、壁にも近づけないのですが、これは来年(2018年)に再オーブンして綺麗な姿でお目見えするようです。

上の写真は、修道院の僧たちの生活場の入り口の門であったアビー・ゲイトウェイ。ここには、1785年から86年にかけて、当時9歳のジェーン・オースティンが、姉のカッサンドラと共に学んだ寄宿学校であるアビー・スクールがあったのだそうで、幼い彼女もこのあたりを徘徊したのでしょう。ひとつの部屋につき6人の女の子たちが寝泊まりし、授業は午前中のみで、内容は針仕事と、綴りの練習と、フランス語。今一つの内容だったのか、1年で二人は去っています。

また、修道院跡地東側に隣接するレディング牢獄(Reading Goal)は、1895年から2年間、オスカー・ワイルドが投獄された場所として有名で、彼は投獄中の記憶を、最後の作品となる「レディング牢獄の哀歌、The Ballad of Reading Gaol」という詩に歌っています。牢屋としては、2013年に閉鎖。今後、この牢獄の建物は、アパートなどに改造されるという話を聞いていますが、ワイルドの詩にも描写されているよう、かつては処刑も行われていた場所ですので、お化けでもでそうですね。

修道院跡地の西側に隣接する公園は、フォーベリー・ガーデンズ(Forbury Gardens)。かつては、修道院の僧たちと町民が会合をする場所で、市場もたち。

公園内の小さな丘(Forbury Hill)は、ヘンリー1世の娘マチルダと、マチルダの従弟スティーブンがイングランドの王座をかけて争った内戦中に、修道院防衛のために築かれたのではないかと言われています。更に、17世紀の内戦(ピューリタン革命)の最中には、この丘の上に大砲が設置されたようです。公園として一般に開放されるのは、19世紀後半。

ヘンリー1世への記念碑なども立っています。

フォーベリー・ガーデンズの西には、12世紀後末に創設された、Hospitiumと称される、修道院への巡礼者を宿泊させた建物の一部が残っています。レディング博物館は、このすぐ裏手にありますので、修道院跡地を訪れた後に、上に載せたエリザベスの肖像や、修道院のタイルなどを見学できます。・・・そして、何より、この博物館の目玉展示品は、ノルマン人征服の物語りを刺しゅうで綴ったバイユー・タペストリー(Bayeux Tapestry)の、ビクトリア時代に作成された忠実なコピー。バイユー・タペストリーに関しては、後日、また別のポストで書くことにします。(こちらまで。

それにしても、前回訪れた時は、何もない町と鼻であしらったレディング、ちゃんと調べて、じっくり歩き回れば、丸々一日、楽しく過ごせる見どころは沢山あるものです。

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