カンタベリー大聖堂

5世紀前半、イングランドのローマ時代が終わり、ローマ軍が去っていくと、大陸ヨーロッパから、今度は、ゲルマン系の三つの部族、アングル人、サクソン人、ジュート人などが徐々にイングランドに流れ込み、いわゆるアングロ・サクソン時代の到来となります。それぞれの地に、それぞれの集落が確立され、ひとつの集落が、別の集落を飲み込み、拡大、やがて、イングランド内に、いくつかの王国が確立します。イングランドには、すでにローマ時代後半からキリスト教信者がいたのですが、ローマの撤退、そして、異教のアングロサクソン人の到来で、灯ったばかりのキリスト教の明かりは、イングランドからは、一時的に消え失せるのです。

現カンタベリーを含むケント州一帯は、ケント王国となり、約589年に、このケント王国の王座に就くのは、エゼルベルト王(Ethelbert)。彼は、現フランスを中心に勢力を伸ばしつつあった、やはりゲルマン系の王国、フランク王国のお姫様、ベルタ(Bertha)を妻に迎える。この際の、結婚の条件のひとつとして、キリスト教信者であったベルタが、ケント王国内でも、続けて信教を行う事ができるというもの。エぜルベルト王は、妻の祈りの場として、小さな聖マーティン教会(St Martin)を与えます。ベルタ妃は、この教会でフランク王国から連れて来た司祭と共に、ささやかにキリスト教の礼拝を行う。

ローマ法王グレゴリウス1世(Pope Gregory I)は、ベルタの影響もあってか、ケント王国のキリスト教への改宗の可能性を読み、596年に、アウグスティヌス(Augustine、英語読みはオーガスティン)と40人の僧たちを、布教のために、ケントへ派遣することを決めます。法王の指令を受け、ローマから出発したはいいが、わけのわからない言葉をしゃべる、野蛮人の住む辺境地・・・そんな所へ布教に出かけるのは、大変なだけで意味がないのではないか・・・と僧たちの心は重く、アウグスティヌスは一時引き返し、法王に再考を促したそうですが、法王は頑として譲らず。通訳を従えて、僧たちはしぶしぶと、野蛮の地、ブリテン島へと向かう事にあいなるのです。

597年5月に、ケント王国にたどり着き、エゼルベルト王に迎えられたアウグスティヌスの一団は、とりあえずは、ベルタ妃のセント・マーティン教会に拠点を置いて、宣教活動を許されるのです。その後すぐ、王自身も、キリスト教に改宗し、イングランド初のキリスト教徒の王様となります。この改宗は、信仰自体よりも、ヨーロッパの一大組織から王として認められる、という政治的意図が強かったようですが。聖マーティン教会のすぐ西側の土地にアウグスティヌスは、聖オーガスティン修道院(St Augustine's Abbey)を設立。

すでに598年の夏には、法王は、約1万人ものケントの住民たちがキリスト教に改宗した旨の手記を残しているそうで、ミッションは大成功。601年に更なる第2弾の僧たちを、書物、衣類、その他もろもろの必需品と共に、ケント王国に送っています。

聖マーティン教会とオーガスティン修道院は、カンタベリーの中心地を囲む市壁の外にあるのですが、アウグスティヌスは、市壁内に居住地と、新たな司教座としての聖堂のための土地も与えられます。これが、現イギリス国教会の総本山となる、カンタベリー大聖堂のはじまりで、アウグスティヌスは、初代カンタベリー大司教となります。大聖堂設立は602年のこと。

と前置きが長くなりましたが、先日、初めて、カンタベリー大聖堂を訪問しました。かつては無料だったと思うのですが、この大規模の聖堂の維持費の資金繰りのためか、今は入場料(現段階で12ポンド)が必要です。聖堂の敷地内の入り口、クライスト・チャーチ・ゲイト(Christ Church Gate)前に列ができていて、ここで並び、ゲート内にある切符売り場で、チケットを購入。

敷地内に入ると、建物の西側は修正工事が行われているのか、足場などが組まれていました。たしかに、かなり以前に、ユネスコの世界遺産だというのに、こんなにボロがきていて、どうしよう・・・なんていうような内容のニュースを見た記憶があります。そんなこんなで、入場料を導入したのかもしれません。南の入り口から聖堂内へ踏み込むと、「ウェルカム!」とたすき掛けをした、ボランティア風のおじさん、おばさんが迎えてくれ、ここで、日本語の簡単なパンフレットなども手渡してもらいました。

大聖堂内地図、上が東、下が西
これが、パンフレットに載っていた内部の地図。見どころは印がついています。大体において、教会や聖堂の入り口は西や南、祭壇などの大切な部分は東にあります。この大聖堂も同じ。現在の建物の土台となるのは、征服王ウィリアム1世の後のノルマン朝時代のもので、それから、時代と共に、改築、増築が積み重ねられ、今の姿となります。ですから、聖堂の中、ノルマン時代のロマネスク、初期のゴシック、最盛期のゴシックなど、異なったスタイルに遭遇することとなります。

身廊部の屋根も修理中のようで、足場に覆われていました。

中世にカンタベリーを訪れた、多くの巡礼者たちの最終目的は、前回の記事に書いた、12世紀後半のカンタベリー大司教、トマス・ベケット(聖トマス)の殉教の場と、彼を奉っていた廟。身廊の北側をずっと歩いていくと、トマス・ベケットが4人の騎士により、壮絶な最後を遂げた殉教の場にたどり着きます。壁には剣が飾られ、床に「Thomas」の名が刻まれ。

聖歌隊席と身廊のつなぎ目部分の教会の中心部にそそり立つのがベルハリータワー。下から仰ぐと、きれいです。

豪華なスクリーンを抜けると、

聖歌隊席からトリニティー礼拝堂、コロナを望む
クワイヤ(聖歌隊席)。クワイヤから、トリニティー礼拝堂、そして東端の半円形をしたコロナ(Corona)と呼ばれる部分は、トマス・ベケット殺害の4年後の、1174年に起こった大聖堂の大火災で、内部がほとんど消失してしまった後、建て直されたもの。クワイヤから東へ進むに従い、幅が細くなっていく感じが、ちょっと変わっていて面白いです。

まずは、フランスからやって来たウィリアム(William of Sens、サンスのウィリアム)によって建設開始。彼はフランスで新たに始まった建築様式であるゴシックを、当聖堂の建設に導入します。よって、カンタベリー大聖堂は、それまでの、内部が暗い、丸いアーチのロマネスク様式とは異なり、天井を高くし、ステンドグラスのはめ込まれた長い窓から明かり降り注ぐ、ゴシック様式が、イギリスではじめて用いられた聖堂となるのです。サンスのウィリアムは、運悪く、クワイヤ部をほぼ完成させた後の、1178年に、高い足場から転落して、動けなくなり、フランスに帰国、2年後に亡くなります。このサンスのウィリアムにとってかわって、残りの建築を管理したのが、アシスタントであった、やはりウィリアムと言う名のイングランド人(William the Englishman)。この人については、イングランド出身で、小柄だったという事以外、ほとんど知られていないそうですが、立派な仕事を残してくれました。トリニティー礼拝堂、コロナを1184年には完成させたのだそうです。

トリニティー礼拝堂の西側には、カンタベリー大司教の椅子である、聖オーガスティンの椅子(St Augustine's Chair)が置かれています。司教の椅子は、カテドラ(Cathedra)と呼ばれたそうで、カテドラの置かれる教会・・・司教座教会が、カテドラル(Cathedral 大聖堂)と呼ばれるようになったということです。現在の聖オーガスティンの椅子は、13世紀のものとされ、7世紀のオリジナルのコピーだという事です。

ベケット廟があったトリニティー礼拝堂
新しい礼拝堂もできたところで、当大聖堂の一番大切な宝物・・・それまで、地下のクリプトに埋葬されていたトマス・ベケットの棺を、1220年に、トリニティー礼拝堂の中心にに移動させています。上の写真の、右手下の方の床に、ろうそくが立っていますが、ここが、かつて聖トマスが祀られていた場所。国内のみならず、海外から訪れた巡礼者たちが、ぞろぞろと身廊を進み、階段をあがり、この場にたどり着き、聖トマスに祈りや願いを捧げたわけです。トリニティー礼拝堂を取り巻くステンドグラスには、聖トマスにまつわる奇跡などの様子が描かれ。建設直後、今まで見た事もないような建物に足を踏み入れた巡礼者たちは、「おお、これはすごい!」と感銘したことでしょう。

ああ、それなのに・・・例によって例のごとく、1538年、ヘンリー8世の修道院解散の際、トマス・ベケットの廟は破壊され、彼の死体も、どこへ行ったのかわからない、燃やされてしまったのではないか、という話です。よって、今、ここには、「ベケットの遺体は、1220年から1538年まで、ここにあったよ。」と場所を知らせる、ろうそくの明かりが揺れるだけ。

ヘンリー2世ができなかった、ローマ法王と教会の力からの脱出を、イギリス国教会確立によって成し遂げたヘンリー8世。それもこれも、離婚して若い嫁さんと再婚したかったばっかりに。彼と、息子のエドワード6世の時代に、カソリック色が強い、聖人の廟などは、どんどん破壊されたわけですが、特にトマス・ベケットは、王の力に逆らった人物でもあったため、容赦なく壊されてしまったのでしょう。庶民には人気の聖人だったのに。ステンドグラスが残っただけでもみっけものです。

大聖堂内には、王族も二人埋葬されており、トリニティー礼拝堂の北側には、ヘンリー4世と彼の妃の棺。

南側には、エドワード3世の長男で、武勇で知られながら若死にしてしまったエドワード黒太子(Black Prince ブラック・プリンス)の棺があります。ヘンリー4世には、叔父にあたる人物。なんでも、ヴィクトリア朝、ロマンチックなアイデアを持った歴史家たちが、黒太子と呼ばれるのだから、鎧は黒の方がよいのではないか、と、もともと金色の彼の像を、わざわざ黒く塗ったという話を読んだことがあります。今は、この時の黒塗料をはぎ取って、金色に戻っています。やれやれ。このブラック・プリンスと言うあだ名は、鎧が黒かったというより、恐れを知らない勇者ぶりを指したのだとか、また一説によると、残忍なその性格を指したとかいう話です。彼が父王より、先に死んでしまったため、エドワード3世亡き後、王座は、黒太子の息子、10歳のリチャード2世へと渡ります。大聖堂の現在の身廊部は、リチャード2世の時代に着工が始まり、15世紀初頭、ヘンリー4世の時代に完成しています。

コロナは、聖堂の東端にあります。殺害の際に切り落とされた、トマス・ベケットの頭のてっぺんが、この場所に祀られ、冠を思わせるその形から、コロナと呼ばれていたという話です。ベケットの頭のてっぺんも、ヘンリー8世の命で、どこかへ消えてしまったのでしょう。

この東部分を外から見るとこんな感じです。

ノルマン朝時代に建てられたロマネスク風建築部が見られる地下のクリプトは、写真禁止でしたので、写真はありません。

カンタベリー大聖堂は、修道院解散以前は、クライスト・チャーチ修道院と呼ばれたベネディクト派修道院の一部であり、教会の北側に、修道僧たちが毎日の営みを過ごした部分があります。こちらは回廊。

ちなみに、修道長というのは、その修道院の経営と僧侶の管轄を行う人物で、司教は、ひとつの聖堂、教会にかぎらず、与えられた教区内のすべての長。上記の通り、司教座(カテドラ)のある教会が、大聖堂(カテドラル)と呼ばれ、その中でも、カンタベリー大司教は、イングランド全土の教会制度の長を指します。

僧たちが話し合いなどを行った、見事な天井のチャプターハウスも見学。

修道院には、配水システムで設置されていたそうで、かつてのウォーター・タワーも、聖堂北側の外から眺められます。

修道院僧たちの寝泊りをする場所であった跡地は、今はハーブ園として、観光客には、良い香りの中で日向ぼっこをしながらくつろげる、ちょっとした休憩場所になっています。ここで、サンドイッチをぱくついている人もいました。

過去いくつかの大聖堂を訪れて、それらと比較し、カンタベリー大聖堂の建物自体を見て、最も美しい、最もすばらしいとは思いませんが、この聖堂の価値は、とにかく、イングランドという国がまだできあがる以前に、ローマからの布教が始まった地であるという由緒正しき血統(?)と、聖人界の花形であったトマス・ベケット廟への巡礼の歴史、イギリスでのゴシック様式の始まりの場である事、イギリス国教会の総本山である事。ついでながら、過去訪れた大聖堂の中で、私が、建物と、周辺の雰囲気で、ぴか一の感銘を受けたのは、今のところ、サマセット州のウェルズ大聖堂です。

カンタベリー3つの世界遺産

さて、カンタベリーの世界遺産は、この大聖堂を入れて3つ。他の2つは、冒頭に書いたエゼルベルト王の妃ベルタが信仰を行った聖マーティン教会と、アウグスティヌスが設立した聖オーガスティン修道院。双方とも、カンタベリー市壁の東側外にあります。壁の外・・・とは言っても、大聖堂から歩いて、さほど時間はかかりません。

聖オーガスティン修道院跡
現在は、イングリッシュヘリテージによって経営される聖オーガスティン修道院。ヘンリー8世の修道院解散の結果、今は、あまり残っているものもありません。かつては、死体を市壁の中に埋葬するという事をしなかったため、聖オーガスティン修道院は壁の外に設立されたそうで、ここは、初期のカンタベリー大司教、そしてケント王国の王たちの埋葬場所ともなります。

小さな聖マーティン教会は、聖オーガスティン修道院跡から、更に東に行ってすぐですが、開いている時間が比較的限られているので、この内部の観光をしたい際は、時間を見てから行った方がいいでしょう。私たちは、時間切れで、見ずじまいに終わりました。現在まで、ずっと使われ続けて来た、最も古い教区教会です。

最後に、カンタベリー及びケントは、ローマからのキリスト教の再布教が開始された場所ですが、時期をほぼ同じくして、アイルランドからの僧侶たちも、ローマとは細部に違いがある独自のキリスト教を、イングランドの別の場所における布教活動で、再導入していました。そちらについては、以前の記事、「イギリスで一番古い教会」を参照ください。

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