ローマ条約60周年記念とブレグジット

欧州連合離脱(ブレグジット)への過程開始を来週の水曜日(3月29日)に控えたイギリス。この過程を開始すると、あとは時間との戦いで、最長2年間以内に、イギリスは、ヨーロッパとの話し合いで、ブレグジット後のヨーロッパ各国との関係を形作るなんらかの協定を結ぶ必要が出てきます。ロンドンでは、本日、ヨーロッパ残留派の最後の抵抗とばかりに、一大マーチが繰り広げられており、ブレグジットには大反対の、うちのだんなも、友人たちと待ち合わせをして、マーチへ繰り出しました。

その一方、本日、3月25日は、欧州連合(EU)の母体が生まれたローマ条約(1957年)が署名された60周年記念とあって、ローマでイギリスを除くEUメンバー国のリーダーたちが一同に会しています。上の写真は、ミケランジェロの最後の審判の前に、ローマ法王を囲んで立つEU27か国のリーダーたち。(写真は、BBCニュースサイトより。)ヨーロッパの歴史を振り返ったとき、感じるのは、戦争に次ぐ戦争に次ぐ戦争。過去60年の間、いがみ合いはあるものの、こうやって、一応は一緒に仲良く記念写真を撮り、メンバー間での戦争が起こらなかった・・・というのは、それだけでも欧州連合の存在価値のある、快挙ではないでしょうか。

第2次世界大戦という一大トラウマの後、欧州各国が平和に共存できるよう、最初に、スピーチで、欧州連合体のアイデアを落としたのは、皮肉にもウィンストン・チャーチルであったと言います。ます、戦争を行う武器作成に必要な石炭、鉄鋼をヨーロッパ内で共同に管理するのを目的として、1951年に、フランス、西ドイツ、イタリア、オランダ、ベルギー、ルクセンブルグの6か国間で、欧州石炭鉄鋼共同体(European Coal and Steel Community)が設立されます。イギリスはこれには参加せず。そして、1957年3月25日、上記6か国は、ローマで会し、現EUの母体である、欧州経済共同体(European Economic Community, EEC)が誕生。この際、イギリスも参加するように声をかけられたというのですが、これもお断りしているのです。

やがて1961年、経済状態いまいちのイギリスは、心を変えて、EECに参加をしようとするのですが、これは、時のフランス大統領、シャルル・ド・ゴールにより拒否されます。ド・ゴールは、「あんたらは、ヨーロッパなんぞ、好きじゃないんだろ、ほんとは。合衆国ともっと共通点があると思ってるんじゃないの。うちらのクラブには入れてやらないよ。」といった態度だったようです。このド・ゴールの拒絶に対しては、「第2次大戦中には、あんなに助けてやったのに!」と怒るイギリス人も多かったようです。ともあれ、欧州好き(Europhile、ユーロファイル)の保守党の首相エドワード・ヒースの下で、イギリスがやっとEEC含む欧州諸共同体に加盟を果たすのは、ド・ゴールが政権を去った後の1973年までおあずけとなります。

早くも、1975年の労働党ハロルド・ウィルソンの政権中、イギリスでは、欧州共同体メンバーに留まるかどうかの国民投票が行われています。この際、ほとんどの新聞と、すべての政党は、残留賛成で、マーガレット・サッチャーなども、ヨーロッパ各国の国旗の模様入りのセーターなんぞを着て残留キャンペーン。67%と文句なしの残留派の勝利。去年、2016年のEU国民投票と相反して、この時の強硬な離脱派は、欧州各国からの競争から、イギリス労働者を守るべきだとする、労働党の左派。もっとも、すでに保守党の右派の一部にも、後にブレグジットの原動力となる反ヨーロッパ(Eurosceptic、ユーロスケプティック、欧州懐疑主義者)陣が存在したようですが。

1984年には、約10年前には、ヨーロッパの経済的協力には積極的であったマーガレット・サッチャー首相の、ヨーロッパ共同体とのバトルが始まります。まずは、イギリスは、ヨーロッパ共同体への献金はかなり大きいものであったのに、逆にヨーロッパから受ける見返りは、フランスなどの他国に比べ、非常に少ないという金銭のアンバランスが問題となり、サッチャー女史がハンドバッグを振りかざして、「金返せ!」と大騒ぎし、多少差額の取り戻しに成功。このアンバランスは、共同体からの出費の大部分が農業への補助金であったため(当時は予算の70%)、農家がフランスなどに比べて少ないイギリスでは、受ける金額が少ないことが原因。さらには、1985年から社会主義的傾向のジャック・ドロールが欧州委員会委員長となり、経済のみならず、政治的な欧州の統一、統一通貨(ユーロ)の導入を目指す傾向が強くなると、イギリスの欧州懐疑主義派の意見は強硬化していくのです。ジャック・ドロールの、ヨーロッパ合衆国を確立するような態度に対し、1990年の議会で、マーガレット・サッチャーが「No, no, no!」と反対の雄たけびを上げたスピーチは有名です。

1992年2月には、サッチャー政権を継いだジョン・メージャー首相の下、オランダのマーストリヒトにおける、マーストリヒト条約(Maastricht Treaty)が調印され、これにより欧州連合(Europian Union、EU)が、1993年に発足。イギリスは、この際、統一通貨には参加しない権利を得ていますが、欧州連合に、内政にもいちゃもんつけられるようになったら困ると、保守党右派の声は強まる一方。よって、保守党はヨーロッパ問題を巡って、ユーロファイルとユーロスケプティック陣営が真っ二つに割れ、この保守党内の亀裂状態は続くこととなります。

国民投票を行って、EU残留が決まれば、党内の欧州懐疑主義者を黙らせ、保守党の統一を保てると見た、デイヴィッド・キャメロンの博打は逆噴射。ヨーロッパからの移民の数に不満を持っていた国民の多さと、その反ヨーロッパ・ムードを読みそこなったんでしょう。長年、悶々としていた欧州懐疑主義陣はブレグジットを成し遂げて、ばんばんざい。それでも、保守党の内部割れは、これで一時的に終結・・・か?また、イギリスの欧州連合からの脱退を一大目的と掲げた、イギリス独立党(UK Independent Party、通称ユーキップ、 Ukip)も、1993年に、マーストリヒト条約の結果、設立されています。ブレグジットを獲得した今、ユーキップに存在理由があるのか、と色々話題になっていますが、本日は、ユーキップ唯一の国会議員(MP)であったダグラス・カーズウェルがユーキップ離党を宣言。ははは!ユーキップなどは、消えてなくなってくれることには越したことがない政党です。メンバーは、人間としてお近づきになりたくないようなタイプばかりですから。

来週、ブレグジットへのスタートボタンを押したところで、今年はフランス、ドイツでの重要な選挙を控え、ヨーロッパ諸国は、イギリスとのブレグジットの話し合いもしばらくは半腰状態となりそうです。ヨーロッパと、どういう形の離婚になるかの話し合いは2年以内で決着させる規定であるので、2年過ぎると、何らかの協定が結ばれようが結ばれていなかろうが、イギリスは自動的に、欧州連合から蹴りだされてしまいます。そんな状態になったとき、パラシュートはあるのか、気になるところです。なんだか、なさそう・・・。また、墜落先は、硬い地面か、水上か、砂の上か。ブレグジットへの道は闇の中。

だんなによると、ロンドンでの反ブレグジットマーチは大盛況で、目的地の国会議事堂の向かいのパーラメント広場についた後、色々スピーチもあったようなのですが、人出で、ほとんど聞こえないような状態だったとか。ニュースでは、2万以上、一説によると10万近くの参加者だったということです。こんなマーチしたところで、ブレグジットを止められるわけではないけれど、まあ、やれる事だけはやったという、一種の慰めにはなりそうです。

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