グリンリング・ギボンズ

オール・ハローズ・バイ・ザ・タワー教会内洗礼盤の蓋
グリンリング・ギボンズ(Grinling Gibbons 1648-1720)は、イギリスの木彫りを専門とした彫刻家です。彼の掘った動植物や果物、楽器、その他もろもろは、本物そっくりで、それは繊細にできており、天使やプッティなどの子供の顔に至っては、息をしていて、動き出すのではないか、と思うくらい。

このグリンリングという変わった名前は、日本人にとっては、大変、やっかいな発音しにくいものです。最初の「リ」はRで、後の「リ」はLですから!教会や、貴族の邸宅で、息をのむような木彫り彫刻に対面し、これはグリンリング・ギボンズかな、と思ったら、私は係りの人に、「これ、ギボンズですか?」と、何食わぬ顔で、ファースト・ネームは言わずに済ませます。木彫りを指して、ギボンズか、と聞けば、大体みなグリンリング・ギボンズの事だとわかっているでしょうし。

先日、ロンドン塔のわきに立つ、オール・ハローズ・バイ・ザ・タワー教会(All Hallows by the Tower)を訪れた時、ギボンズ作の、洗礼盤の蓋(上の写真)が飾られており、しばし、見入ってしまいました。これが木で彫ってあるなんて、信じがたい。当教会は、他にも何かと、見どころが多いのですが、これが、私の一番のお気に入りアイタムです。

ケンジントン宮殿のグリンリング・ギボンズの作品のクローズ・アップ
イギリス人の両親の間に生まれたものの、商人であった父が、活気に満ちた黄金期のオランダに住み、仕事をしていたため、グリンリングは、オランダに生まれ育ちます。彫刻家としての修行を受けたのもオランダで、当時のオランダの本物そっくりの果物や植物の描写、更には、イギリスにはまだ伝わっていなかった、北ヨーロッパ伝統の、深い木彫り彫刻の技も、この時に取得。彼がオランダで育ったというのは、後の職人としてのイギリスでの成功にかなり影響しているようです。また、イギリスに移った後も、一生、オランダ訛りが抜けなかったそうです。グリンリングという名を発音するのに苦労する、日本人訛りの抜けない私も、えらそうな事は言えませんが。

ケンジントン宮殿内
1667年、19歳のグリンリングは、1666年のロンドン大火直後で、一面焼け跡となった町を立て直すために、多くの職人を必要としたロンドンへやってくる。最初の頃は、家賃の安いロンドン南東部のデプトフォード(Deptford)で細々と、船のための彫り物を行っていたようですが、彼の才能がいかに発見されるに至ったかには、有名な逸話があります。

1671年、日記作家として、サミュエル・ピープスなどと同じように、当時の社会の描写を残したジョン・エヴリン(John Evelyn)が、ある日、デプトフォードを歩いており、ふと、ある長屋の窓をのぞき込むと、青年がろうそくの明かりの下で、木を彫っていた。その木彫りの作品(キリストが十字にかかっているもの)のすばらしさにエヴリンは仰天し、エヴリンは、ギボンズを、当時、セント・ポール大聖堂をはじめ、あちこちの教会の再建に忙しいクリストファー・レンに紹介し、やがて、チャールズ2世に推薦した・・・というもの。

この頃のギボンズの作品は宗教的で、世間の意見を気にして、あまりにカソリック的であると捕らえられかねない事物に神経質になっていたチャールズ2世は、すぐには、ギボンズに注文を行わなかったものの、やがて、ウィンザー城の改築で、ダイニングルームを飾るのに、ギボンズに、木彫り装飾を依頼。宗教からは全く離れた、ダイニングルームにふさわしい、蟹、ロブスター、果物、花をちりばめた見事な木彫りが、ウィンザー城でお目にかかれます。

イギリスでの木彫り彫刻はそれまで、多くの場合、硬いオーク材を使っていたため、うす彫り。ギボンズは、素材に、もっと優柔性のシナノキ(lime tree)を使用。掘りたての時は、色は白。木材を深く彫り込んだ、ギボンズのような作品は、それまでイギリスではほとんどお目にかからなかったものであったそうです。また、全体を、ひとつの大きなブロックから掘り起こすのではなく、いくつものブロックを使用して、それぞれの要素を彫り込み、後で、それを重ねていく、という手法を取っています。

セント・ポール寺院内聖歌隊席
やがて、クリストファー・レンも、セント・ポール寺院のクワイヤー(聖歌隊席)部をギボンズに依頼。

こちらはそのクローズ・アップ。

チャールズ2世、亡き後も、ジェームズ2世、そして名誉革命でオランダからやって来たウィリアム3世からも、いくつかの依頼を受け、ギボンズの作品は、ハンプトン・コート宮殿ケンジントン宮殿でもおめにかかれます。

一時は、大変もてはやされ、流行したギボンズの装飾であったものの、17世紀も終わりに近づくと、流行も変わりはじめ、華やかなバロック風の装飾より、もっと質素でシンプルなものが好まれるようになってくる。ファッショナブルでなくなるとともに、ギボンズが請求できる金額はだんだん少なくなり、また木彫りの仕事も少なくなって行ったそうで、人生の終わりには、石での記念碑や棺などの仕事が主となったようです。彼の石の作品は、生き生きした彼の木彫りとは違い、その質は今一つであったそうで、文句を受ける事、悪評を受けることも多く、1721年、73歳で亡くなった時は、かつての名声も消え、セント・ポール寺院、ウェストミンスター大聖堂での埋葬どころか、セント・ポールはセント・ポールでも、もっとささやかなコベント・ガーデンのセント・ポール教会に埋葬。そのまま、誰も振り返らなければ、すっかり歴史に忘れられた存在となったかもしれません。

ギボンズが死んだときに、3歳だったという、ホレス・ウォルポール(Horace Walpole)。ゴシックや、古い城などがお好みで、おとぎの城のようなストロベリー・ヒル・ハウスを建設し、社会的に影響力のあった彼が、ギボンズの作品をこよなく愛したことが、ギボンズが見直されるに至った原因のひとつであるようです。なんでも、ウォルポールは、ギボンズが、レース製の首に巻くクラバット(幅の広いネクタイ)を模して掘ったもの(上の写真、現在ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館蔵)を所有しており、大切な客人などが館を訪れるときに、余興に、それを本物のクラバット同様、自分の胸に当てて登場したりしていたそうです。

という事で、ロンドン内でも、グリンリング・ギボンズを見れる場所がいくつかありますので、彼のびっくりたまげたの、作品を、機会があったらじっくり鑑賞してください。

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