ウェストミンスター寺院訪問
ロンドンの東にある教会(イーストミンスター)であるセント・ポール大聖堂(St Paul's Cathedral)に対し、西にある教会、ウェストミンスター寺院(Westminster Abbey)。上から見ると十字型をしており、長い軸は東西に、横軸は南北の方角にあわせてあります。ウィリアム1世より、イングランド王者の戴冠の場所であり、過去17人のイングランドの王女王の眠る場所。(最後にここに埋葬された王は、ジョージ2世。)
沼地だったこの場所に、最初に教会が建てられたのはいつか、というのは、諸伝説があり、はっきりせぬものの、とりあえずは、960年に12人のベネディクト派の僧たちの祈りの場となった事はわかっているようです。
現寺院の大元となるのは、11世紀、エドワード懺悔王により建てられたもの。教会が開かれた1065年の12月には、エドワードは病気で参加できず、その数日後には息を引き取るため、おニューの教会はさっそく、彼の埋葬の場となります。翌年1066年は、ご存知ノルマン人征服の年ですから、ヘイスティングスの戦いで勝利を収めた征服王ウィリアムは、同年のクリスマスの日、イングランド王ウィリアム1世として当教会で戴冠。
後、エドワード懺悔王をあがめていたというヘンリー3世が、更に立派な教会にしようと、ゴシック形式にて、大々的に教会の改築を行います。この着工は1245年だそうですが、ヘンリー3世の存命中には終わらず、建物は後の世代、徐々に手を加えられていきます。富裕層からの寄付金も受け、建設は、止まったり、始まったりとゆるゆるすすみ。時代と共にあちらこちら壊したり付け直したり。大体、現在の形になったのが、18世紀半ばで、上の写真に写した、今では、ウェストミンスター寺院と言うと、このイメージの、西塔が、ニコラス・ホークスモアの設計により完成するのは1745年の事。こうした教会も、長い時間をかけて、まるで生物の進化のように、姿を変えていくこと、非常に多い感じです。
また、その過程で、中世は修道院でもあったものを、ヘンリー8世のローマ法王との決別に端を発する修道院の解散で、一時修道院ではなくなり。それが、カソリックの女王メアリー1世の時代には修道院に戻され、次のエリザベス1世が、再び、修道院から教会へと戻し。そして内戦(ピューリタン革命)中は、質素をよしとするピューリタンの議会派により、教会内部の、(彼らから見ると)不必要で豪華すぎる物は破壊の憂き目を見。また、第2次世界大戦中には、ドイツ軍の空爆により、セント・ポール大聖堂同様、倒壊は免れたものの、多少の被害を受けています。この後の、内部の大掃除は1960年代まで続いたという事。
*****
さて、実に久しぶりに、この寺院の内部に足を踏み込んできました。20年以上ぶりです。初めて、イギリスに訪れて、ロンドンの観光で、最初に入った場所のひとつ。以来、そばは通れど、中を見る事をせずに時が経ちました。
数年前に知り合いが訪れて、入場料が高いと嘆いていたのは覚えていたのですが、実際、大人16ポンドになっていたのには、少々おののきました。それでも、イギリス国教会総本山のカンタベリー大聖堂が、資金不足で、建物にぼろがきている、という話も聞いたことがあるし、貴重な国家遺産のみならず世界遺産のこの建物も、メンテ代は莫大なものでしょうから、寄付のつもりで。それに、マダム・タッソー蝋人形館のようなアトラクションに、高い入場料を払うなら、こちらに何回も足を踏み入れた方が良いと個人的には思うのです。ちなみに、お祈りをするなど、信仰の理由で入るのは無料だと言う事ですが、金を払わず済むように、キリスト教信者を装って入ろうだなんて、けちな計画をねるのは、やめましょう。
内部はカメラ禁止。ある意味では、写真を撮るのに気を取られずに済むので、じっくり見るのに専念できます。それに、16ポンドも払ったのだから、徹底的に見てやれ、という貧乏根性も働くのです。
入り口を入ってすぐのところで、オーディオガイドと、内部の地図を手渡してもらい、いざ、観光スタート。日本語のガイドもあると思いますが、英語のオーディオガイドを選ぶと、案内の声は、俳優のジェレミー・アイアンズでした。私が、はじめてイギリスで見たお芝居は、この人が主役の、「リチャード2世」だったので、とても思い入れのある俳優です。リチャード2世の遺体も、当寺院内に眠っています。
オーディオ・ガイドに従って、十字型の内部と、外のクロイスターをゆっくりと一周。
まだ、観光のハイシーズンでも無いのですが、内部は観光客でにぎわっていました。ここで予定されている、ウィリアム王子とケイト・ミドルトンの結婚式が観光にも一役買っている?
王者達の他、多額の寄付をしたため、当教会内に埋めてもらったあまり名の知れない富裕者たちの立派な記念碑もあり。もちろん、政治家、科学者、作家、音楽家達・・・きら星のごとき、多くのイギリスの著名人達の永眠の場所でもあり。誰が埋められているかは、あらゆるガイドブックに書かれていると思うので、ここではわざわざ列挙しませんが。
シャークスピアは、上の写真の、詩人コーナーに像はあるのですが、遺体は、故郷のストラトフォード・アポン・エイヴォンに埋葬されています。なお、一番最初に、この詩人コーナーに埋葬された文学者は、「カンタベリー物語」のジェフリー・チョーサー(1400年没)ですが、彼は文学者としてより、近くのウェストミンスター宮殿で役人として勤めたため、この教会内部に埋葬されたようです。その約200年後、16世紀の詩人エドマンド・スペンサーが、崇拝するチョーサーの側に埋葬されたいという願いから、やはりこの場に埋葬された事がきっかけとなり、この一角は多くの文学者達が眠る場になります。
圧巻は、上の写真の、教会東端に位置するヘンリー7世時代のレイディー・チャペルでした。息を飲むほど繊細な天井は石でできているとは思えない。きのこ類のかさの中を覗くような、触るとやわらかそうで有機的な感じがするのです。チューダー時代の最高の建築物と呼ばれただけはあるのです。
オリバー・クロムウェルも一度は、大々的なセレモニーと共に、当チャペルに埋葬され、床に名が彫ってあるものの、王政復古後に、その遺体は掘り出され、死体は頭を切られ、頭と体は別々の場所でさらしものに。体はどこかの穴に放り投げて捨てられたものの、頭は、かなり長い間ロンドン内にさらされた後、点々と人手に渡り、やがて1960年にケンブリッジに埋められたということ。死後も波乱万丈の人です。
このチャペルを挟む様に、北側に眠るは、腹違いの姉妹女王、メアリー1世とエリザベス1世、南側に眠るは、エリザベス1世により斬首刑となるジェームズ1世の母、メアリー・スチュアート。
目玉のひとつに、エドワード1世が、スコットランドから略奪してきた、スコットランド王代々の戴冠に使われた石、ストーン・オブ・デスティニー(運命の石)を収めるために、1301年に作らせた戴冠式用の椅子があります。同じ目的で使われ続けるイギリス内で最も古い家具・・・(家具って言うんでしょうかね、こういうの)。現在、この戴冠の椅子は、修復作業中で、出口のすぐ脇のガラスで仕切られた小部屋で、修復のお姉さんが、作業をしているのが見れました。ちなみに、ストーン・オブ・デスティニーは、1996年に、スコットランドに返還されています。これは、エディンバラ城を訪れた際、見ることができました。次回の戴冠式には、この石、セレモニーのため、再びウェストミンスター寺院に一時戻されると言う事です。
教科書で習う、いわゆるイギリスの歴史が、これほど一箇所に凝縮されている場所は無いのではないかという気がします。やはり、ロンドン観光には、真っ先に見るべきところ、見る価値あるところだと思う次第です。私も、また数年経ったら再び訪れてみるかもしれません。
自分で写した一番上の写真以外、内部の写真は全て、ウェストミンスター寺院オフィシャルサイトより拝借しました。
沼地だったこの場所に、最初に教会が建てられたのはいつか、というのは、諸伝説があり、はっきりせぬものの、とりあえずは、960年に12人のベネディクト派の僧たちの祈りの場となった事はわかっているようです。
現寺院の大元となるのは、11世紀、エドワード懺悔王により建てられたもの。教会が開かれた1065年の12月には、エドワードは病気で参加できず、その数日後には息を引き取るため、おニューの教会はさっそく、彼の埋葬の場となります。翌年1066年は、ご存知ノルマン人征服の年ですから、ヘイスティングスの戦いで勝利を収めた征服王ウィリアムは、同年のクリスマスの日、イングランド王ウィリアム1世として当教会で戴冠。
後、エドワード懺悔王をあがめていたというヘンリー3世が、更に立派な教会にしようと、ゴシック形式にて、大々的に教会の改築を行います。この着工は1245年だそうですが、ヘンリー3世の存命中には終わらず、建物は後の世代、徐々に手を加えられていきます。富裕層からの寄付金も受け、建設は、止まったり、始まったりとゆるゆるすすみ。時代と共にあちらこちら壊したり付け直したり。大体、現在の形になったのが、18世紀半ばで、上の写真に写した、今では、ウェストミンスター寺院と言うと、このイメージの、西塔が、ニコラス・ホークスモアの設計により完成するのは1745年の事。こうした教会も、長い時間をかけて、まるで生物の進化のように、姿を変えていくこと、非常に多い感じです。
また、その過程で、中世は修道院でもあったものを、ヘンリー8世のローマ法王との決別に端を発する修道院の解散で、一時修道院ではなくなり。それが、カソリックの女王メアリー1世の時代には修道院に戻され、次のエリザベス1世が、再び、修道院から教会へと戻し。そして内戦(ピューリタン革命)中は、質素をよしとするピューリタンの議会派により、教会内部の、(彼らから見ると)不必要で豪華すぎる物は破壊の憂き目を見。また、第2次世界大戦中には、ドイツ軍の空爆により、セント・ポール大聖堂同様、倒壊は免れたものの、多少の被害を受けています。この後の、内部の大掃除は1960年代まで続いたという事。
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さて、実に久しぶりに、この寺院の内部に足を踏み込んできました。20年以上ぶりです。初めて、イギリスに訪れて、ロンドンの観光で、最初に入った場所のひとつ。以来、そばは通れど、中を見る事をせずに時が経ちました。
数年前に知り合いが訪れて、入場料が高いと嘆いていたのは覚えていたのですが、実際、大人16ポンドになっていたのには、少々おののきました。それでも、イギリス国教会総本山のカンタベリー大聖堂が、資金不足で、建物にぼろがきている、という話も聞いたことがあるし、貴重な国家遺産のみならず世界遺産のこの建物も、メンテ代は莫大なものでしょうから、寄付のつもりで。それに、マダム・タッソー蝋人形館のようなアトラクションに、高い入場料を払うなら、こちらに何回も足を踏み入れた方が良いと個人的には思うのです。ちなみに、お祈りをするなど、信仰の理由で入るのは無料だと言う事ですが、金を払わず済むように、キリスト教信者を装って入ろうだなんて、けちな計画をねるのは、やめましょう。
内部はカメラ禁止。ある意味では、写真を撮るのに気を取られずに済むので、じっくり見るのに専念できます。それに、16ポンドも払ったのだから、徹底的に見てやれ、という貧乏根性も働くのです。
入り口を入ってすぐのところで、オーディオガイドと、内部の地図を手渡してもらい、いざ、観光スタート。日本語のガイドもあると思いますが、英語のオーディオガイドを選ぶと、案内の声は、俳優のジェレミー・アイアンズでした。私が、はじめてイギリスで見たお芝居は、この人が主役の、「リチャード2世」だったので、とても思い入れのある俳優です。リチャード2世の遺体も、当寺院内に眠っています。
オーディオ・ガイドに従って、十字型の内部と、外のクロイスターをゆっくりと一周。
まだ、観光のハイシーズンでも無いのですが、内部は観光客でにぎわっていました。ここで予定されている、ウィリアム王子とケイト・ミドルトンの結婚式が観光にも一役買っている?
王者達の他、多額の寄付をしたため、当教会内に埋めてもらったあまり名の知れない富裕者たちの立派な記念碑もあり。もちろん、政治家、科学者、作家、音楽家達・・・きら星のごとき、多くのイギリスの著名人達の永眠の場所でもあり。誰が埋められているかは、あらゆるガイドブックに書かれていると思うので、ここではわざわざ列挙しませんが。
シャークスピアは、上の写真の、詩人コーナーに像はあるのですが、遺体は、故郷のストラトフォード・アポン・エイヴォンに埋葬されています。なお、一番最初に、この詩人コーナーに埋葬された文学者は、「カンタベリー物語」のジェフリー・チョーサー(1400年没)ですが、彼は文学者としてより、近くのウェストミンスター宮殿で役人として勤めたため、この教会内部に埋葬されたようです。その約200年後、16世紀の詩人エドマンド・スペンサーが、崇拝するチョーサーの側に埋葬されたいという願いから、やはりこの場に埋葬された事がきっかけとなり、この一角は多くの文学者達が眠る場になります。
圧巻は、上の写真の、教会東端に位置するヘンリー7世時代のレイディー・チャペルでした。息を飲むほど繊細な天井は石でできているとは思えない。きのこ類のかさの中を覗くような、触るとやわらかそうで有機的な感じがするのです。チューダー時代の最高の建築物と呼ばれただけはあるのです。
オリバー・クロムウェルも一度は、大々的なセレモニーと共に、当チャペルに埋葬され、床に名が彫ってあるものの、王政復古後に、その遺体は掘り出され、死体は頭を切られ、頭と体は別々の場所でさらしものに。体はどこかの穴に放り投げて捨てられたものの、頭は、かなり長い間ロンドン内にさらされた後、点々と人手に渡り、やがて1960年にケンブリッジに埋められたということ。死後も波乱万丈の人です。
このチャペルを挟む様に、北側に眠るは、腹違いの姉妹女王、メアリー1世とエリザベス1世、南側に眠るは、エリザベス1世により斬首刑となるジェームズ1世の母、メアリー・スチュアート。
目玉のひとつに、エドワード1世が、スコットランドから略奪してきた、スコットランド王代々の戴冠に使われた石、ストーン・オブ・デスティニー(運命の石)を収めるために、1301年に作らせた戴冠式用の椅子があります。同じ目的で使われ続けるイギリス内で最も古い家具・・・(家具って言うんでしょうかね、こういうの)。現在、この戴冠の椅子は、修復作業中で、出口のすぐ脇のガラスで仕切られた小部屋で、修復のお姉さんが、作業をしているのが見れました。ちなみに、ストーン・オブ・デスティニーは、1996年に、スコットランドに返還されています。これは、エディンバラ城を訪れた際、見ることができました。次回の戴冠式には、この石、セレモニーのため、再びウェストミンスター寺院に一時戻されると言う事です。
教科書で習う、いわゆるイギリスの歴史が、これほど一箇所に凝縮されている場所は無いのではないかという気がします。やはり、ロンドン観光には、真っ先に見るべきところ、見る価値あるところだと思う次第です。私も、また数年経ったら再び訪れてみるかもしれません。
自分で写した一番上の写真以外、内部の写真は全て、ウェストミンスター寺院オフィシャルサイトより拝借しました。
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