ウェスト・スミスフィールドの歴史と食肉市場

スミスフィールド食肉市場
先日、当ブログで紹介した、バーソロミュー・フェアが開かれていた場所に現在あるのは、大規模卸売食肉市場のスミスフィールド市場(Smithfield Market)。市場で売買が始まるのは、早朝2時とあって、盛んに取引が行われている内部を見学したい人は、朝の7時までに繰り出す必要があるようです。

市場を含む、この周辺の名称であるスミスフィールドの「smith」 は、もとは、アングロサクソンの言葉で、「滑らかな、平らな(smooth)」を意味したという「smeth」から来たもの。よって、「滑らかな原っぱ Smooth Field 」を意味することとなります。厳密には、この場は、ウェスト・スミスフィールドと呼ばれ、ロンドン塔の東側には、イースト・スミスフィールドと称された、やはり平らな広場が存在したようです。

昔は、ロンドン(現シティー・オブ・ロンドン)を囲む壁の西側すぐ外に位置し、便もよく、平らで広々したウェスト・スミスフィールドは、催しや、お祭りを行うのにもってこいだったのでしょう。中世には、数々のトーナメントなどが行われる場所であり、現代ならば、ロック・コンサートが催されるような場所であったのかもしれません。上記の通り、年に一回のバーソロミュー・フェアが開催されたのもここですし。

時にこうした催し物が開催される他にも、週に2回、イングランドで最も有名な家畜のマーケット(市場)が開かれる場所として知られるようになります。輸送手段が他になかった時代には、田舎から、drover(牛追い)たちが、羊や牛の家畜の群れを従えて、この市場へやって来ていたのです。その影響で、周辺には屠畜場や肉屋などもでき。この牛追いたちは、途中の草原で家畜たちを太らせながら、はるばるウェールズなどからも、何日もかけてスミスフィールドへ。

フェアや、お祭り騒ぎ、マーケット以外の、スミスフィールドの、ちょいとおどろおどろしい側面は、多くの処刑が行われてきたこと。もっとも、昔の処刑は、見世物の面もあり、物見高い庶民が繰り出して行くものでもあったので、基本的に、一種のお祭りと同じ・・・などという見方もありますが。

スミスフィールドで処刑された人間の中で、おそらく一番有名な人物は、イングランドのエドワード1世の厳格なスコットランド統治に対して果敢に戦った、スコットランドの英雄、ウィリアム・ウォレス(ブレーブハート)。食肉市場の南側にある、セント・バーソロミュー病院の外壁には、1305年8月23日に、イングランドに捕らわれ、処刑された、ウォレスの記念碑があります。スコットランドの旗などが飾ってあるので、すぐわかります。彼は、現国会議事堂内にあるウェストミンスター・ホールで裁判を受け、ホール内部には、彼がこの時に立った場所にプラークが貼られています。有罪が決まると、謀反人として、この場へ、引きずってこられ、Hanged, Drawn and Quartered(死なない程度に首を吊った後、生きたまま内臓を取り出し、体を4つに割る、首と割られた体は、見せしめのため、あちこちにさらされる)と称される反逆罪の際の極刑にあって最後を遂げるのです。「ブレーブハート」の映画の最後の方のシーンでも見せていましたが。メル・ギブソン扮するウィリアム・ウォレスが、生きたまま、腹を割かれながら、「フリーダ~ム!」と叫ぶ、あれです。実際に「フリーダム」と叫んだかどうかは知りません。

これは、ウィリアム・ウォレスの処刑700周年の2005年に、近くのセント・バーソロミュー・ザ・グレート教会にて、彼のために行われた礼拝を記念するプラーク。この700周年には、ウォレスの最後の道を辿って、ウェストミンスター・ホールからスミスフィールドまで、何千人ものスコットランド出身の人たちが歩いたとあります。

やがて、カソリック信者であったブラディー・メアリー、ことチューダー朝のメアリー1世の時代には、200人ものプロテスタント信者が、この場で火刑となります。おどろ、おどろ。

その他、特記すべき、ウェスト・スミスフィールドで起こった歴史的事項は、ワット・タイラーが、時のロンドン市長、ウィリアム・ウォルワースによって傷を負わされ、後に斬首された場所である事。ワット・タイラーは、1381年に、フランスとの百年戦争の資金繰りのため、貧富の差を問わずに国民から一律に課税する、人頭税が導入された事を引き金に起こった百姓一揆のリーダー。ウェスト・スミスフィールドで、まだ14歳の少年王リチャード2世に謁見。最初は、話し合いはスムーズに進んでいるかに見えたのが、そのうち雲息が怪しくなり、ついには、ワット・タイラーは、王と共に居合わせたウィリアム・ウォルワースにより、切りかかられ負傷(上の絵、左手下)。ワット・タイラーは、負傷しながらも、一時は、その場を逃れたものの、再び引き戻され、斬首。その首はロンドン橋へさらされ、リーダーを無くした反乱は、散る事となります。

さて、長く続いてきたスミスフィールドでの家畜市場も、ロンドンの拡大と共に、周辺の住宅と人口が増え、また各地から運び入れられる家畜の数も増え、18世紀も終わりになると、統制がとれなくなってきます。数限りない牛や羊がめーめー、むーむー、ロンドンの狭い通りを歩き回る様子は確かに、混沌。その上、屠畜場から出る家畜の内臓や血の処理も、まともになされず、周囲は悪臭に満ち、牛追いたちが飲んで醜態をさらすなどもあったようで、バーソロミュー・フェア同様に、うるさい、汚い、治安が悪いとの苦情も増えていきます。

英語で、

a bull in a china shop
瀬戸物屋内の牡牛

という表現があります。これは、瀬戸物屋の中を歩き回って、がちゃがちゃと陶器を壊してしまう牡牛のような、「粗忽者」を意味します。語源は定かではないとされながらも、スミスフィールドの家畜市場で、牛などが、通りにある店に乱入して、内部をぐちゃぐちゃにしてしまったことに由来するのではないか、などという意見もあるようです。

最終的に、1853年には、家畜市場は、ここより更に北部のイズリントンへ移動させる法令が出ます。1855年には、バーソロミュー・フェアも終焉。

そして、がらーんとなったスミスフィールドに、1866年に、ホラス・ジョーンズ(Horace Jones)による設計で、スミスフィールド食肉市場の建物建設が開始、1868年にオープン。スミスフィールド食肉市場は、タワー・ブリッジ、テンプル・バー記念碑の設計者として知られる、ホラス・ジョーンズのロンドンでの初仕事となります。広々とした、鉄の大聖堂のような趣の建物。

市場への最寄り駅はファリンドン(Farringdon)駅ですが、鉄道の開通とともに、家畜、食肉を含む物資の移動の便が画期的に上昇し、市場の地下には、鉄道を使って運び込まれた肉を荷下ろしし、貯蔵する広大な場所が設けられてあったのだそうです。現在ファリンドン駅は、ロンドンの東西を繋ぐクロスレールという新しい路線の建設で大幅な改造拡大中。

ロンドン博物館の新しい住処
スミスフィールド食肉市場の西側に、やはりホラス・ジョーンズによる設計で、ジェネラル・マーケット(一般市場)と称された野菜等を販売するための室内マーケットが建てられるのですが、現在、この建物は、使用されず放置状態。これが、大改造され、現段階では、バービカンにあるロンドン博物館が、2021年に、移動しオープンする予定になっています。一つの都市の歴史を紹介する博物館としては、世界最大規模と言われるロンドン博物館。クロスレール建設や、シティーの新しい建物建設により、土地を掘り起こすことで、更に過去の発掘物コレクションも増えているようですので、新しいおうちに移るのはタイムリーかもしれません。更には、歴史ある建物への移動ですし、私も完成を楽しみにしています。

*ロンドン博物館移動に関する記事は、下まで。最後のジェネラル・マーケットの写真も、この記事より拝借。
https://www.theguardian.com/culture/2016/may/20/museum-of-london-to-relocate-to-smithfield

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