ベリー・セント・エドマンズ

アビー・ガーデンズから大聖堂を眺める
サフォーク州、ベリー・セント・エドマンズ(Bury St Edumunds)は、瀟洒で、裕福、それでいてのんびりした、それは雰囲気の良い町で、ロンドンからの交通の便がもっと良ければ、私も、住みたい場所のひとつです。

サフォーク州の州都はイプスウィッチなのですが、もっと格式高いベリー・セント・エドマンズを州都にしたらいいんじゃないか、などという声が上がることもあり。町の紋章に書かれる、ラテン語のモットーは、"Sacrarium Regis, Cunabula Legis"。英語では、"Shrine of the King, cradle of the law(王の廟堂、法のゆりかご)"。

前者の「王の廟堂」とは、サクソン時代の、9世紀、イースト・アングリア王国の王、エドマンド殉教王が埋葬された場所であることを指し、後者の「法のゆりかご」のくだりは、しょーもない王様ジョン王の権力を何とか抑えようと、バロン(時の有力貴族)たちが、1214年に、ここに集まり、マグナ・カルタの作成のための会合を行った事からきています。

エドマンド王(エドマンド殉教王、841-869年)の治世は、デーン人などのバイキングによる襲撃が盛んにあった時代。エドマンド王も、侵入してきたデーン人により、捕らえられ、サフォークのHoxneという村で、殺された人物。(実際、エドマンド王が殺された場所がどこであったかには諸説があり、定かではありません。)彼の遺体は、当時は、Beodric's Worthと呼ばれた、この場所に運ばれ、イースト・アングリア王のシグバート(Sigbert)が、630年ころに設立した修道院に埋葬されます。エドマンド王の人生については、記録はあまり残っておらず、詳細は良く知られていないのですが、彼が殉教王と呼ばれるに至る伝説は有名です。

大聖堂の中にあるエドモンド殉教の絵
戦に敗れ、捕らわれた後、エドマンド王は、デーン人たちに、キリスト教を否定すれば、命は助けてやる、と言われるものの、王はそれを拒否。よって、エドマンドは、木に縛り付けられ、体中に矢を放たれ、後に、首をうたれて、殉教死。エドマンドのはねられた首は、ころころと、どこかの藪の中に転がり。後にエドモンドの忠臣たちが、王の頭を探しあてたところ、頭は、オオカミによって守られていた・・・というもの。

以後、殉教王として聖人となったセント・エドマンド(聖エドマンド)は、カルト的地位を獲得し、セント・ジョージがイングランドの守護聖人となる以前は、セント・エドマンドがイングランドの守護聖人としてあがめられていました。確かに、実在したかどうかも定かでなく、人種的にはおそらく中東系であったセント・ジョージよりも、セント・エドマンドの方が、イングランドの聖人には、ずっと、ふさわしいのですが。

11世紀には、修道院を中心として町が築かれ、セント・エドマンドを奉る祭壇を目当てに、多くの巡礼者が訪れ、町は栄える事になります。修道院の建物は、16世紀半ば、ヘンリー8世の修道院解散で、取り壊されて廃墟と化しますが、町は富裕な場所として存在を続け、後ににここを訪れたダニエル・デフォーなども、その洗練されて裕福な町人たちと、町の存在する美しい立地場所に言及しています。

アビー・ゲイト
14世紀半ばに作られたアビー・ゲートは、以前は、修道院を囲む壁の一部を構成しており、このゲートを抜けて、修道院跡地へと入ると、今、ここは、とても魅力的な、花壇と、廃墟があちこちに点在する、市民の憩いの公園、アビー・ガーデンズとなっています。

聖エドマンドが祀られていた昔の祭壇跡。このそばで、1214年に、ジョン王に反対するバロンたちが、ジョン王にマグナカルタに署名させることを、誓ったのだと言います。

修道院跡の敷地はかなり広く、在りし日の修道院は、ヨーロッパ屈指の規模をほこっていたそうです。

さて、アビー・ガーデンズをひとしきり散策した後、大聖堂へと足を運びました。この大聖堂は、以前は、修道院敷地内に11世紀に建てられた教会で、現在の身廊は16世紀初頭のもの。セント・ジェームズ教会と呼ばれる教区教会であったのが、セント・エドマンドベリー大聖堂として格上げされるのは比較的おそく、1914年。そして、この大聖堂の塔は、エドマンドの冠をイメージして、なんと2005年に作られたものなのです。それまでは塔がなかったわけですが、大昔からこの形で存在し続けたように、しっくりと、うまく建設されています。まだ、内部は、今も、色々お色直しが進んでいるようで、身廊の一部には、足場が組まれていました。

塔を大聖堂内部から仰ぎ見ると、こんな感じ。塔の上に登るツアーが週に1回あるようなのですが、この日はやっておらず、残念。案内をしてくれたおじさんが、「この塔から、アビー・ガーデンズを眺めると、昔の修道院が、どんなに広かったかがわかるよ。」

このおじさん、更に、「今、レゴで、大聖堂の模型を作っている最中だけど、レゴの一片を1ポンドで買わない?その一片を自分でつけて作成に貢献できるよ。」と、巧みに誘われました。聖堂内で、レゴの模型が飾られているのを、すでに目にしていたのですが、これよりさらに、小さいブロックを使用した、手が込んだものが、現在進行形で、作成されており、こうして観光客からレゴの1ブロックにつき、1ポンドで献金を頼んで、聖堂内のお色直しの資金としているようです。おじさんは、「ただ単に、1ポンドくれと、入ってきた人に頼むより、こうやって、何かを作るのに参加できるようにした方が、いいでしょ。」・・・確かに。

大聖堂のレゴ・モデルづくりに貢献
のせられて、友達と、1ポンドずつ払い、それは小さく、薄い、まるでマイクロチップのような、レゴのプロックをはめ込みました。こんなに小さくては、完成後には、いったい、どこの部分に貢献したんだかわからないでしょうが、まあ、余興にもなり楽しかったです。今思うと、5個くらい買ってもよかったかなと。

大聖堂のレゴ・モデル・・・完成まで先は長い
レゴ模型は、まだまだ、完成にはほど遠く、床とキッチンの一部が終わっているくらい。あと1年くらいかかるんじゃないかという話です。1年たったら、もどって、完成品を見、ついでに塔のツアーをするという手もあります。

大聖堂を出て、アビー・ガーデンズとは反対側に、エドマンドとオオカミの像がありました。背景の、くずれかけたアリの巣の雰囲気のある有機的な建物は、修道院の廃墟を使用しているのでしょうが、なんとなくガウディーの建物を彷彿とさせるものがありました。

大聖堂のすぐそばにあるセント・メアリー教会
ここから更に、墓地を隔ててすぐの場所に、また別の教会、セント・メアリー教会があります。大聖堂に負けず劣らずの立派な建物で、1290年から1490年にかけて、修道院の一部として敷地内に建築されたもの。「当教会は、イングランドの教区教会の中では3番目の大きさ、身廊は2番目の長さ、西側の窓は1番の大きさなのじゃ」と、町の案内に堂々と記されています。

この教会は、ヘンリー8世の妹のメアリー・チューダー(Mary Tudor)が埋葬されていることで知られます。彼女の人生はなかなか面白いので、少々脱線して記載しておきます。

メアリー・チューダーとチャールズ・ブランドン結婚式の肖像
メアリー・チューダーは、ヘンリー8世のお気に入りの妹であったそうで、彼の有名な船メアリー・ローズ号の名は、この妹の名から取ったもの。とは言え、中世の高貴な女性は、政略政治のコマであることに変わりなく、1514年、18歳のメアリーは、イングランドとフランス間の平和協定の一環として、52歳で、病身のフランス王ルイ12世に嫁がされています。メアリーは、すでにヘンリー8世の狩猟仲間でもあった、サフォーク公、チャールズ・ブランドン(Charles Brandon)に思いを寄せていたという事で、フランス王が死んだ後は、好きな男性と結婚していい、というカラの約束をヘンリーから取り付け、フランス王家へ嫁ぐ。案の定、1年とたたぬうちにルイは死に、フランシス1世がフランス王座に就くのです。未亡人となったメアリーをイングランドへ連れ帰るべく、ヘンリーによって、フランスへ派遣されたのは、チャールズ・ブランドン。メアリーは、自分を迎えに来たチャールズ・ブランドンに、また他の好きでもない男に政略結婚させられる前に自分と結婚してくれと頼み、二人は、イングランドへ帰国する前に、密かに結婚。これを知ったヘンリーは激怒するものの、二人から罰金を取り、またメアリーがルイとの結婚の際に受け取った高価な贈り物の数々を、ヘンリーに受け渡すことによって、許され、今度はグリニッジで、めでたく、ちゃんとした結婚式を挙げるのです。その後は、サフォーク州の荘園に住みます。

メアリーは、ベリー・セント・エドモンズで模様されていたフェア(Bury Fair)の常連でもあり、サフォークの住民たちには人気であったという事。1533年に亡くなり、ベリー・セント・エドマンズ修道院に埋葬されるに至ります。なんでも、この葬儀には、ヘンリーは、アン・ブリントの結婚後のお祭り騒ぎに忙しく出席せず、だんなのチャールズ・ブランドンも、次の(4人目の)嫁さん探しに忙しく出席しなかったというのです。そして、後に14歳の女性と再婚。名目上は、神様を信じていた時代の人間の方が、ゲンキンだったりするものです。というか、人生は不安定で短いので、どうにもならない事には時間を費やさない・・・というのが根本にあったのかもしれません。ので、メアリー・チューダーの葬儀での喪主は、娘のフランシス・ブランドン(Frances Brandon)・・・彼女は、後に、9日の女王として知られる、レーディー・ジェーン・グレー(Lady Jane Grey)の母ですので、メアリー・チューダーは、ジェーン・グレーの母方の祖母に当たります。ジェーン・グレーなどは、究極の、悲劇の、政治の駒ですが、メアリー・チューダーは、たとえ夫が、自分の死後にとっとと14歳の少女と結婚してしまっても、サフォークで送った半生は、一応は愛する男を夫とし、のんびりとした、それなりに良い人生ではなかったのでしょうか。

私は、大聖堂より、昔からの雰囲気がいまだ流れる、こちらのセント・メアリー教会の方がよかったですね。

木造の重厚なハマービームの屋根には、天使たちが飛び。

さて、大聖堂とセント・メアリー教会を見た後は、少々、町も散策しないと。

1120年から1148年にかけて建築されたノルマン朝の塔は、修道院敷地内の建物で、一番昔に近い姿で残っている建物だという事。アビー・ゲイトと同様、町から、修道院敷地内に出入りする門です。

ディケンズも泊まったエンジェル・ホテル
修道院跡地から道路を隔てて向かいは、駐車場となっていますが、そのむこう立つ、蔦に覆われた建物は、エンジェル・ホテル。これは、チャールズ・ディケンズの小説、「ピクウィッククラブ」(The Pickwick Papers)にも登場し、ディケンズ自身も泊まったことがある有名なホテルです。もっと最近では、アンジェリーナ・ジョリーも、ここにお泊りしたのだとか。友人も、一度ここに泊まったことがあるそうで、わりと良かったと言っていました。

また、この町には、この国で一番小さいというパブ「The Nutshell、ザ・ナットシェル」があります。座る場所はあまり無い内部ですが、比較的混んでいて、立ち飲みしている人も数人。ちらっと中をのぞくと、

天井にはお札がたくさんはってあり、なぜか、フグが釣り下がっていた・・・。飲み物は頼みませんでしたが、かかっていたTシャツを、だんなの土産に買っていけば良かった、と後から少々後悔。

Moyse's Hall Museum
Moyse's Hall Museumという、町の博物館の入っている建物は、ノルマン時代の1180年に遡り、イーストアングリア地方では最も古い街中の家であるという事。城や塔などは別として、ノルマン時代建設の民家、というもの自体があまり残っていないそうで、それだけでも貴重な存在。残念ながら、時間切れで、今回は、この博物館は見ずじまいでしたが。

という事で、観光の見どころは、町の中心にコンパクトに収まっていますが、すべてを丁寧に見て回ろうと思うと、わりと時間がかかります。エンジェル・ホテルあたりに一泊して、ゆっくり見るのがいいかもしれません。近郊には、かなり以前に、当ブログでも紹介したイックワースの屋敷などもありますので、併せて見学するのも良し。もっとも、イックワース見学も、敷地が広いので、それだけで半日はかかります。

ロンドンからベリー・セント・エドマンズへ、電車で行く場合は、キングス・クロス駅から約1時間40分。リバプール・ストリート駅からは約2時間。双方、一度乗り換えが必要となります。駅から町の中心までは徒歩15分ほど。ちなみに私たちは、サドベリー駅から、ラべナムへ行った時と同じ、2階建てのバスに乗って行きました。

なお、日本語のカタカナ表記で、エドンズ、とするか、エドンズとするか、少々迷いましたが、とりあえず、今回は、エドマンドとエドマンズとして、マの字で統一しておきました。

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