ジョン・レイ

大英博物館にあるジョン・レイの胸像
分類学の父と称され、植物を、ラテン語を使用した2名法で分類するシステムを確立させたのは、スウェーデン人カール・フォン・リンネ(Carl von Linne 1707-1778年)ですが、リンネが、分類法を体系化するにあたり、非常に影響を受けた自然科学者は、リンネの生まれる2年前に没している、イギリス人、ジョン・レイ(John Ray 1627-1705年)。更に後には、チャールズ・ダーウィンも、レイの著作の影響を受けていると言います。

ジョン・レイは、イングランドのエセックス州ブラック・ノトリー(Black Notley)にて、鍛冶屋を営む父と、ハーブを使用して薬を作っていた母の間の、比較的質素な家庭に生まれます。役に立つ野生の植物を求めて周辺を散策する母親について、早くから自然観測と、自然に関する興味が植え付けられ、また、信仰の深さも母からの影響のようです。近郊の町、ブレインツリー(Braintree)にある教会に付随した学校に10歳から通い始め、抜群の記憶力でラテン語を習得。

秀でた才能を認められ、16歳にて、スカラーシップを受け、最初は、ケンブリッジ大学のセント・キャサリンズ・ホールで学び始め、後、ケンブリッジ大学トリニティー・カレッジで勉学、卒業後も大学で教鞭を取り、語学、数学などを教授。チャールズ1世が処刑されオリバー・クロムウェルによる共和制が始まる1649年に、ケンブリッジ大学のフェロー(大学教員、研究員)となります。

ジョン・レイは、当時のケンブリッジでは、正当な学問としては見られていなかった自然科学、博物学に大きな興味を示し、特に、生徒のひとりであったフランシス・ウィラビー(Francis Willughby)とは、自然科学への熱意を通じて、重要な友情を結ぶこととなります。ケンブリッジ周辺の自然を散策し、観察しながら、チャールズ2世が王座に返り咲いた王政復古の1660年には、ケンブリッジ周辺の植物を集大成したポケット・サイズのカタログを発行。地方に密着した植物に関する本としては、世界初めてのものではないかと言われています。

この頃は、学問と宗教は密接に結びついており、大学で教えるためには、聖職者としてイギリス国教会に認められる必要があり、大学で教える人間は、大学内の礼拝堂での説教なども行っていたのですが、レイが教え始めたころは、ピューリタン革命によるイングランド内戦の混沌の時代。よって、ケンブリッジ大学で、そうした規律は緩和されており、レイは、正式に聖職者となることなく、ケンブリッジのフェローシップを取っています。それが、チャールズ2世の王政復古で共和制が終わると、再び、イギリス国教会の影響が強くなり、大学で教えるには、聖職者の任命を受ける必要が出てくるのです。レイは、宗教というものは個人的なもので、政治、または、ある一定の組織に牛耳られるものでないと思っていたのでしょうが、ケンブリッジ大学にとどまるため、1660年、一応は規律に従い、聖職者となります。

宗教上の問題はこれだけでは収まらず、さらに、1662年には、統一令(Act of Uniformity)という法令が出されるのですが、これが、ジョン・レイの人生の機転となります。統一令とは、イギリス国教会の教義を絶対とする目的で、聖職者及び教授陣、公職に就く者は、イギリス国教会の正式の祈祷書(聖公会祈祷書、Book of Common Prayer)のみを正当なものとして従うことが義務づけられます。この際、良心の呵責により、これを受け入れられない人物たちが、大挙して大学を去る事を余儀なくされるのですが、ジョン・レイもその一人。また、これにより、多くのイギリス国教会以外のキリスト教の宗派に属する者たちは、公職から締め出されることとなります。レイは、富裕なバックグラウンドでなかったため、職を離れることにより、生活苦に陥る可能性もあったのでしょうが、それを助けたのが、フランシス・ウィラビーを筆頭とする、富裕な友人たち。

1658年から、すでにウィラビーと共に、イギリス内各地を探索し、そこで見た植物を観察採集していたのですが、この統一令をきっかけにケンブリッジ大学を去ることとなったレイに、ウィラビーは、ヨーロッパ大陸旅行をもちかけ、1663年の春から3年にわたり、ウィラビーを含めた友人3人と、フランス、ベルギー、オランダ、ドイツ、イタリア、マルタ、シチリア、オーストリア、スイスと旅をするのです。交通手段もままならず、地図も、道もあってなきようなものである時代に、レイは、最も広範囲にわたって旅をした人間の一人とされていますが、そうですよね、私より、あちこち回ってますから。目的は、先々で見た自然を体系的に記録すること。イングランドに戻った1666年からは、ウィラビーの館、ウォーウィックシャー州のミドルトン・ホールを根拠地とし、大陸で集めた莫大な資料を整理しながら、1669年あたりまで、再び、同じ目的で、イギリス国内旅行も続け。植物のみならず、行く先々で、昆虫、魚類、鳥類、動物、地質、鉱物、各地の文化習慣、イギリス国内では各地での方言まで記録して回ったそうです。1670年には、ポケットサイズのイングランドの植物カタログを出版。

ところが、1672年に、大切な友人であり、パトロンでもあったウィラビーが、いきなり37歳の若さで死んでしまうのです。持つべきものは良き友とは、この事で、ウィラビーは、自分の死後もレイが食うに困らず、研究に専念できるように、彼に、年金を与え続けるよう遺書に書き残しています。レイは、しばらく、ウィラビーの子供たちを教えながら、ミドルトン・ホールにとどまるものの、ウィラビーの未亡人との仲がしっくりいかず、またミドルトン・ホールで子供たちの面倒を見て働いていた、約30歳も年下の、19歳のマーガレット・オークリーと結婚した事もあり、1677年、エセックス州に戻ります。1679年に、母が亡くなった後、彼が自ら母のために建てた、ブラック・ノトリーの家に移り住み、余生を故郷の村で過ごすこととなります。

レイの埋葬地であるブラック・ノトリーの教会墓地
まずは、亡き友、フランシス・ウィラビーのために、ウィラビーの名で、鳥類の本、魚類の本を出版。この2つの発行物は、内容のほとんどが、ジョン・レイの著作なのだそうですが、自分の名と貢献には一切言及していないのだそうです。実際、ウィラビーがいなかったら、旅行も研究もできていなかったでしょうから、感謝していたんでしょうね。それでも、本人が死んでしまった後も、義理を尽くしているのは、きちんとした性格の人であったのでしょう。もともと、謙虚な人物だったという話ですので。
ブラック・ノトリーの教会脇の風景
妻マーガレットとの間には4女をもうけ、年の差にかかわらず、幸せな家庭を築いたようです。自分が幼少のころ、薬草を集める母について家の周りを散策したように、子供たちも、ジョン・レイの採集などについて回ったようですし。

彼が残した出版物は、25以上で、科学関係のものはラテン語で書かれています。最も有名なものが、第3巻にわたるHistoria Plantarum(植物史、1686、1688、1704年発行)。最初の2巻は、7000近くのイギリスとヨーロッパの植物を説明分類し、3巻は更なる11700もの植物を網羅、こちらはヨーロッパ外のジャマイカ、アフリカ、アジアなどの植物も含むそうです。この出版物内で、レイは、初めて、petal(花弁) pollen(花粉)という言葉を使用したのだという事。これ以前は、花弁とは、色のついた葉であると認識されていたそうです。著作は科学のジャンルのみに留まらず、「The Wisdom of God Manifested in the Works of the Creation」 (創造物に現れる神の英知、1691年出版) に代表される、自然神学・思索の本も出版しています。これは、英語で書かれているのも手伝い、かなり幅広く読まれた本であったという事。

人生最後の研究は昆虫にささげられ、病身であまり戸外にでられなくなったレイのために、妻子が外で採集してきた毛虫、さなぎ、蝶、蛾などの標本をまとめ、記録。彼が、初めて蝶のライフサイクルを最初から最後まで記録した人物とされています。彼の昆虫に関する本は、残念ながら未完。死の数日前、友人であり、大英博物館のもととなるコレクションを収集したハンス・スローンに、最後の別れの手紙をしたためています。

ジョン・レイの墓と記念碑
77歳で死去。ブラックノトリーのセント・ピーター・アンド・セント・ポール教会(Church of St Peter and St Paul)の墓地に埋葬。


ジョン・レイの人生を記念して、彼が学校へ通った町ブレインツリーから、ブラック・ノトリーを経由して、隣町ウイッタムをつなぐフットパス(遊歩道)、ジョン・レイ・ウォーク(John Ray Walk)というのがあります。

子供の時に、家の周りにはたくさんの黄色いバターカップ(キンポウゲ)の花が咲いていた、という彼の記述から、このJohn Ray Walkの道しるべには、バターカップの花が使われています。途中、ジョン・レイの墓のある教会の敷地も通り、彼もおなじみであったクレッシング・テンプルも通過。残念ながら、ジョン・レイが人生の後半に住んだコテージは、焼失しています。ちょうど中間地点で、エセックス州を縦断する長距離遊歩道であるEssex Wayとも連結。

John Ray Walkは、はーっと息をのむようなグランドキャニオンのような絶景などに比べれば、非常に平凡な風景を行く遊歩道ですが、イングランド自然史の父(father of English natural history)が歩いた田舎道を、野の花を眺め、蝶を追いながら、ほんの小さな自然にも創造の奇跡を見た彼の眼を通して歩くのも、また一興です。所詮、ある場所から得るものの大きさは、場所によって決まるというより、それを見る人間の驚きの心と好奇心の大きさに比例するのかもしれません。

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