チューダー王朝
過去のイギリスの王朝の中で、知っている王朝の名を挙げてください、と言われた時、海外でも、圧倒的に知っている人が多いのが、チューダー王朝(The Tudors)ではないでしょうか。日本語ではテューダーとカタカナ表記する事もあるようですが、ここではチューダーとしておきます。
6人の妻を持ったヘンリー8世や、ヴァージン・クウィーンのエリザベス1世を主人公にした、ドラマや映画がそれは沢山作られていますから。また、ロンドン塔やタワーヒルで、幾人かの著名人が処刑された、そしてチューダー朝後期には、文豪シェイクスピアが現れたのも手伝い、尚更インパクトが強いのかもしれません。という事で、チューダー(テューダー)王朝について、簡単にまとめておくことにします。
チューダー王朝は、ボズワースの平原で、ヘンリー・チューダーがリチャード3世をやぶり、ヘンリー7世として君臨する1485年から、子供を残さなかったエリザベス1世が死去する1603年までと約120年間続きます。その間の君主は、計5人(ジェーン・グレイを数えると6人)。
ヘンリ―7世(1485-1509)
ヘンリー8世(1509-1547)
エドワード6世(1547-1553)
ジェーン1世、ジェーン・グレイ(1553)
メアリー1世(1553-1558)
エリザベス1世(1558-1603)
上の絵は、ホワイトホール壁画(Whitehall Mural)と呼ばれる、ヘンリー8世が、宮廷画家ハンス・ホルバインに1537年に描かせたホワイトホール宮殿の実物大の壁画の、18世紀の水彩画コピーです。本物は、ホワイトホール宮殿が17世紀後半に火事になった時に焼失しています。
上方に立つのは、ヘンリー7世と妻のエリザベス・オブ・ヨーク。親戚同士のランカスター家とヨーク家が、王座をかけて戦い続けたばら戦争の終結が、ボスワースの戦いですが、ランカスター家(赤薔薇)のヘンリー・チューダーは、ヨーク家(白薔薇)のリチャード3世から、武力で王冠を取ったものの、血筋的には、王座を継ぐには、いささか血統書付きとはいかぬものがあった。このため、ヨーク家のエドワード4世(リチャード3世の兄)の娘である、エリザベスと結婚し、これで少々正当性を持たせ、赤薔薇と白薔薇を合体させてのチューダー王朝を開始。よって、チューダー家の紋章は、赤薔薇の上に白薔薇を重ねた、チューダー・ローズです。ただし、ヘンリー7世は、最初の10年間は、やはり不満の残るヨーク家の人物とその忠臣たちによる、反乱などを抑えるのに、苦労しています。
が、ヘンリー7世の幸運は、子宝に恵まれ、アーサーとヘンリーという二人の王子が幼少期に命を落とすことなく成長し、王朝の継続を確かなものにできた事。俗にいう、Heir and Spare(エア・アンド・スペア、世継ぎとおまけ)というやつで、正妻との間に、最低2人、男児がいると、もし、世継ぎに何かあっても、おまけが、後を継ぐことができる、まあ保険みたいなものですね。実際、エアであったアーサーは若死にしてしまうので、スペアであったヘンリーが無事、ヘンリー8世として後を継ぎます。
ホワイトホール壁画内、ヘンリー7世の下には、ヘンリー8世が、腰に手を据える、お馴染みの、おおいばりポーズで立っています。その横には、3番目の妻のジェーン・シーモア。絵が描かれていた段階では、彼女は、エドワードを身ごもっていたのではないかとされますが、無事、世継ぎを生んだ彼女は、産後間もなく死亡。
真ん中に描かれている記念碑には、ヘンリー7世はすばらしい王であったが、ヘンリー8世は更にすばらしい、と、こちらも、やはり、おおいばりの記述が書かれてあるとの事。
上の絵は、1545年に描かれた、ヘンリー8世の家族(The Family of Henry VIII)。真ん中にヘンリー、左は世継ぎのエドワード(後のエドワード6世)、そして右手には、もう死んでしまっているジェーン・シーモア。この絵の描かれた当時のヘンリーの妻は6番目のキャサリン・パーであったのですが、やはり世継ぎを残した女性が、6人の嫁さんたちの中でも、ヘンリーにとっては一番重要であったのでしょう。
更に左側に立つ女性は、最初の妻キャサリン・オブ・アラゴンの娘のメアリー(後のメアリー1世)、右側に立つのが、2番目の妻アン・ブリンの娘エリザベス(後のエリザベス1世)となります。
チューダー王朝時代の、イングランドにとって、一番大きな出来事は、やはり、ヘンリー8世が、アン・ブリンと結婚したいばかりに、ローマから決別をして、王を長とするキリスト教会である、イングランド国教会が確立された事でしょうか。今まで、ローマ法王を絶対とするカソリックのキリスト教というもので繋がれていた大陸との絆が切れ、独自の展開を見せていく事になります。
また、王朝が始まった当時は、まだ、ヨーロッパの大国、スペインや、神聖ローマ帝国、フランスなどに比べ、2軍的イメージのあったイングランドが、軍艦の建造に余念が無かったヘンリー8世の時代から、後に、海の帝国となる下地が築かれて行きます。やがては、インドを支配する事となるイギリス東インド会社が、エリザベス女王から特許状を得るのが1600年。また、エリザベスの時代に、上記シェイクスピアの活躍が始まり、イギリスのルネサンス文化が開花となります。
いずれにせよ、我々が、過去のイングランドを思う時、そのイメージは、このチューダー王朝によるところが多い感じです。
6人の妻を持ったヘンリー8世や、ヴァージン・クウィーンのエリザベス1世を主人公にした、ドラマや映画がそれは沢山作られていますから。また、ロンドン塔やタワーヒルで、幾人かの著名人が処刑された、そしてチューダー朝後期には、文豪シェイクスピアが現れたのも手伝い、尚更インパクトが強いのかもしれません。という事で、チューダー(テューダー)王朝について、簡単にまとめておくことにします。
チューダー王朝は、ボズワースの平原で、ヘンリー・チューダーがリチャード3世をやぶり、ヘンリー7世として君臨する1485年から、子供を残さなかったエリザベス1世が死去する1603年までと約120年間続きます。その間の君主は、計5人(ジェーン・グレイを数えると6人)。
ヘンリ―7世(1485-1509)
ヘンリー8世(1509-1547)
エドワード6世(1547-1553)
ジェーン1世、ジェーン・グレイ(1553)
メアリー1世(1553-1558)
エリザベス1世(1558-1603)
上の絵は、ホワイトホール壁画(Whitehall Mural)と呼ばれる、ヘンリー8世が、宮廷画家ハンス・ホルバインに1537年に描かせたホワイトホール宮殿の実物大の壁画の、18世紀の水彩画コピーです。本物は、ホワイトホール宮殿が17世紀後半に火事になった時に焼失しています。
上方に立つのは、ヘンリー7世と妻のエリザベス・オブ・ヨーク。親戚同士のランカスター家とヨーク家が、王座をかけて戦い続けたばら戦争の終結が、ボスワースの戦いですが、ランカスター家(赤薔薇)のヘンリー・チューダーは、ヨーク家(白薔薇)のリチャード3世から、武力で王冠を取ったものの、血筋的には、王座を継ぐには、いささか血統書付きとはいかぬものがあった。このため、ヨーク家のエドワード4世(リチャード3世の兄)の娘である、エリザベスと結婚し、これで少々正当性を持たせ、赤薔薇と白薔薇を合体させてのチューダー王朝を開始。よって、チューダー家の紋章は、赤薔薇の上に白薔薇を重ねた、チューダー・ローズです。ただし、ヘンリー7世は、最初の10年間は、やはり不満の残るヨーク家の人物とその忠臣たちによる、反乱などを抑えるのに、苦労しています。
が、ヘンリー7世の幸運は、子宝に恵まれ、アーサーとヘンリーという二人の王子が幼少期に命を落とすことなく成長し、王朝の継続を確かなものにできた事。俗にいう、Heir and Spare(エア・アンド・スペア、世継ぎとおまけ)というやつで、正妻との間に、最低2人、男児がいると、もし、世継ぎに何かあっても、おまけが、後を継ぐことができる、まあ保険みたいなものですね。実際、エアであったアーサーは若死にしてしまうので、スペアであったヘンリーが無事、ヘンリー8世として後を継ぎます。
ホワイトホール壁画内、ヘンリー7世の下には、ヘンリー8世が、腰に手を据える、お馴染みの、おおいばりポーズで立っています。その横には、3番目の妻のジェーン・シーモア。絵が描かれていた段階では、彼女は、エドワードを身ごもっていたのではないかとされますが、無事、世継ぎを生んだ彼女は、産後間もなく死亡。
真ん中に描かれている記念碑には、ヘンリー7世はすばらしい王であったが、ヘンリー8世は更にすばらしい、と、こちらも、やはり、おおいばりの記述が書かれてあるとの事。
上の絵は、1545年に描かれた、ヘンリー8世の家族(The Family of Henry VIII)。真ん中にヘンリー、左は世継ぎのエドワード(後のエドワード6世)、そして右手には、もう死んでしまっているジェーン・シーモア。この絵の描かれた当時のヘンリーの妻は6番目のキャサリン・パーであったのですが、やはり世継ぎを残した女性が、6人の嫁さんたちの中でも、ヘンリーにとっては一番重要であったのでしょう。
更に左側に立つ女性は、最初の妻キャサリン・オブ・アラゴンの娘のメアリー(後のメアリー1世)、右側に立つのが、2番目の妻アン・ブリンの娘エリザベス(後のエリザベス1世)となります。
チューダー王朝時代の、イングランドにとって、一番大きな出来事は、やはり、ヘンリー8世が、アン・ブリンと結婚したいばかりに、ローマから決別をして、王を長とするキリスト教会である、イングランド国教会が確立された事でしょうか。今まで、ローマ法王を絶対とするカソリックのキリスト教というもので繋がれていた大陸との絆が切れ、独自の展開を見せていく事になります。
また、王朝が始まった当時は、まだ、ヨーロッパの大国、スペインや、神聖ローマ帝国、フランスなどに比べ、2軍的イメージのあったイングランドが、軍艦の建造に余念が無かったヘンリー8世の時代から、後に、海の帝国となる下地が築かれて行きます。やがては、インドを支配する事となるイギリス東インド会社が、エリザベス女王から特許状を得るのが1600年。また、エリザベスの時代に、上記シェイクスピアの活躍が始まり、イギリスのルネサンス文化が開花となります。
いずれにせよ、我々が、過去のイングランドを思う時、そのイメージは、このチューダー王朝によるところが多い感じです。
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