酸素の発見

酸素を初めて発見したのは、今では、1771年、スウェーデン人薬剤師カール・ウィルヘルム・シェーレとされています。彼は、この気体の中で、火が良く燃える事から「火の空気」と呼ぶのですが、発見をすぐに学会に発表せず、しかも、実験結果を、スウェーデン語のみで記載。よって、彼の発見は、長い間見過ごされてしまっていたのだそうです。教訓:何かを発見したとき、考案したとき、できる限り多くの人が使う言語を用いて、即、発表する事。でないと、無視されてしまいます。

よって、スウェーデンで、静かに生活していたカール・ウィルヘルム・シェーレに、世界は気付かず、酸素の第一発見者としての地位は、イギリスのジョセフ・プリーストリー(Joseph Priestley)と、フランスのアントワーヌ・ラヴォアジエ(Antoine Laurent Lavoisier)の間で戦われる事となったのです。

ジョセフ・プリーストリー
シェーレの実験の数年後、1774年の夏、シェーレが発見した気体の存在をまったく知らずに、ジョセフ・プリーストリーは、パウダー状の水銀灰(酸化水銀、HgO)に陽光を集中させてあてる実験を行います。それによって発生した気体の中では、火が良く燃え、さらに、その気体の中にネズミを入れると、元気にかけまわるのに着目。自分で、この気体を深呼吸してみると、なかなか気分爽快。プリーストリーは、当時、認められていた「フロギストン説」(phlogiston theory)を信じていたため、この気体は、フロギストンを一切含まない「脱フロギストン空気」(dephlogisticated air)である、とするのです。

先へ進む前に、ここでちょっと、フロギストン説について書いておきます。

フロギストン説(phlogiston theory)

18世紀前半、ドイツ人の医師ゲオルク・エルンスト・シュタールが考案した説。
 
物体を燃焼させる時、固体内に含まれていたフロギストンと呼ばれる、無臭、無色、香りも、味も無いものが、空気内に放出される。フロギストンが飽和状態になると、空気は、もうそれ以上フロギストンを吸収する事ができなくなり、その中では、ろうそくの火も消え、ネズミも死に、よって、フロギストンが飽和状態の空気は、悪い空気であるとされる。更には、木などが燃えて、フロギストンを排出した後に、残った灰は、フロギストンを失ったことによる、木の純粋なる姿と考えられていた。
 
このフロギストンというものの存在が一般に信じられていたため、ジョセフ・プリーストリーは、水銀灰を熱した事によって得た気体を、フロギストンを一切含まない空気であると解釈し、「脱フロギストン空気」(dephlogisticated air)と呼ぶのです。

という事で、プリーストリーは、この「脱フロギストン空気」を、イギリスのロイヤル・ソサイエティー(王立科学協会)で発表。その後、1774年10月にに、パリを訪れた際、フランスの著名化学者アントワーヌ・ラヴォアジエの前で、この水銀灰を使った実験を行って見せるのです。

アントワーヌ・ラヴォアジエ
化学実験の際に、実に綿密な計量を行った事でも有名なアントワーヌ・ラヴォアジエ。彼は、リンや硫黄などを熱した際に、双方ともの計量が重くなる実験などから、物質が燃焼した時、フロギストンが放出されるのならば、なぜ、その固体が逆に重くなるのか、とフロギストン説に懐疑的な態度をしめしていたのです。プリーストリーの水銀灰の実験を見、この後、自ら同じ実験を行い、やがて、これは「脱フロギストン空気」ではなく、水銀灰から放出された、別の気体であると気付き、後に、ラヴォアジエは、空気には二種類あると結論するのです。ひとつは、金属と結合し、生物の呼吸を支え、燃焼を起こす空気(「oxygene」と命名)、ひとつは、呼吸が維持できず、燃焼が起こらない空気(「命が無い」のギリシャ語から取って「azote」と命名)。フロギストン説は大間違いである、とフロギストン説否定攻撃をかけるのです。

酸素の発見に関し、ラヴォアジエは、プリーストリーの名には一切触れず、プリーストリーを怒らせたと言います。ラヴォアジエは、自分の酸素の発見は、プリーストリーと同じ時期だ、と譲らなかったようですが。いずれにせよ、ラヴォアジエとは裏腹に、プリーストリーは、生涯、頑なにプロギストン説を信じ続け、自分が発見したものは、「脱プロギストン空気」であるという考えを捨てられなかったようです。

フロギストン説を過去のものとしたものの、ラヴォアジエの酸素の解釈に関する間違いは、酸素はほとんどの場合、酸に含有されている気体であるとしたこと・・・これによって、彼は、この気体を、oxygene(ギリシャ語で「酸を作るもの」の意味)と名づけたわけです。英語はoxygen。日本語でも、酸のもと=酸素ですもんね。現在も、その少々間違った名で呼び続けているというのも、すごい話です。誰かが、現代にいたるまでの過程で「これは名前変えた方がいいぞ。」と思わなかったのか・・・。もっとも、酸素、酸化、オキシジャンなどと、何気に、頻繁に使っている言葉が、なぜ、そう呼ばれるのかなどと、わざわざ考える事もあまり無いですが。

さて、酸素に関わった二人の化学者の運命は、1789年に起こったフランス革命で下降を辿ります。リベラルな傾向があったものの、非常に金持ちで、税金徴収業も行っていたラヴォアジエは、恐怖政治の真っ只中で、ギロチンにかけられてしまうのです。フランス革命が始まった段階で逃亡すれば良かったのに、革命後の政権が、あんなにも理不尽で、無茶苦茶なものになるとは思っていなかったのでしょうね。革命などと言うと、何か、理想的で輝かしいもの、の様なイメージもありますが、実際、究極の考え方をする人間、個人的な過去のうらみつらみを晴らそうとする人間などなどが、ぼこぼこ浮上して、「自由、平等、博愛」どころか、「こんなはずではなかったのに・・・」のような惨状を作り上げたりするものです。

一方、フランス革命の飛び火を恐れたイギリス政府は、国内で問題を起こしかねない不安分子の抑圧を始めます。非イギリス国教徒であり、反体制体質、アメリカ独立を支持し、妙な実験を行う事で怪しまれていたプリーストリーは、トーリー党により煽られたという暴動により、バーミンガムにあった家と研究室を焼かれ、身の危険を感じてアメリカへと亡命し、アメリカで静かに余生を送る事となります。両国とも、国にとって有用となりえる貴重な脳みそを失って終わったのです。ラヴォアジエがギロチンになった後、友人であった数学者ジョゼフ・ルイ・ラグランジュが、ラヴォアジエの死を嘆いて綴ったとされる言葉は、「(革命政府は、)彼の頭を、ほんの一瞬で切りおとしてしまったが、100年経っても、あのような頭脳は、再びフランスに生まれれてこないかもしれない。」

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