アン・ハサウェイのコテージ
おとぎ話に出てくる様な、わらぶき屋根の家、アン・ハサウェイのコテージ(Anne Hathaway's Cottage)。現在、「アン・ハサウェイ」とタイプしてインターネットで検索すると、米女優のアン・ハサウェイのエントリーの方が圧倒的に多い感じですが、このコテージに住んでいたアン・ハサウェイはハリウッド女優では無く、ウィリアム・シェイクスピアの奥さん。
アン・ハサウェイの実家であった、このコテージがあるのは、大変な人ごみのストラトフォード・アポン・エイヴォンの町中から、1マイルほどの集落、ショタリー(Shottery)。この周辺の方が、シェイクスピアが生きた時代のストラトフォードをしのばせるものがあるかもしれません。ついた時に、駐車場にとめられていた車は、ほんの3,4台。もっとも、バス用駐車場には、団体さんツアー用のバスが何台かとまっていましたが。
裕福な農家だったハサウェイ家は、シェイクスピア家とは仲が良く、もともと交流があったようです。1582年の夏は、大豊作の年だったということで、ハサウェイ家も、収穫が終わった後、お祝いに飲んで食べてのお祭り騒ぎをし、そこへシェイクスピア一家も招かれたのではないかという話です。当時18歳のウィリアムと、26歳のハサウェイ家のアンは、そんな機会にできてしまったんでしょうか、この大収穫から9ヶ月後に長女のスザンナが誕生しています。
妊娠があからさまになる前に、二人はできちゃった結婚をするわけですが、当時は、クリスマス時期は結婚が許されなかったとかで、あわてて11月に結婚。新婚夫婦は、ストラトフォードのシェイクスピアの生家に、シェイクスピアの両親と共に同居する事となります。そして、2年後には、今度は双子の、男の子と女の子(ハムネットとジュディス)が誕生。ハムネットは、11歳のときに死亡してしまいますが、ジュディスは、77歳と当時にしては長寿をまっとう。長女スザンナは後に、医師であったジョン・ホールと結婚。
アンという人がどういう女性だったかは、ほとんど記録に残っておらず、わからないようです。
アンが住んでいた時代のコテージは、現在のものより小さく、後に、アンの兄の所有になってから拡大されています。1892年に、コテージと内部の家具等を、シェークスピア・バースプレース・トラスト(シェイクスピア生誕地保存協会)が購入した時には、ハサウェイ家の遠縁の子孫が、まだ、ここに住んでいたそうです。
訪れた時、庭には、まだ、チューリップが咲いており、庭師の女性が1人、マイペースで働いていました。そろそろ、夏の花を考える時期か。おみやげに買ってきたカタログ内の写真には、コテージは背の高い夏の花に囲まれていました。高給ではないかもしれませんが、地元に住んでいたら、「こういう歴史的な場所での庭仕事、いいよな。」といつも思います。
アン・ハサウェイのコテージの土産物屋で、私の母親は、彼女が日本で経営しているアマチュアおばさん劇団(というより、おばあさん劇団)のメンバー用に、消しゴムのお土産を大量に購入していました。本の形をし、シェークスピアの顔がかかれ、その下には、シェイクスピアの生まれた年と死亡の年(1564-1616)が書かれてありました。前回の投稿にも書いたよう、母は、このウィリアム・シェイクスピアの生誕と死亡の年を、「人殺しいろいろ」と語呂合わで覚えるといいと発見し、それは何回も、その事を私に繰り返していたのですが、この消しゴムをあげる時に、皆にまた、「人殺しいろいろ、って覚えるんだよ!」とスピーチできると喜んでいました。おかげ様で、私も、この年号は、死ぬまで忘れないでしょう、あれだけ、聞かされたから・・・。これを読んでいる人も、嫌でも覚えてしまうかもしれませんね。消しゴムは、30個近く買ったので、だんなは、「数多く買うから、値引きしてもらえるかも。おいらにまかせろ。」と、消しゴムを山ほど手に抱え、レジの姉さんに、「こんなに買うんだけど、割引ないの?」姉さんは、「ええーと、私営のお店で無くて、一応、ミュージアムなので、ちょっとむずかしいですね。」と丁重にお断り。それはそうでしょうね・・・。
道を渡ったところにショタリー・ブルックという小川がちょろちょろと流れています。この脇にコテージを望めるカフェがあったので、ここで紅茶と軽食を取りました。食べ物のお味は、いまいち(というより味がなかった・・・)でしたが、憩いのひと時には抜群の場所。
わずか1マイルの距離ですので、ここから、ストラトフォード・アポン・エイヴォンまでは、30分弱で歩けるようです。時間があったら、それも良いかもしれません。その昔、名をなす前の、若き日のウィリアムが、ストラトフォードから、アンの住むコテージへ歩いた様子を思い浮かべながら。
アン・ハサウェイの実家であった、このコテージがあるのは、大変な人ごみのストラトフォード・アポン・エイヴォンの町中から、1マイルほどの集落、ショタリー(Shottery)。この周辺の方が、シェイクスピアが生きた時代のストラトフォードをしのばせるものがあるかもしれません。ついた時に、駐車場にとめられていた車は、ほんの3,4台。もっとも、バス用駐車場には、団体さんツアー用のバスが何台かとまっていましたが。
裕福な農家だったハサウェイ家は、シェイクスピア家とは仲が良く、もともと交流があったようです。1582年の夏は、大豊作の年だったということで、ハサウェイ家も、収穫が終わった後、お祝いに飲んで食べてのお祭り騒ぎをし、そこへシェイクスピア一家も招かれたのではないかという話です。当時18歳のウィリアムと、26歳のハサウェイ家のアンは、そんな機会にできてしまったんでしょうか、この大収穫から9ヶ月後に長女のスザンナが誕生しています。
妊娠があからさまになる前に、二人はできちゃった結婚をするわけですが、当時は、クリスマス時期は結婚が許されなかったとかで、あわてて11月に結婚。新婚夫婦は、ストラトフォードのシェイクスピアの生家に、シェイクスピアの両親と共に同居する事となります。そして、2年後には、今度は双子の、男の子と女の子(ハムネットとジュディス)が誕生。ハムネットは、11歳のときに死亡してしまいますが、ジュディスは、77歳と当時にしては長寿をまっとう。長女スザンナは後に、医師であったジョン・ホールと結婚。
アンという人がどういう女性だったかは、ほとんど記録に残っておらず、わからないようです。
アンが住んでいた時代のコテージは、現在のものより小さく、後に、アンの兄の所有になってから拡大されています。1892年に、コテージと内部の家具等を、シェークスピア・バースプレース・トラスト(シェイクスピア生誕地保存協会)が購入した時には、ハサウェイ家の遠縁の子孫が、まだ、ここに住んでいたそうです。
訪れた時、庭には、まだ、チューリップが咲いており、庭師の女性が1人、マイペースで働いていました。そろそろ、夏の花を考える時期か。おみやげに買ってきたカタログ内の写真には、コテージは背の高い夏の花に囲まれていました。高給ではないかもしれませんが、地元に住んでいたら、「こういう歴史的な場所での庭仕事、いいよな。」といつも思います。
アン・ハサウェイのコテージの土産物屋で、私の母親は、彼女が日本で経営しているアマチュアおばさん劇団(というより、おばあさん劇団)のメンバー用に、消しゴムのお土産を大量に購入していました。本の形をし、シェークスピアの顔がかかれ、その下には、シェイクスピアの生まれた年と死亡の年(1564-1616)が書かれてありました。前回の投稿にも書いたよう、母は、このウィリアム・シェイクスピアの生誕と死亡の年を、「人殺しいろいろ」と語呂合わで覚えるといいと発見し、それは何回も、その事を私に繰り返していたのですが、この消しゴムをあげる時に、皆にまた、「人殺しいろいろ、って覚えるんだよ!」とスピーチできると喜んでいました。おかげ様で、私も、この年号は、死ぬまで忘れないでしょう、あれだけ、聞かされたから・・・。これを読んでいる人も、嫌でも覚えてしまうかもしれませんね。消しゴムは、30個近く買ったので、だんなは、「数多く買うから、値引きしてもらえるかも。おいらにまかせろ。」と、消しゴムを山ほど手に抱え、レジの姉さんに、「こんなに買うんだけど、割引ないの?」姉さんは、「ええーと、私営のお店で無くて、一応、ミュージアムなので、ちょっとむずかしいですね。」と丁重にお断り。それはそうでしょうね・・・。
道を渡ったところにショタリー・ブルックという小川がちょろちょろと流れています。この脇にコテージを望めるカフェがあったので、ここで紅茶と軽食を取りました。食べ物のお味は、いまいち(というより味がなかった・・・)でしたが、憩いのひと時には抜群の場所。
わずか1マイルの距離ですので、ここから、ストラトフォード・アポン・エイヴォンまでは、30分弱で歩けるようです。時間があったら、それも良いかもしれません。その昔、名をなす前の、若き日のウィリアムが、ストラトフォードから、アンの住むコテージへ歩いた様子を思い浮かべながら。
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