カティー・サーク訪問とその歴史

グリニッジ観光の目玉のひとつである、中国からイギリスへお茶を運ぶ目的で造船された、カティー・サーク号内部を、先日初めて見学してきました。今まで、この脇は何度も歩いて通り過ぎながら、内部に入った事が無かったので・・・(カティー・サークという名は、スコットランドの言葉でシミーズを指します。これに関して詳しくは、前回の記事を参照ください。)

まずは、イギリスにおける紅茶輸入の歴史をささっと見てみると、

紅茶という飲み物がイギリスに入ってきたのは、17世紀も後半に入ってから。特に、チャールズ2世の妻でポルトガル王室出身のキャサリン・オブ・ブラガンザ(Catherine of Braganza)は、紅茶ファンで、ポルトガルから紅茶を持ち込み、イギリスへ嫁いでからも、盛んに紅茶を飲んでいたため、これが、上流社会に浸透していく原因となります。コーヒー、紅茶が入ってくるまでは、温かい飲み物というものは特になく、ビールなどをごくんと飲んでいた社会であったところへ、デリケートな陶器の器に注いで飲む紅茶は、上品で洗練されているようにも見えたのか、特に女性の間で人気を得ていくのです。

当初は、中国からイギリスへのお茶の輸入は、課税度も高く、イギリス東インド会社の独占であったため、高価な貴重品。召使などにちょろまかされないように、お茶っ葉を入れておく引き出しには鍵をかけたりもしていたわけです。よって、東インド会社から合法的に入ってくるものより、オランダなどを通して密輸されていた量の方が多かったなどと言います。政府は、こうした密輸紅茶の流入を防ぎ、東インド会社の独占権を守るために、1784年に112%であった課税率を、12.5%に落としています。

1834年には、ついに国内での自由貿易の気風の押され、東インド会社は中国との紅茶貿易の独占権をうしない、次々と新たな貿易会社が、茶貿易に進出。1815年の、ナポレオン戦争後からは、海軍用の大砲を積んだ重い船を造船する必要も減り、貿易に使用されるための船は、スリムなボディーで、特にスピードが速いことが重視されるようになります。カティー・サークを含む、お茶を運んだ快速帆船は、ティー・クリッパー(tea clipper)と称されますが、クリッパーという言葉が船を指してはじめて使われるようになるのは、1812年のアメリカ。当初は、米英戦争の最中、ささっと身をかわしてイギリス海軍をてんてこまいさせた、素早い小型帆船を指した言葉。1849年には、そんなアメリカのクリッパーが、中国からイギリスへの茶の搬送を許されるようになると、紅茶をいかに他会社より早く獲得し、ロンドンへ運び入れるか、そのために、いかに速いクリッパーを造船するかという競争も激しくなっていきます。ティー・クリッパー間の速さの戦いは、一般人には、一種の観戦スポーツのような趣もあったようで、競馬のごとく、今年はどの船が一番早く着くか、などと賭け事に走る人もいたかもしれません。

紅茶人気による、中国に対する貿易赤字を何とかするために、イギリスが行ったのは、インドで育てたアヘンを中国へ売る・・・という麻薬ギャングのような行為。中国での自由貿易を求め、紅茶とアヘンを巡って戦われたアヘン戦争(1839-42年)の結果、イギリスは香港を獲得し、それまで、外国人が交易できる港は広東のみであったのが、5港に増えます。

同時に、無くてはならない飲み物と化していく紅茶を、いつまでも、中国のみに頼っているのはやばい、と1840年代後半には、イギリスは中国へ産業スパイを送り込み、ひそかにお茶の植物(学名Camellia sinensis)を盗み出し、その苗を、支配下にあるインドへ送り、やがては、インドでの茶の栽培を開始するにあたるのです。実際、この産業スパイ侵入以前は、イギリスでは、緑茶と紅茶が同じ植物から摘まれる、という知識もなかったというのです。いずれにせよ、インドでの栽培が盛んになると、イギリスへやってくるお茶といえば、インドからのものとなるのです。ちなみに、現在は、スーパーなどで売られている、日常イギリスで飲まれるお茶の葉のほとんどは、アフリカ産だそうです。

カティー・サーク号内に設置されている茶箱
と、前置きが長くなりましたが、中国からの茶の輸入ブームに乗って、ティー・クリッパーを造船して、紅茶輸入業に乗り出す船主たちが増えていき、また、その年の取りたての葉を、いち早く輸入してロンドン市場へ出荷しようという、ティー・クリッパー間での競争も盛んな中、カティー・サーク号は、ロンドンを基盤に海運業を営んでいたスコットランド人ジョン・ウィリス(John Willis)により、スコットランドのグラスゴー近郊で造船されます。

カティー・サークの鉄の骨組み
構造としては、木造と鉄製の中間で、鉄の骨組みに木製の板がはられているもの。木造の船よりも、木組みに場所を取られずに、沢山の貴重なお茶をのせるスペースが保てるように製造されています。この木造と鉄製の合いの子船は、当時は盛んに造船されたようですが、現在残るのは、カティー・サーク号の他には、オーストラリアにあるCity of Adelaideと、チャタム・ロイヤル・ドックヤードにある HMS Gannetの計3隻のみなのだそうです。

ついでながら、カティー・サーク号に使用されたロープは、このチャタム・ロイヤル・ドックヤードのロープ工場で作られたものです。

カティー・サークは1869年の11月22日に進水。年が明けた2月15日に、はじめて、上海へと向かい、ロンドンの埠頭を去ります。そして、8か月後に、60万キロの茶(2億ものカップをいれられる量)を摘んでロンドンへ帰還。とにかく、大変な数の茶箱を詰め込むため、積み荷にかなりの日数を要したという事です。紅茶のために造られた船ではありますが、実際に、カティー・サークがティークリッパーとして活躍するのは、この後、約7年間のみ。

ロンドンー上海間の航路(赤線がスエズ運河経由)
カティー・サークの進水が行われたのとほぼ時期を同じくした1869年11月17日には、地中海と紅海を結ぶスエズ運河が開通。これが、後に、ティー・クリッパーの終焉を促すこととなるのです。運河開通により、東への航海は、アフリカを回っていく必要がなくなり、距離の短縮になるのですが、紅海を吹く風というのは、もっぱら北西の風、さらに、地中海の風というのも読みが複雑なのだそうで、例え、アジアへの距離が短くなっても、スエズ運河は、帆船航海にはむかず、蒸気船の時代へと突入。蒸気船は、ティー・クリッパーの倍の量の紅茶を、このスエズ運河を通過して、約77日間で持って帰れるとあって、カティー・サークの処女航海の1870年には、59隻あったというイギリスのティー・クリッパーの数は、1877年には、9隻のみと激減。

そんなこんなで、1878年に、カティーサークが中国にたどり着いたときには、すでに購入できる紅茶は、ほとんど残っていないという状態になります。その後、3年間、カティー・サークは、ありとあらゆる、積めるものは、あちこちで積んで運ぶという、ペリカン便か、クロネコヤマトの宅急便のような仕事をすることとなります。日本の長崎にも赴いたことがあるそうです。もっとも、ティー・クリッパーとして活躍していた時代から、船主はできる限りの益を得るために、紅茶以外のものも、あちらこちらで色々積んでは降ろしと、配送を行っていたわけですが。

1883年から1895年にかけて、船主ジョン・ウィリスは、オーストラリアからのメリノ羊毛の輸入にカティー・サークを使用。昔は、羊毛と言えばイギリスでしたが、1870年までには、すでに、オーストラリアが世界最大の羊毛輸出国となっていたそうで、他のティー・クリッパーの中でも、職を変え、このオーストラリア羊毛業に携わっていたものも多かったようです。

カティー・サークが運んだ荷は多種多様。ピアノも!
シドニーに向けて、ピアノなどもカティー・サークで運ばれた、という展示物を見ながら、1993年のジェーン・カンピオン監督の映画、「ピアノ・レッスン」(The Piano)を思い出しました。あれは、舞台はオーストラリアではなく、19世紀のニュー・ジーランドでしたが、似たような感じで、イギリスからの移住者の使用のために、ピアノがこうして海を越えて運ばれて行ったのでしょう。

1895年、ジョン・ウィリスは、ついに、思い通りの利益が得られないカティー・サークを手放し、カティー・サークはポルトガルのリスボンを基点とした会社に買われ、名前も変更。しばし、リスボンからアフリカのポルトガル植民地、そして、ブラジルや合衆国南部に赴き、再びリスボンに戻る・・・という貿易航路に従事。

1922年に、一時的に、イングランド南部の港町ファルマスに修理のために停泊されていた折、引退したもと船長のウィルフレッド・ドーマン(Wilfred Dowman)は、名前も違い、マストの数も減り、姿も少々変わっているものの、「この船はカティー・サーク号だ」と気づく。彼は、修業時代の青年の頃、他の船に乗っていたときに、自分の船を颯爽と追い抜いて行ったカティー・サーク号の姿を、良く覚えており、この船をなんとか保存し、イギリスに残したいと思いつくのです。ラッキーな事に、彼の奥方キャサリンは、繊維業で財を成した懐の深いコートルード家の出身。夫妻は、カティー・サークの当時のポルトガルのオーナーを探り当て、かなりの金額で買い取り、同年10月、カティー・サークは、ポルトガルからファルマスへ曳かれてくる。ドーマン氏は、しばらくカティー・サークを子供たちに船乗りの技術を学ばせるための訓練用の船として使用。同時に、観光目的の一般市民への公開も始めます。

ついでながら、一時は失われた船、カティー・サーク号がイギリスに戻ってきたというこのニュースが話題になっていた際、ロンドンのワイン業者であったBerry Brothers and Rudd社は、アメリカでの禁酒時代が終わると同時に、新しいウィスキーブランドをアメリカ市場をターゲットに打ち上げようという計画を立てていた・・・さて、そのブランド名は何にしよう、と考えていた時、「そうじゃ、最近話題で、スコットランドで造船されたカティー・サークはどうだろう」となったのだそうです。ラベルには、帆を挙げるカティー・サークの絵を載せ。上のカティー・サークのボトルの写真は、左から、1923年、1955年、そして2011年のもの。ほとんど変わってないですね。

1936年のドーソン氏の死後、手入れをする人間がいなくなった船はテムズ川沿いのケント州グリーンハイズにあったThames Nautical College(テムズ航海学校)に、ドーソン夫人により、維持費のおまけつきで寄贈。第2次世界大戦を無傷で逃れたものの、おんぼろで、時代遅れとなった船は、船乗り学校の役にも立たなくなります。その後、カティー・サーク保護協会が設立され、ティー・クリッパーとして活躍した1872年当時の姿に修繕され、めでたく1954年の12月に、永住の地となるグリニッチでお披露目となるのです。

2007年の5月に、カティー・サーク炎上のニュースが入ったのは、今でも覚えています。もっけの幸いとはこの事で、カティー・サークは2006年の11月から、修理のために一般公開が中止されており、多くのオリジナルの木材も修繕のために別の場所にうつされていたため、この火災による、実際のオリジナルへの被害は5%くらいで収まったのだそうです。

修繕がすべて終わり、以前のようにテムズ川に停泊させる代わりに、船の下が見えるように、3メートル地上から浮かせるようにして展示されたカティー・サークが、観光アトラクションとして再オープンするのは2012年4月。この効果的な展示法で、早さを競ったティー・クリッパーが、いかに、水を切るようなスリムなボディーをしていたかわかります。船底の表面は、エボシガイがくっつかないように、銅60%、亜鉛40%の合金で覆われています。船の下には、ちょっとしたカフェがあり、カティーサークの黄銅の腹を見上げながら、私もここでランチしました。飲み物は、当然、コーヒーではなく、紅茶を注文して。

カフェとは反対端には、貿易船の船首像(figurehead)のコレクションも展示されています。カティー・サーク号の船首像、魔女ナニーを頂点にした、船首像の記念写真の様な配置、なかなか愉快です。


デッキ上には、乗組員が寝泊りした場所があり、キャプテンの部屋は個室で、隣には、立派なダイニングの様なものもありました。このお部屋には、綺麗な個室専用トイレもついています。

乗組員のベッド
中国との紅茶貿易期間のカティー・サークの船員は、27名。1880年にマストの長さが短くなると、必要人員も20人前後と減り。大方の船乗りが航海の度に採用されるため、イギリスの船として活躍した25回の航海のうち、カティー・サークに乗った船員は計658名ということ。ちゃっかり片道だけオーストラリアまで乗っていき、帰るのを拒み、オーストラリアに居残る船員もいたのだそうです。

帆船の旅はロマンをそそり、乗組員のベッドなども、更に昔の時代のハンモックなどに比べれば、快適な感じはありますが、ゆらゆら揺れる中、何か月もここで寝泊りは、やはりつらいですかね。私には、こうして動かない帆船の内部やデッキを歩き回って、快速で大海原を渡る自分を想像するだけで十分です。

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