河豚太鼓、日本におけるワクチン事始

ワクチン、英語ではvaccine(ヴァクシン)。ラテン語で牛を意味するvaccaに由来する言葉です。

過去、多くの人の命を奪い、更には、命は助かっても、あばた後を残したり、または、伊達政宗の片目を奪ったりした天然痘。これをやっつけるために、色々な実験がなされ、 かなり以前に「エドワード・ジェンナーとワクチン」という投稿で書いた様に、イギリスの田舎医師であったエドワード・ジェンナが、牛の乳しぼりをする女性たちが天然痘にかからないのに着目し、牛の天然痘であり人体にはひどい被害を及ぼさない牛痘にかかることにより、人間が天然痘にかかるのを妨げる効力があるのではと着目したわけです。ワクチンは、こうした天然痘退治のための牛痘の接種により始まったため、今も「牛」の名残をその名に残しています。丑年の今年に、コロナ感染を抑えるためのワクチン接種が始まるというのも、なんともぴったりです。

さて、前回の記事で話題にした、岡本綺堂作「半七捕物帳」のうちに、「河豚太鼓」という作品があります。これが、日本における、この牛痘を用いたワクチン事始と、牛痘法というこの新しい医療に対する一般庶民の不安が原因となってもちあがる事件を扱っており、大変、興味深いものがありました。以下、少々、この作品の冒頭からの抜粋。(一部分、はしょってあります。)

種痘の話が出た時に、半七老人はこんなことをいった。

「今じゃあ種痘と云いますが、江戸時代から明治の初年まではみんな植疱瘡(うえぼうそう)と云っていました。その癖がついていて、わたくしのような昔者は今でも植疱瘡と云っていますよ。日本の植疱瘡はなんでも文政頃(1818ー1829年)から始まったとかいう事で、弘化4年(1847年)に佐賀の鍋島侯がその御子息に植疱瘡をしたというのが大評判でした。それからだんだんに広まって、たしか嘉永3年(1850年)だと覚えていますが、絵草紙屋の店に植疱瘡の錦絵が出ました。それは小児が牛の背中に跨って、長い槍を振り回して疱瘡神を退治している図で、みんな絵草紙屋の前に突っ立って、めずらしそうに口をあいてその絵を眺めていたものです。」

「なにしろ植疱瘡ということがおいおいに認められてきて、大阪の方が江戸より早く植疱瘡を始めることになりました。江戸では安政6年(1859年)の9月、神田のお玉が池(松枝町)に種痘所というものが官許の看板をかけました。さてその植疱瘡(種痘)をする者がまことに少ない。牛の疱瘡を植えると牛になるという。これもあなた方のお笑いぐさですが、その頃にはまじめにそう言い触らす者が幾らもある。素人ばかりでなく、在来の漢方医のうちにも植疱瘡を嫌うものが多かったんです。外国でも最初の間は、植疱瘡を信用しなかったと云いますから、どこの国でも同じことだと見えます。」

さらに物語の最後の方で、

「前にも云う通り、江戸では安政6年から種痘所というものが出来て、植疱瘡を始めました。このお話の文久2年(1862年)はそれから足掛け4年目で、最初は不安心に思っていた人達も、それからそれへと聞き伝えて、物は試しだから植えてみようというのがぼつぼつ出てきました。その頃にはまだ文明開化なんて言葉はありませんでしたが、まあ開化したような人間が種痘所に通うようになったんです。」

岡本綺堂 「河豚太鼓」(半七捕物帳より)

冒頭に載せた、牛に跨る小児が疱瘡神を退治する種痘之図は、佐賀県立図書館のサイトより(https://www.sagalibdb.jp/kaiga/detail/?id=28)。

まあ、岡本綺堂が個人で書いている事なので、牛痘法の種痘が日本で広がって行った歴史などを、実際にくわしく調べたい場合には、更に他の文献を読む必要がありましょうが、大まかな事と、それに対する世の雰囲気はこれでわかります。開化前に開化した人と言えば、アームストロング砲で有名な佐賀藩の鍋島直正は、種痘にも手を出していたんですね。

さて物語の筋は、菊園という葉茶屋の大店の主人が、玉太郎という7つになる、本当に玉のように可愛い一人息子が、疱瘡(天然痘)にかかり鬼瓦のような顔になってしまう事を心配し、種痘所へ連れていき、植疱瘡をさせる決心をする。ところが、玉太郎をこよなく愛していた乳母のお福は、牛の疱瘡を植えると牛になると固く信じていたタイプであったため、可愛い坊ちゃまが牛になるのを黙っていられず、かといって雇い主に反論もできず、他の尽力も受けて、内緒で玉太郎を連れ出し隠してしまう・・・という誘拐事件を引き起こすのです。

牛痘法で牛になると信じていた、お福の様な昔の人たちを笑えないのは、こちらでも、コロナウィルスのワクチンに対し、一部のワクチン反対派が、ワクチンを打つとマイクロチップを埋め込まれ、自分の一挙手一投足を見張られる、これは陰謀だとか、コロナのワクチンを打つと猿になるとか、まことしやかな噂がSNSなどに流れ、それを丸々信じ込んでいる人たちがいるという事があるから。副作用などに対する心配から、ワクチンに二の足を踏むというのなら、気持ちはわかりますが。また、ワクチンでなくても、コロナに関する偽情報の多種多様ぶりにはびっくりさせられます。5Gがコロナをまき散らすと信じている人たちが、5Gマストを攻撃するという事件もありました。SF作家でも考え付かないような、そんな魔法の様な事がどうして可能なのか・・・説明して欲しいっ!

そういう人がいるかと思うと、世界のあちこちで、かなりのスピードで、コロナに対し、いくつかの効果のあるワクチンを作り上げることに成功したのは、自ら進んで、実験台になって開発中のワクチンを受けるという究極のボランティアをした人たちがいるからでもあり。

以前、ニュースで、開発中ワクチン接種のボランティアの女性が注射を打たれる様子を写していましたが、終わった後に、なぜボランティアをしたかと聞かれ、「コロナを無くすため、何かの助けをしたかった」。他のボランティア男性は、「おいらは、コロナで打撃を受けているビジネスを持っている。養っていかねばならない従業員もいる。何もせずにいるわけにはいかん。」畏敬の念を感じました。私なんぞがやろうと思うボランティアは楽しい物だけで、あんなボランティア頼まれてもできない。私の友人の上司も、モデルナ・ワクチンのトライアルに参加したと言っていました。こういう肝の座った大開化人たちが、社会に少しでもいないと、サイエンスも医学もなかなか進歩しないのでしょう。過去には、化学者や医学者など、自分の体に、わりと無謀な実験した人たちもあったようですし。更には、イギリスではヒューマンチャレンジと称して、どの程度のコロナウィルスを受けると病気になるのかを調べるために、わざと、ウィルスを受けるというボランティアの募集をし始めました。以前に比べ、安全性には気を付けているとはいえ、これもすごいボランティアです。

青空文庫の「河豚太鼓」は、こちらまで。

(ボランティアと言えば、青空文庫のボランティアの皆さま、お世話になっています。)

さて疱瘡の話以外にも、半七捕物帳では、江戸市民を怖がらせた、他の伝染病の話も出てきますので、ここでついでに載せておきます。

まず「かむろ蛇」という物語は、コロリと呼ばれたコレラの大流行を背景にしています。

安政5年(1858年)の7月から8,9月にかけて、江戸には恐るべきコレラが流行しました。いわゆる、午年の大コロリである。凄まじい勢いを以て蔓延する伝染病に対して、防疫の術を知らないその時代の人々は、ひたすら神仏の救いを祈るほかは無いので、いずこの神社も仏寺も参詣人が群集して、ふだんは比較的にさびしい小日向の氷川神社にも、この頃は時をえらばぬ参詣人のすがたを見た。伝説のかむろ蛇よりも、目前のコロリが恐ろしかったのであろう。

また「蟹のお角」では、麻疹の大流行に触れ、

文久2年(1862年)の夏から秋にかけて、麻疹が大変に流行しました。いつぞや、「かむろ蛇」のお話の時に、安政5年のコロリのことを申し上げましたが、それから4年目には麻疹の流行です。安政の大コロリ、文久の大麻疹、この二つが江戸末期における流行病の両大関で、実に江戸じゅうの人間をおびえさせました。これもその年の2月、長崎へ来た外国船からはやり出したもので、3月頃には京大阪に伝わり、それが東海道を超えて、5,6月頃には江戸にはいって来ると、さあ大変、4年前の大コロリと負けず劣らずの大流行で、門並みにはばたばた倒れるという始末、いや、まったく驚きました。

コロリはもちろん外国船のお土産です。麻疹は昔からあったんですが、今度の大流行はやはり外国船のおみやげです。そんなわけで、黒船は悪い病いをはやらせるという噂が立って、江戸の人間はいよいよ異人を嫌うようになりました。中には異人が魔法を使うの、狐を使うの、鼠をはなすのと、まことしやかに云い触らす者もある。麻疹は6月末からますます激しくなって、7月の七夕も盂蘭盆もめちゃめちゃでした。なにしろ日本橋の上を通る葬礼の早桶が毎日2百も続いたというのですから、お察しください。

最後に「広重とかわうそ」という物語では、広重の名所江戸百景シリーズの中の「深川州十万坪」の絵(上の絵)を、謎解きの手掛かりに使っていますが、「その広重は大コロリで、その年の秋に死にました」と締めくくられています。残念。江戸百景を出した翌年の事です。少なくとも、彼の死が、今はあまり名残を残さぬ、在りし日の江戸の風景を残す大仕事をした後だったというのが、私たちには有難いことです。

医療もあってなきようなもの、衣食住も今に比べればお粗末であった、こういう時代を生き残り、長生きした人たちは、幸運もあれ、神社の御利益もあったかどうかもともあれ、本当に体が丈夫だったんだろうな、とつくづく思います。体操や、散歩などで体調整え、そして、ワクチンが終結を促してくれることに期待をかけて、大コロリならぬ、大コロナ期を乗り切りましょう。

前回、2020年のクリスマスカードには、こんなものを描いて出しました。考えて見ると、コンセプトは一番上に載せた「種痘之図」と同じです。

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