お江戸のシャーロック・ホームズ、半七捕物帳

初めて「半七捕物帳」を書こうと思いついたのは、大正5年(1916年)4月頃と覚えています。そのころ私は、コナン・ドイルのシャアロック・ホームズを飛び飛びには読んでいたが、全部を通読したことがないので、丸善へ行ったついでに、シャアロック・ホームズのアドヴェンチュアとメモヤーとレターンの三種を買って来て、一気に引きつづいて3冊読み終わると探偵ものに対する興味が悠然と沸き起こって、自分もなにか探偵ものを書いてみようという気になったのです。(中略)

いざ、書くという段になって考えたのは、今までに江戸時代の探偵物語というものがない。大岡政談や板倉政談はむしろ裁判を主としたものであるから、新たに探偵を主としたものを書いてみたら面白かろうと思ったのです。もう一つには、現代の探偵物語をかくと、どうしても西洋の模倣に陥り易い虞れがあるので、いっそ純江戸式に書いたらば一種の変わった味のものが出来るかも知れない思ったからでした。幸いに自分は江戸時代の風俗、習慣、法令や、町奉行、与力、同心、岡っ引きなどの生活に就いても、一通りの予備知識を持っているので、まあ何とかなるだろうという自信もあったのです。

岡本綺堂「半七捕物帳の思い出」(1927年)より

綺堂が丸善で買ったという、The Adventures of Sherlock Holmes、 The Memoirs of Sherlock Holmes、 The Return of sherlock Holmesの三冊の短編集は、それぞれ書かれたのが、1892,1893,1904年、更には、ホームズ物は、1920年代まで書き続けられているので、彼は、ほぼリアルタイムでこうしたものを読んでいたわけです。英語ができたというので、オリジナルを読んだのか、すでに翻訳されていたのかは、わかりませんが、アドヴェンチュアなどとカタカナで書いている所をみると、英書を買ったと想像します。

岡本綺堂という作家の作品としては、私は、「修善寺物語」という戯曲しか知りませんでした。それというのも、母が、女学生の頃に、学校で、その登場人物中の姉娘の役をやり、大人気だったと、耳にタコができるまで聞かされていたためです。

ごく最近になってようやく、綺堂のお江戸の探偵もので、捕り物帳の元祖とされる、この「半七捕物帳」を読んでみようと思い立ちました。これがまた面白く、全69話の短編(うち最後の一話のみ中編)をあっと言う間に読み切りました。ホームズは、「緋色の研究」を含む長編4作の他、やはり全て短編で、私がこれを英語で一つ残らず読んだのは、イギリスに来てからでした。そうした多種多様のホームズの冒険を、次から次へと読めてしまうような感覚で、半七も芋づる式に読み進めました。ホームズ同様、事件の展開や筋立てにちょっと無理があると思えるようなものもありますが、何と言っても、時代背景と世相、社会、当時の人々の生き方などが興味深い。また、半七や子分たちの江戸っ子弁も小気味がいい。ホームズなども、ベネディクト・カンバーバッチの現代に置き換えたものに、今一つ夢中になれないのは、私がその面白さの半分が時代背景にあると思っているからでしょう。

残念なのは、ホームズがワトソンと闊歩した時代のロンドンの面影は、二人が出会ったとされる聖バーソロミュー病院なども含め、現在でもあちらこちらに見出せるものの、半七が十手を持って走り回った江戸は、ほぼ消えてしまっている事ですね。一度、捕り物中に、半七が飛び込む羽目になった不忍の池のあたりや、浅草界隈が、一番、まだ面影が追える場所でしょうか。まあ、ある意味、消えてしまった江戸であるからこそ、余計、こういう物語が今も残っており、在りし日の江戸を記録していてくれ、読むものの頭に浮かび上がらせてくれるのが有難いわけです。

明治もかなり経ってから、とうの昔に引退して、赤坂に隠居している半七老人を、「私」と称する語り手が足しげく訪れ、そのたびに、半七が神田の三河町の岡っ引きとして活躍した際の色々な探偵談を聞くという形式になっています。ですから、半七が活躍したのは、江戸も終わりに近い、幕末、それを明治から振り返って語るという設定になっていて、その両方の急変した社会状況もうかがえます。例を挙げれば、昔は汽車もなく、ちょっとした川崎やら、横浜に行くのも一苦労。箱根などには、江戸からはみな、一生に一度くらいしか行かなかったなどのような。また、明治に自転車流行りだしてから、自転車にひかれる子供たちが多くなったのような記述もありました。「今から30年も前ですから、あのころは、こーでした、あーでした」と時に半七老人は語るのですが、文明開化を隔てての30年前ですから、それは違うでしょうねえ。ふと、現在(2021年)から30年前を考えると、インターネットもスマホもありませんでした。文明開化とインターネットという大型ジャンプの前後は、どちらの方が大きな社会の変化があったか、と考えて見るのも一興です。

また、コロナ感染の爆発で、医者には満足に行けない、歯医者にも行けない、普通の店も開いてない、電車も怖くて乗れない、というイギリスの現状下でこれを読むと、今から考えると不便極まりない生活を送る、江戸の庶民への共感も強くわき、それなりたくましく日常を行っていた彼らの様子にも、なんとなく元気を得られます。

幕末で西洋人が入ってきたことを背景に、外人をめぐっての騒動なども起こり、その探索のために、半七も横浜(ただ、「はま」と読んでるのが小粋です)まで泊りがけの調査に出たりしています。キツネが出るとうわさされる場所で、夜、市民が、イギリスの水夫が葉巻を吸っているのをみて、狐が化けた天狗が火を噴いていると勘違いし、ほうほうの体で逃げ出すという話も可笑しかった。この狐やら、お化けが出るという噂も、話が大きくなってくると、半七は、調査を依頼されたりするのですが、最終的には、いつも狐でもお化けでもない、人間の仕業なのは当然。

物語に登場した人物たちの行く末として、時に、上野の彰義隊の時の戦争での流れ弾で死んだとか、蝦夷まで行って、最後まで幕府のために戦った、なぞが最後に語られる事もあり、そこにも、その激動の時代を感じることができます。

さて、この69話の中でどれが一番面白かったか、と言われると、困りますが、頭に浮かぶ範囲では、品川の潮干狩りの様子が描かれ、海をざぶざぶ泳いで生魚をむしゃむしゃ食べる変な人物が登場する「海坊主」、隠密という危険な仕事と、奥州での隠れキリシタンを描いた「旅絵師」、いたずら猿が八丈島に島流しになるという、お茶目なおちのある「半鐘の怪」、雪の江戸のあちこちに作られた雪だるまのひとつが解けたとき、そこから死体が出てくる「雪だるま」、浅草の幽霊屋敷内での殺人事件「幽霊の見世物」、菊人形が有名であった団子坂が舞台の「菊人形の昔」(この団子坂の菊人形と言うのは、本当に話題であったようで、漱石の「三四郎」にも登場しますし、江戸川乱歩の「D坂の殺人」のD坂もおそらくここですね)、最初は薄気味悪い怪談風にはじまりながら、姉さん女房のカップルが2組出来上がりめでたく終わる「津の国屋」、そして、何ともタイムリーな、ワクチンの話題が登場する「河豚太鼓」(この作品については、また次のポストで詳しく書きます。)・・・どれもこれも、また時が経ったら、読み返したくなるかもしれません。

青空文庫で読む岡本綺堂作品は、こちらまで。

コメント

  1. こんにちは、一面識もない通りすがりなのですが、ブログ面白く読ませていただいている者です。
    ぼくも「半七捕物帳」が好きで一気に読んだことがあり、書かれている内容に共感することが多くて、おもわずコメントを書き込んでしまいました。シャーロック・ホームズものの短編も、いつか全部読んでみたいと思いました。

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    1. コメントをありがとうございます。遅ればせながら巡りあった半七が、予想を上回る面白さで、読後、特に頭に残ったことを、忘れぬうちに、2,3書いてみたいと思い立った次第です。ホームズも読んでみてください。短編集は、半七同様、やはり一気読みできます。

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