ルイジアナ買収

前回の、映画「レヴェナント 蘇えりし者」に関する記事の中で、アメリカ合衆国による1803年の「ルイジアナ買収」(Louisiana Purchase)の話に少々触れたので、今回は、これについてまとめてみることにします。

ミシシッピ川西部に広がるアメリカ中部の広大な土地は、1682年に、フランスの探検家ロベール=ガブリエル・ド・ラ・サールにより、フランスの領土として、当時のフランス国王ルイ14世の名にちなんで、ルイジアナと命名。もっとも、領土と宣言したはいいが、多くのインディアン部族の徘徊する、ワイルドで、あまり役に立たない土地と見られ、ぽつぽつとフランス軍の砦が点在するのみのまま時が経ちます。

そんな使い勝手の悪い土地であったせいもあってか、フランスのルイ15世は、イギリスとフランスが、カナダの領土をかけて戦った、フレンチ・インディアン戦争(1755-1763年)の際に、味方であったスペインのカルロス3世に、贈り物として、ルイジアナ領土をあげてしまっています。スペインはその後、銀鉱のあるスペインのメキシコ領土をイギリスの野心から守るため、ルイジアナを、一種のクッションのような緩衝地帯として、ほぼ野生のまま保持するのみで、やはり積極的な土地の使用は行わず。

イギリスから独立後、人口が増えていくアメリカ合衆国では、東海岸の州を離れ、アパラチア山脈を越えて、ミッシッピ川東岸のケンタッキー、テネシーなどのフロンティアの土地へと移住していく人間も増えていきます。1780年代の初めには、そうしたミシシッピ東岸のフロンティア農家の生産物が、大量に、東海岸の州へと出荷されており、ミシシッピ川は、そうした物資を運ぶために重要な役割を果たすのです。貨物を陸路で運ぶより、ミシシッピ川から支流に入り東部の州に運ぶほうがずっと楽ですから。そして、また、ミシシッピ川の南部河口の町ニューオーリンズも、フロンティアの住民達にとっては、大切な貿易港。よって、合衆国には、誰がニューオーリンズを支配しているのかは、非常に気になるところであったわけです。合衆国の人口の西への移動に多少の脅威を覚え始めたスペインは、一時的に、ニューオーリンズへ出るミシシッピ下流への通行拒否などを行ったりもし。まだ、包括したひとつの国という観念の弱かった合衆国のフロンティア住民の中には、自分達の繁栄のためには、ニューオーリンズを領土として持つ、スペインの傘下に入った方がいいんじゃないか・・・というムードもあったようです。

そうこうするうちに、ヨーロッパでは、フランス革命が勃発し、やがてナポレオンの台頭。ナポレオンは、新大陸領土へも野心を燃やし、弱体化していたスペインと1800年に、秘密の条約を結び、ルイジアナを他国に譲渡しない、ということを前提に、フランスの北イタリア領と引き換えに、ニューオーリンズを含むルイジアナ領土を再びフランス領として獲得。

もっとも、フランスにとって、領土としては、アフリカの奴隷を使用したサトウキビのプランテーション生産が盛んであったハイチ(当時の名は、サン・ドマング)の方が大切であり、ルイジアナの土地を使って、ハイチが必要とする農作物を生産し、ハイチの領土はすべてサトウキビのプランテーションに使用できるように、という頭があったようです。ところが、この大切なハイチでは、1791年から、プランテーションでの残虐な取り扱いを受けていた黒人奴隷達による反乱が起こっており、事態は悪化していく。多くのフランス兵は、皮肉にも、フランス革命の影響を受けたこの反乱(ハイチ革命1791-1804年)を鎮圧するべく、ハイチへと送られるのです。自由、平等、博愛は、母国のフランス人の間だけで、植民地の黒人にはあてはまらない・・・。フランス軍兵士達は、自由を求めて命がけでゲリラ戦を続ける反乱軍にてこずる上に、マラリアや黄熱病などで、バタバタ死んでいく。

一方、ナポレオンの野心を恐れる合衆国内では、先に攻撃をかけ、ニューオーリンズを武力で獲得しようという意見もあったようです。が、アメリカの第3代大統領トーマス・ジェファーソンは、戦争を好まず、また、当初は、ニューオーリンズを港として使用する権利さえ確立できれば、ニューオーリンズはおろか、ミシシッピ西側へ領土の拡大をしようと言う野心も無かったそうです。そこで、ジェファーソンは、パリ駐在大使ロバート・リビングストンが、ニューオーリンズ使用権の問題を解決する交渉を行うための助けとして、パリへ、ジェームズ・モンロー(後、第5代大統領)を送りこみます。

この交渉の際に、ナポレオンは、急遽、ルイジアナ領土を売り飛ばして処分してしまう事にするのです。ハイチ革命で多くの兵を失っていた上、1802年3月のアミアンの和約によって、一時的に休戦中であったイギリスとの戦争が再び始まる気配があり、ヨーロッパ内での戦争資金が必要となっていたフランスは、アメリカを諦める決断を下したわけです。合衆国側は、予期していなかった展開にびっくりしたようですが、こうして、1803年4月、ルイジアナ買収が決定。1803年12月には、ニューオーリンズを含むルイジアナ領土は米に受け渡され、アメリカ合衆国の領土は一挙に倍になります。ルイジアナ買収で獲得した地は、現在のアメリカの丸々6州(アイオワ、ミズーリ、アーカンサス、オクラホマ、カンサス、ネブラスカ)と9州(ルイジアナ、ミネソタ、サウスダコタ、ノースダコタ、モンタナ、ワイオミング、コロラド、ニューメキシコ、テキサス)の一部を含む大きさ。上の地図のピンク色の部分が、ルイジアナ買収での米国お買い上げの土地です。(当地図は、ウィキコモンより。)他国に譲渡しないという約束で、フランスにルイジアナを返したばかりのスペインは、かなりむっときたでしょうが、ナポレオン相手に対抗もできず。ちなみに、ルイジアナ買収が決定してすぐの1803年の5月には、フランスとイギリスの戦争が再開され、年が明けた1804年1月に、ハイチは、初の黒人共和国として、フランスから独立宣言。

さて、このルイジアナ買収のお値段は、1500万ドルとされますが、そのうちのやく半額は資金が足りず借りることとなるのですが、米へ、買収のためのローンを行ったのは、イギリスのベアリング銀行だったという事実に、国際政治の複雑さを感じます。貸した金が、敵対国であるフランスの手に渡り、戦争資金として利用されると知りながらも、ルイジアナ買収により、新大陸からフランスが消えうせる事の方がイギリスにとってはありがたかったわけで。

なお、歴史上、最も有益であった土地買収などと言われながら、当時の合衆国内では、このルイジアナ買収には、否定的な意見も多く、政府の目の行き届かぬ、半野生の広大な土地で、政府に反旗を翻す人物なども出てくるのではないかという懸念も多々あったようです。

ということで、「レヴェナント」の主人公、ヒュー・グラスの活躍した時代の米中部は、まだルイジアナ買収から20年ほどしか経っていないことになります。トーマス・ジェファーソン大統領には、ミシシッピ川以西の土地はインディアンの領土にしようという考えもあったようですが、それはただのアイデアだけに終わり、アメリカ人による移住と開拓は、徐々に、ミシシッピ川以西へも延びていくわけです。

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