ジェイムズ・ギルレイのナポレオン
「The Plum-pudding in Danger - or - State Epicures taking un Petit Souper」(プラム・プディングの危機 または ちょっとした食事を取るエピクロスな政治家達、1805年2月)と題されたこの絵は、イギリスの風刺画家ジェイムズ・ギルレイ(James Gillray 1756-1815年)によるもの。おそらく、過去の政治風刺画、諧謔画の中でも、一番有名なものではないでしょうか。私の高校の世界史の教科書にも、この絵が挿入されていたのを覚えています。
言わずと知れたナポレオン・ボナパルトと、当時のイギリスの首相、小ピットこと、ウィリアム・ピット(William Pitt)が、地球の形をした、湯気のあがる巨大プラム・プディングを二人で切り分けている様子を描いたもの。ピットが切り取っているのは、大西洋。ナポレオンが自分の皿にもろうとしているのはヨーロッパ大陸。海軍が強い、海の帝国イギリスと、ヨーロッパ征服をもくろむ陸軍のナポレオン率いるフランスを対照的に描いています。
ギルレイのおかげで、写真が登場する以前のイギリスの首相の中で、その様相が、一番良く知られているのが、このひょろ長い胴体と、大きな鼻を誇張して描かれているウィリアム・ピットでしょう。本人は、ありがたくないかもしれませんが。ピットは、この絵の発表された約一年後の1806年1月に、46歳の若さで亡くなっています。
また、ギルレイが「リトル・ボニー」(Little Boney)と呼んで描いたナポレオンのイメージも、イギリス人が頭に浮かべるナポレオン像を形成するのに一役買っています。ギルレイのナポレオンは、ぎょろりとした目玉をした、ちびちゃんであり、大変なかんしゃくもちの駄々っ子風・・・そう、ギルレイが常にナポレオンを「おちびちゃん」として描いているので、私も、長いこと、ナポレオンは背が低い、と思っていたのです。実際のナポレオンは、かなり背の高い人であったようなですが。当時は、写真も無く、インターネットも無いので、情報源も少なく、本人を目撃した事が無い人は、本当にナポレオンは、こんな感じだと信じていた人も多かったことでしょう。ギルレイ自身も、当然、ナポレオン本人を見たことはないので、彫刻や絵からイメージを作り上げたわけですし。
こちらは、ジェイムズ・ギルレイの「Manic - Raving's - or - Little Boney in a strong fit」(狂人のわめき または 強烈な癇癪発作を起こすリトル・ボニー、1803年5月)。イギリスとフランスの平和条約であったアミアンの和約(Treaty of Amiens)が、1年ちょっとで破綻した直後に発表されたものです。アミアン和約では、イギリスは、マルタ、エジプトなどから、軍を撤退させる事に同意したものの、事実上和約の内容はほとんど実行されず、1803年5月18日に、イギリスが再びフランスに宣戦布告戦。(前回の記事に書いた「ルイジアナ買収」で、ナポレオンが、資金調達のため、仏アメリカ領土を合衆国に売り払ったのは、このすぐ前の4月の事です。)
絵に組み込まれている、ナポレオンがわめき散らす言葉に中には、
「アミアン和約だと!ふざけるな!」
「マルタ、マルタ、マルタ!」
「ああ、エジプト、エジプト、エジプト!」
「いまいましい、イギリス議会め!」
「48万のフランス人で、イギリス人は奴隷だ、永遠の従属の鎖で繋いでくれるぞ!」
などがあります。また、
「ああ、イギリスの新聞め!!!イギリスの新聞め!!!」
「ああ、イギリスの自由なメディアめ!」
「ロンドンの新聞め!あー!!!あー!!!あー!!!」
とイギリスの大胆不敵なジャーナリズムを何度も罵っているのが面白い。ギルレイの絵同様に、新聞などでも、散々にナポレオンをおちょくり、馬鹿にした記事やイメージが載り、ヨーロッパにも流出していたのでしょうか。
本人は、フランス画家ジャック・ルイ・ダヴィッド(Jacques-Louis David)の描いた、こういった凛々しいイメージで行きたいところだったでしょうに、リトル・ボニーじゃあね・・・。
ついでながら、このアミアンの和約の間に、実に9年ぶりに、自由にフランスを含むヨーロッパ旅行が出来たため、かなりの数のイギリス人が、ここぞとばかりに海を渡ってフランスへ出かけたそうです。この中には画家などの芸術家も多く、27歳の若きターナーもその1人であり、フランス、スイス、北イタリアなどを訪れています。これがターナーにとっては初の海外旅行で、はりきって風景のスケッチを行った他にも、ルイ16世処刑の一周年記念である1793年8月に、美術館として開館されたパリのルーヴルにも足を運び、そこで名画の鑑賞とスケッチも行っています。
さて、こちらのギルレイの絵は、「The Hand-Writing upon the Wall」(壁に書かれた文字 1803年8月)。旧約聖書ダニエル書の5章に記載されている「ベルシャザルの酒宴」をテーマにレンブラントが描いた絵のパロディーです。(レンブラントの「ベルシャザルの酒宴」と、ダニエル書について詳しくは、過去の記事を参照下さい。こちら。)
アミアンの和約破綻後、フランス軍が、イギリスへ侵略してくるという懸念は、強くなっていったようですが、この絵で、ナポレオンは、テーブルにイギリスのご馳走を並べ、宴会をしている。その最中に、神から送られてきた手が、忽然とナポレオンの前に現れ、おごれるナポレオンに「お前は滅びる運命にある」という予言の言葉を壁に書く様子を描いています。びっくりポーズのナポレオンをよそに、隣に座っているジョゼフィーンは、酒をがばがば。
現在の政治風刺画は、主に新聞に掲載されますが、ギルレイの作品は、比較的高価な紙に、ひとつのデザインにつき数百枚ほど印刷されて、版画の店で販売。ギルレイは版画の掘り起こしも自分でやって、その技術もなかなかであったそうです。まずは、白黒で刷られた版画は、手で彩色師によって色付けされているので、ひとつひとつ微妙に色が違ったりします。自分もギルレイの題材にされ、おちょくられながらも、時の皇太子(後のジョージ4世)は、ギルレイの版画を好んで集めており、「プラムプディングの危機」も、販売開始の翌日に購入したと言う話です。
ジェイムズ・ギルレイは、「プラム・プディングの危機」が発表された1年後あたりから、50歳にして、視力が衰えていき、思うように描けなくなっていきます。そのため、欝気味になり、酒にも走り、1807年に、精神障害を起こしています。その後、一時的に回復したものの、再び1810年に、精神障害を起こし、1815年6月1日に亡くなります。58歳。同年の6月18日は、ワーテルローの戦い。これで、ナポレオンは完全に破れ、セントヘレナ島への島流しとなりますが、ギルレイが生きていて視力もばっちりの健康体だったら、どんなリトル・ボニーの憤慨ぶりを描いたことでしょう。
生涯独身で、ロンドンの版画店を経営するハナ・ハンフリー夫人の店の2階に住んでおり、1階には、自分の作品を含めた版画がショーウィンドーに飾られ販売されていました。体が悪くなってからは、死ぬまでハナ・ハンフリーの世話になっていたということです。
ナポレオン、ウィリアム・ピットおよびその他政治家達、ジョージ3世の王家のメンバー、エマ・ハミルトンなどの当時のセレブ、この時代のイギリス政治社会を振り返るとき、ギルレイのイメージを通して見る事が多々あります。たかが風刺漫画、されど風刺漫画、社会の鏡としてのその威力は、今でも強く感じられ、私も、ジェームズ・ギルレイは、大好きな画家の1人です。
参考までに、当ブログ内で、ジェイムズ・ギルレイの風刺画を載せた以前の記事は下まで。
革命の血に染まった広場 (題材は恐怖政治と化していくフランス革命)
狂ったジョージと太ったジョージ (ジョージ3世と後のジョージ4世となる皇太子)
イングランド紙幣の歴史 (ウィリアム・ピットとイングランド銀行)
美女ありき! エマ・ハミルトンの生涯 (ネルソンの愛人であったエマ・ハミルトン)
言わずと知れたナポレオン・ボナパルトと、当時のイギリスの首相、小ピットこと、ウィリアム・ピット(William Pitt)が、地球の形をした、湯気のあがる巨大プラム・プディングを二人で切り分けている様子を描いたもの。ピットが切り取っているのは、大西洋。ナポレオンが自分の皿にもろうとしているのはヨーロッパ大陸。海軍が強い、海の帝国イギリスと、ヨーロッパ征服をもくろむ陸軍のナポレオン率いるフランスを対照的に描いています。
ギルレイのおかげで、写真が登場する以前のイギリスの首相の中で、その様相が、一番良く知られているのが、このひょろ長い胴体と、大きな鼻を誇張して描かれているウィリアム・ピットでしょう。本人は、ありがたくないかもしれませんが。ピットは、この絵の発表された約一年後の1806年1月に、46歳の若さで亡くなっています。
また、ギルレイが「リトル・ボニー」(Little Boney)と呼んで描いたナポレオンのイメージも、イギリス人が頭に浮かべるナポレオン像を形成するのに一役買っています。ギルレイのナポレオンは、ぎょろりとした目玉をした、ちびちゃんであり、大変なかんしゃくもちの駄々っ子風・・・そう、ギルレイが常にナポレオンを「おちびちゃん」として描いているので、私も、長いこと、ナポレオンは背が低い、と思っていたのです。実際のナポレオンは、かなり背の高い人であったようなですが。当時は、写真も無く、インターネットも無いので、情報源も少なく、本人を目撃した事が無い人は、本当にナポレオンは、こんな感じだと信じていた人も多かったことでしょう。ギルレイ自身も、当然、ナポレオン本人を見たことはないので、彫刻や絵からイメージを作り上げたわけですし。
こちらは、ジェイムズ・ギルレイの「Manic - Raving's - or - Little Boney in a strong fit」(狂人のわめき または 強烈な癇癪発作を起こすリトル・ボニー、1803年5月)。イギリスとフランスの平和条約であったアミアンの和約(Treaty of Amiens)が、1年ちょっとで破綻した直後に発表されたものです。アミアン和約では、イギリスは、マルタ、エジプトなどから、軍を撤退させる事に同意したものの、事実上和約の内容はほとんど実行されず、1803年5月18日に、イギリスが再びフランスに宣戦布告戦。(前回の記事に書いた「ルイジアナ買収」で、ナポレオンが、資金調達のため、仏アメリカ領土を合衆国に売り払ったのは、このすぐ前の4月の事です。)
絵に組み込まれている、ナポレオンがわめき散らす言葉に中には、
「アミアン和約だと!ふざけるな!」
「マルタ、マルタ、マルタ!」
「ああ、エジプト、エジプト、エジプト!」
「いまいましい、イギリス議会め!」
「48万のフランス人で、イギリス人は奴隷だ、永遠の従属の鎖で繋いでくれるぞ!」
などがあります。また、
「ああ、イギリスの新聞め!!!イギリスの新聞め!!!」
「ああ、イギリスの自由なメディアめ!」
「ロンドンの新聞め!あー!!!あー!!!あー!!!」
とイギリスの大胆不敵なジャーナリズムを何度も罵っているのが面白い。ギルレイの絵同様に、新聞などでも、散々にナポレオンをおちょくり、馬鹿にした記事やイメージが載り、ヨーロッパにも流出していたのでしょうか。
本人は、フランス画家ジャック・ルイ・ダヴィッド(Jacques-Louis David)の描いた、こういった凛々しいイメージで行きたいところだったでしょうに、リトル・ボニーじゃあね・・・。
ついでながら、このアミアンの和約の間に、実に9年ぶりに、自由にフランスを含むヨーロッパ旅行が出来たため、かなりの数のイギリス人が、ここぞとばかりに海を渡ってフランスへ出かけたそうです。この中には画家などの芸術家も多く、27歳の若きターナーもその1人であり、フランス、スイス、北イタリアなどを訪れています。これがターナーにとっては初の海外旅行で、はりきって風景のスケッチを行った他にも、ルイ16世処刑の一周年記念である1793年8月に、美術館として開館されたパリのルーヴルにも足を運び、そこで名画の鑑賞とスケッチも行っています。
さて、こちらのギルレイの絵は、「The Hand-Writing upon the Wall」(壁に書かれた文字 1803年8月)。旧約聖書ダニエル書の5章に記載されている「ベルシャザルの酒宴」をテーマにレンブラントが描いた絵のパロディーです。(レンブラントの「ベルシャザルの酒宴」と、ダニエル書について詳しくは、過去の記事を参照下さい。こちら。)
アミアンの和約破綻後、フランス軍が、イギリスへ侵略してくるという懸念は、強くなっていったようですが、この絵で、ナポレオンは、テーブルにイギリスのご馳走を並べ、宴会をしている。その最中に、神から送られてきた手が、忽然とナポレオンの前に現れ、おごれるナポレオンに「お前は滅びる運命にある」という予言の言葉を壁に書く様子を描いています。びっくりポーズのナポレオンをよそに、隣に座っているジョゼフィーンは、酒をがばがば。
現在の政治風刺画は、主に新聞に掲載されますが、ギルレイの作品は、比較的高価な紙に、ひとつのデザインにつき数百枚ほど印刷されて、版画の店で販売。ギルレイは版画の掘り起こしも自分でやって、その技術もなかなかであったそうです。まずは、白黒で刷られた版画は、手で彩色師によって色付けされているので、ひとつひとつ微妙に色が違ったりします。自分もギルレイの題材にされ、おちょくられながらも、時の皇太子(後のジョージ4世)は、ギルレイの版画を好んで集めており、「プラムプディングの危機」も、販売開始の翌日に購入したと言う話です。
ジェイムズ・ギルレイは、「プラム・プディングの危機」が発表された1年後あたりから、50歳にして、視力が衰えていき、思うように描けなくなっていきます。そのため、欝気味になり、酒にも走り、1807年に、精神障害を起こしています。その後、一時的に回復したものの、再び1810年に、精神障害を起こし、1815年6月1日に亡くなります。58歳。同年の6月18日は、ワーテルローの戦い。これで、ナポレオンは完全に破れ、セントヘレナ島への島流しとなりますが、ギルレイが生きていて視力もばっちりの健康体だったら、どんなリトル・ボニーの憤慨ぶりを描いたことでしょう。
生涯独身で、ロンドンの版画店を経営するハナ・ハンフリー夫人の店の2階に住んでおり、1階には、自分の作品を含めた版画がショーウィンドーに飾られ販売されていました。体が悪くなってからは、死ぬまでハナ・ハンフリーの世話になっていたということです。
ナポレオン、ウィリアム・ピットおよびその他政治家達、ジョージ3世の王家のメンバー、エマ・ハミルトンなどの当時のセレブ、この時代のイギリス政治社会を振り返るとき、ギルレイのイメージを通して見る事が多々あります。たかが風刺漫画、されど風刺漫画、社会の鏡としてのその威力は、今でも強く感じられ、私も、ジェームズ・ギルレイは、大好きな画家の1人です。
参考までに、当ブログ内で、ジェイムズ・ギルレイの風刺画を載せた以前の記事は下まで。
革命の血に染まった広場 (題材は恐怖政治と化していくフランス革命)
狂ったジョージと太ったジョージ (ジョージ3世と後のジョージ4世となる皇太子)
イングランド紙幣の歴史 (ウィリアム・ピットとイングランド銀行)
美女ありき! エマ・ハミルトンの生涯 (ネルソンの愛人であったエマ・ハミルトン)
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